あじさい小町
4年前に書いた小説を供養(´・ω・`)
行灯のやわらかな明かりが畳敷の茶室を仄赤く照らしている。開け放たれた障子の向こう、あじさいの咲き乱れる中庭はひっそりと宵闇に包まれて、時折吹き込んでくる夜の匂いが夏の晩の静けさを引き立たせる。私は手のひらのなかの駒を握りしめ、茜に気づかれないように深く息を吸い込んだ。狭くて、しかし暖かい茶室。床の間には墨絵の掛軸と、それから雉の剥製が優美に佇んでいる。回廊に続く襖は閉じきられ、狐や天狗の面がかけられる土壁には私と茜の影が大きく映し出されている。いくつかの装飾と、そのほかにはなにもない簡素な茶室だった。茶器や茶筅など、茶をたてる道具すらない、私や茜、藤村さんにとってはただ将棋を指すためだけの空間。
ぱちりと鋭い音が響き渡り、将棋盤の周りに群れていた金魚が一斉に四散した。ひらひらと空中を漂う金魚たちは、行灯の光を受けて黄金色に輝いている。私はおもむろに盤の上に視線を落とし、盤上の趨勢を確認する。
「葵?」
茜が怪訝そうな表情で私の顔を覗き込む。
「うん」
私は小さく返事をして、群青色の着物の袖を手で押さえながら銀をひとつ前に進めた。丸い眉をひそめ、ふわりと柔らかい髪の毛が包むかわいらしい顔に戸惑ったような表情を浮かべて親友は口を開く。
「変わらないね、葵は」
茜の白い指先が私の歩をつまみ上げ、それから同じ位置に桂を指す。
「なにが?」
「いつも居飛車で。葵、ここにきたときからそうだったね」
……そういわれればそうかもしれない。確かに私は居飛車以外で将棋を指したことがない。でもそれはたぶん、小学生の頃からそうだったせいだろう。
「そうかな、……そうかも」
歩を打ちながら、私は曖昧に肯定する。私はまだ将棋で茜に勝ったことがなかったけれど、おそらくそれは私が居飛車にこだわっているせいなのだろうと思う。だからといっていまさら指し方を転向しようとも思わないけれど。
「覚えてる? 葵がここに初めてきたときのこと」
茜が着物と同じ、茜色の扇子をはたはたと扇ぎながら訊ねてくる。
「うん」
もちろん覚えている。ちょうどいまから一年前のこと、こちらに迷い込んで藤村さんとはぐれてしまった私を連れ込んで、茜は将棋を指そうと持ちかけた。数年ぶりの将棋でほとんど素人並みの私を、茜はこてんぱんに叩きのめしてくれたのだ。茜がいっているのはそのことでないにしても、いま考えてもあれは実にひどい仕打ちだったと思う。
「葵、あのときと比べたら、すごく強くなった。将棋の腕も、心の持ち方も。……本当だよ?」
途中から私が疑るような視線を向けると、茜は真面目な顔で付け加えた。「そう、かな」おだててもなにも出ないよ、と胸のなかでそう補って、茜が銀を進めるのを尻目に見ながら私はぼんやりと中庭の風景を眺めやった。真っ暗な宵闇のなかで、あじさいの垣の輪郭がおぼろげに浮かび上がっている。あじさい……私のいっとう好きな花。
私の視線を追って、茜があじさいの垣に目を向ける。
「葵って、最近どことなく咲に似てきたよ。落ち着いた雰囲気っていうか、……すごく大人になった」
茜はそういうが、決してそんなことはないと思う。確かに咲――藤村さんに、着物での立ち振舞いや昔ながらの所作を教えてもらったりはしているけれど、それで私になんというか、大人の貫禄とか、そういうものがついたとはとうてい考えられない。
私がきまりの悪さからそう告げると、茜はこちらを振り向いて首を振り、「そうじゃなくて、」と真面目な顔をして話しはじめる。
「あのさ。葵は自覚してないと思うんだけど、葵は成長してるんだよ」
「成長?」
「うん。将棋の腕とかそういう意味じゃなくて、なんというか、大人びてきたんだと思う。……葵、こっちにきてよかった?」
私は力強く頷いた。たとえ『生きて』いたとしても、クラスメイトにいじめられたり家族に空気のように接されるよりも、こちらのほうが以前よりはるかに温かくて幸せだと断言できる。それはたぶん、生き死にの定義の問題じゃない。人間の生というものは、生死の定義によって決まるものではないのだから。
茜はふっと微笑んで、私の両頬に手を当てた。着物の袖口から、ふわりとお線香の匂い……藤村さんと同じ匂いが漂う。
「葵がそう思うのなら、葵はこっちにきてからたくさん得るものがあったということ。葵は成長したんだよ。咲が大人びて見えるのは、咲がたくさんのことを学んできたから。人間はね、どんな環境でも成長することができるんだ。私はたまにそのことがうらやましくなるの。見てのとおり、私はもうずっとこのままだからね」
茜が指差した先、彼女の頭には、ちょこんと尖った獣の耳がふたつ。腰から生やしたきつねの尻尾を畳の上でぱたぱたとさせながら、茜は悲しそうにいった。私は急になんだかひどくいたたまれない気持ちになって、茜の視線から顔を逸らした。
私と茜の間に緩やかな沈黙が流れる。行き場をなくして虚空をさまよう私の目線を、床の間に佇むひどくまっすぐな雉の瞳が受け止めた。黒々と口を開けた、しかしちろちろと小さな灯をたたえた、まるで深淵を見詰めているようなまなざし。
――いつまでもかつての常識ににすがりついていなさんな。
無機質でつやつやした表面は、言外にそんなふうに告げているようにも見える。雉の瞳から視線を引き剥がし、私は再び茜の顔を見据えた。
「でも、私が成長しても、私の将棋は変わらないよ。きっと」
私が励ますようにいうと、茜は一瞬きょとんとした表情になったあと、ぷっと吹き出した。
「……あはは、確かにね。でも将棋は変えてもらわないとこまるなぁ……。いい加減飽きるもの」
それから茜は座布団の上で姿勢を崩し、私たちの周囲にたゆたう金魚の群れを扇子で撹拌した。
「庭に葵を植えるわけにもいかないしね」
障子窓の外、徐々に明るくなりつつある中庭に目を向けて、茜はぽつりと漏らした。茜と戯れていた金魚たちはつぎつぎと、あじさいのがくや葉についた朝露を舐めに浅葱色の空へと旅立っていく。将棋を指すにはいささか暗すぎる薄明かりのなか、私はそのひどく幻想的な風景を、ただじっと黙って見詰めていた。
――もしかしたら私は単に、照れくさかっただけなのかもしれない。
茜はふうとため息をつき、「う……ん」気持ちよさそうに背筋を伸ばす。茜には悪いけれど、そうするときの茜はやはりすごくきつねみたいに見える。
「葵って、なんだかあじさいの似合う大人になった。葵、なんだけどさ……」
「うん」
私が答えると、茜は静かに金で王手をかける。七十二敗目。茜はふっと顔をほころばせて、「私の勝ち」とつぶやいた。
しっとりと、ひんやりとした青草の香る早朝の空気が茶室に流れ込んでくる。
やがて白々しく、常世の宵はひそやかに更けてゆく。