2話 犬
どれくらい歩いただろう。暑さで雷華の意識が朦朧とし始めたころ、ようやく村のような建物が見えてきた。
「大丈夫か」
「だい、じょう、ぶなわけ、ないで、しょう。砂漠、なんて、歩いた、こと、ないん、だから」
一歩一歩足を踏み出すのに合わせて声を絞り出す。体力にはそれなりの自信があったが、もはや気力だけで歩いている状態だ。スポーツバッグの中に入っていた大きめのタオルを頭から被ってはいるが、それ一枚で防げるほど砂漠の太陽は甘くなかった。容赦なく照りつける日差しは暑いというより痛い。初めは滝のように流れていた汗も今は全く出ておらず、肌が乾燥しきっている。
(水があって本当によかった!)
雷華は心の底から普段は信じてもいない神に感謝した。
スポーツバッグの中にはジムで飲もうと入れておいた飲料水があった。それがなければとっくに倒れていただろう。
「後少しで村に着く」
黒犬が足を止めずに、首だけを雷華に向けて話しかけてくる。
彼(?)はこの暑さが平気なのか、一向に疲れた様子を見せない。それどころか、口を開け舌を出して体温調節をするという、犬なら当然の行為すらしていなかった。
(どう考えてもおかしい。いや、話せる時点ですでにおかしいのだけれど)
「なんで、平気、なの?」
どうしても気になったので聞いてみる。
「いや、暑いと感じている」
(嘘つけ!)
叫ぶ元気が残ってなかった雷華は、心の中で思い切り突っ込みを入れた。
「着いたぞ」
「……そう、ね」
建物らしきものが見えてからおよそ三十分、やっとの思いで雷華は村と思しき場所に辿り着いた。
自分でも立っていられているのが不思議なほどだ。人間死ぬ気になれば意外と頑張れるものだと、雷華はしみじみ思った。
(こいつは全然平気みたいだけど)
平然としている黒犬を恨めしそうに見る。
「どうかしたか?」
「……何でもない。それより、早く涼しい場所に行きたいわ」
雷華は村の中を見渡す。ぽつぽつと人の姿が見える程度で、活気があるような雰囲気ではない。
砂漠の隅にある村だからかもしれない。
住居と思しき建物はどれも一階建てで、石のような煉瓦のような、よくわからないが、そんな物質で建てられていた。何というか、四角い箱のようだ。
「わかった。宿に行こう」
黒犬はさっさと歩きだす。雷華は後を追いかけるが、ふと重大なことに気がついた。
(宿って、お金がいるわよね)
財布に多少の金は入っているが、どう考えても自分の持っている金で支払いが出来るとは思えない。
「あのさ、宿のお金って……」
小声で黒犬に尋ねる。人とはほとんどすれ違わないが念のためだ。犬と会話してるところを目撃されれば、頭がおかしいと思われかねない。
「問題ない」
振り向きもせずに黒犬が答える。
(大丈夫かしら)
雷華は幾分の不安を覚えつつも、とりあえず信じることにした。出会って間もない、しかも話す犬という怪しいことこの上ない人物(犬物?)を信じるなど自分でも驚きだった。
(どうしてかこの黒犬のことは信用できるんじゃないかと思うのよね……何でかしら?)
「着いたぞ」
雷華がぼんやりと考え事をしながら歩いていると、黒犬が歩みを止めた。どうやら目的地に着いたらしい。
建物を見ると軒先にベッドのような絵が描かれた看板がぶら下がっていた。文字も書かれているが、全く読めない。
「な、何語……?」
「少し待っていろ」
生まれてから一度も見たことがない複雑怪奇な文字に雷華が動揺していると、黒犬はどこかへと走り去って行ってしまった。
「ちょっと!」
呼び止めたときにはもう姿はほとんど見えなくなっていた。追いかける気力もない雷華は、荷物を地面に置いて宿屋の外壁にもたれかかった。
(はあ……疲れた……)
眼を閉じると強烈な睡魔が襲ってくる。こんな場所で寝ては駄目だと思いつつも、雷華の意識はだんだんと薄れていった。
「……い……おい、起きろ」
「……ん、んん」
犬の肉球で揺さぶられているように感じた雷華は、ゆっくりと意識を取り戻していく。
「待たせてすまない」
「いいけど、どこに行ってたの?」
欠伸をして眼を擦る。黒犬に眼を向ければ、彼の前にはリュックのような袋が置かれていた。
「これを取りにな。砂漠に行くのには邪魔だから隠していた」
「そう……もしかして、背中に背負ってきた?」
「そんなわけないだろう」
「ですよね」
顔を顰める黒犬に頷く。
彼がリュックを背負っているところがいまいち想像出来なかった。小型犬にリュックという、ある意味最強かもしれない組み合わせにも拘わらずだ。
何故だろうと考え、おそらく眼つきが鋭すぎるからだと雷華は結論付けた。
(色と眼つき以外はコーギーなのに……)
「悪いがそれを開けてくれ。中に必要なものが揃っている」
「わ、わかったわ……ぷぷ」
笑いだしそうになるのを懸命に堪えながら袋の口を開けた。触ってみてわかったがどうやら皮で出来ているようだった。何の皮かは皆目見当もつかなかったが。
「何を出すの?」
「紙と皮袋を出してくれ」
言われたとおりの物を取り出す。皮袋は、触るとじゃらりと音をたてた。中にはまだ他にも何か入っているようだった。
「はい、これね」
「ああ。袋の中に金が入っている。開けてみろ」
「はいはい」
雷華が皮袋を開けると、確かに数種類の硬貨のようなものが入っていた。もちろん初めて見る代物だ。
「二分の一銀貨……小さい方の銀貨を一枚取り出せ。そう、それだ。残りは預けるから無くさないように注意しろ」
言われた雷華は皮袋をスポーツバッグの中に入れた。リュックも持っておいてくれと頼まれたので、同様に中にしまった。
「よし、では宿に入るぞ。その紙を見せて二分の一銀貨を渡せばいい。言葉は発するな」
「わかった、紙を見せてお金を払えばいいのね」
「そうだ。相手が何を言っているかわからないだろうが、適当に頷いておけば問題ない」
「そ、そう」
本当に大丈夫なのだろうかと思いつつも、雷華は宿の扉を開け、中へと入った。