32話 竜
「ねえ、ところでさ。帰り道、わかる?」
次の目的地も判明したので、さてウォルデイナの町に戻ろうと立ち上ったとき、雷華ははたと気付いた。町に戻る道がわからない。
「そ、それは……」
ルークも言葉に詰まる。それもそうだろう。この湖に来れたのはあの双子に教えてもらったからで、それまではさんざん森をさ迷っていたのだ。ここから町まで戻れるなら、そもそも迷いなどしていない。
「しまったな、あの双子に帰り道も聞いておくべきだったわ」
雷華は額に手を当てながら天を仰いだ。今さら何を言っても遅いのだが、つい本音が出てしまう。だが、ここでじっとしていても仕方ない。
「……とりあえず、歩き出す? 今はまだいいけど、陽が落ちたら真っ暗になって歩けなくなりそうだし」
野宿も出来れば避けたいと、雷華は歩きはじめることを提案した。
「それはそうだが、また迷うのではないか?」
「かもね。だけど真っ直ぐ歩けば森からは出られるんじゃない? それにまた人に会えるかもしれないし。ま、なんとかなるでしょ」
「ライカは楽天家なのだな」
「む、前向きと言って欲しいわね。さ、行くわよ」
「ああ」
太陽が真上から落ち始めてしばらくしたころ、雷華とルークは湖を離れ森の中へと入った。邪魔な草木をかき分け、ひたすら真っ直ぐ進む。
その結果、およそ一刻半の後、辺りが暗闇に包まれる少し前、雷華とルークは奇跡的に森から出ることが出来た。
「無事に帰ってこれた!」
ウォルデイナの町の灯りを見て思わず眼から液体が零れそうになる。それをぐっと我慢し、さあ宿に行くぞと歩き出そうとすると、背後から何かが羽ばたいているような、ばさっばさっという音が聞こえてきた。鳥にしては大きな音だと思い、雷華が振り返ると、夕闇の中、遠くの方から何かが飛んでくるのがぼんやりと見えた。その何かは、あっという間に町に近づいてきて、彼女の眼の前までくると地面に降り立つ。翼による風圧で雷華の長い髪と外套が強くはためいた。
「わっ」
顔に当たる風を腕で遮ってなんとか耐える。風が静まり顔を正面に戻した瞬間、雷華は目の前にいるモノを見て腰が抜けそうになった。
「な、な、ななな」
それは簡単に言うと、翼の生えた蜥蜴が巨大化したような生き物だった。見上げるほどに大きい。鈍色の身体にはびっしりと堅そうな鱗があり、口の中は鋭く尖った牙が光っている。眼が合ったら食べられるんじゃないかと、雷華は未知の生物を前にして生命の危機を感じたのだが、幸いなことにそれは杞憂に終わった。その生物には人が乗っていたのだ。
「ヴィシュリ、呼ぶまで外で待っててくれ」
その人物は背中から飛び降りると、生物に話しかける。ヴィシュリという名前らしい生物は、どすどすと地響きをたてて町の入口から離れていった。
「驚かせてすみません。急ぎの用があったもので。怪我はありませんか?」
生物の飼い主らしい人物は、呼吸も忘れて放心している雷華に、申し訳なさそうにしながら近寄ってくる。緑銀の髪に透き通った碧眼の、二十歳くらいの爽やかな青年だった。白い軍服のようなものを着ている。
「は、はい、大丈夫です。驚きすぎて心臓が止まるかと思いましたけど」
(食べられるんじゃないかとも思いましたけど)
雷華は心の中で付け足した。
「本当にすみません。でもヴィシュリ、あの翼竜はとても大人しいんですよ。っと、もう行かないと。では、失礼します」
青年は敬礼のような動作をしてから町の中心へと、風のように走り去って行った。
(ヨクリュウ? そうか、あれが翼竜なのね)
「今の男は騎士だ。おそらく伝令だろう」
足元でルークが教えてくれる。だが、残念なことに雷華の耳には届いていなかった。彼女の頭の中は、空飛ぶ巨大トカゲ、翼竜のことで埋め尽くされていた。
「あの人何を伝えに来たのかしら?」
『水辺の輝石』に戻って豪華な夕食を食べて一息ついたあと、改めてルークから先ほどの彼の正体を聞いた雷華は、疑問を口にした。手には葡萄酒が入ったグラスを持っている。身体が酒を欲していたので、シュナンに頼んで持ってきてもらったのだ。
「さあな。だが重要なことなはずだ。ライカ、俺も飲みたいのだが」
「もしかして伯爵が捕らえられたのかしら。犬がお酒なんて飲んで大丈夫なの?」
「あり得る。おれは人間だぞ」
「だったら嬉しいんだけど。うーん、少しだけだからね」
自分の持っていたグラスをルークの顔に近づける。飲みやすいようにグラスを少し傾けると、彼はぺろりと葡萄酒を舐めた。そして味を確かめると、今度はがぶがぶと飲み始める。あっという間にグラスを空にしてしまった。
「美味かった」
「少しだけって言ったのに。具合悪くなってもしらないわよ」
満足そうに目を細めるルークにそう言うと、風呂に入るために隣室に移動する。森を歩き回った疲れを癒し、さっぱりして戻ってくると、ルークがソファの上に横たわりぴくりとも動かなくなっていた。慌てて傍に近寄ると、呼吸に合わせて身体が上下している。どうやら寝ているらしい。人騒がせな黒犬に、はぁっと溜息が出る。
「まったく、驚かせないでよ」
苦笑しながらしばらくの間ルークの身体を優しく撫で、彼のふさふさの毛の触り心地を楽しむ雷華だった。




