1話 始
「あつっ!!」
気がつくと紫悠雷華は砂漠にいた。見渡す限り砂、砂、砂。上空からは容赦なく太陽が照りつけてくる。
「は……はいいぃぃっっ!?」
なぜ自分は砂漠にいるのか。どうしてこんなあり得ない状況に陥っているのか。つい先ほどまで、確かに砂漠とは無縁の都会にいたはずなのに。
暑さのせいではない汗が、いく筋も背中をつたって流れ落ちる。
雷華は必死に記憶をたぐり寄せた。
(確か……今日は久しぶりの非番だったのよね)
雷華は刑事だ。
捜査一課に所属しており、休日と言える日は滅多にない。
今日はその滅多にない休みの日で、さて何をして過ごそうかと考えた結果、ジムに行くことにした。ここ数日、書類仕事ばかりだったので身体を動かしたいと思ったからだ。
必要な物を持って家を後にし、ジムまでの道のりをのんびりと歩く。が、途中で長年愛用している竹刀袋に穴が開いていたことを思い出した。
早めに新しいのを買っておいた方がいいだろう。そう思い、雷華はジムに行く前になじみの武道具店に寄り道することにした。
『おや、雷華ちゃん、久しぶりだねえ。今日はどうしたの』
『おじさん、ご無沙汰してます。実は竹刀袋に穴が開いちゃって。新しいのを買いに来たんですよ。何かいいのあります?』
『そうかいそうかい。ああ、あるよ。雷華ちゃんにぴったりのがねえ。奥から取ってくるから少し待ってておくれ』
『はーい』
店主が竹刀袋を取りに行っている間、雷華は店内を見て回り、眼についた木刀を何気なく手に取った。
片手で小さく振ってみる。丁度いい重さで扱いやすく、買おうか少し迷った。
――思い出せるのはここまでだった。店主に呼ばれたような気もするが、定かではない。
「何で武道具店から砂漠に移動してるの? ああっもう、意味が分からない!」
記憶を辿ってもこの状況を理解するための情報は、何も得られなかった。
雷華は額に手を当て頭を振ると、とりあえずこの暑さをなんとかしようと頭に被るものがないか探すことにした。幸いにして……かどうかはわからないが、持っていたスポーツバッグは砂の上に落ちていた。すぐ横には木刀も転がっている。
「どうしよう、これって万引きになるのかしら……」
刑事としてあるまじき行為だと焦ったが、返しにいこうにもどうやって行けばいいのか分からない。
どうすれば自分のいた場所に帰れるのか。分からないことだらけで、脳みそが沸騰しそうだったが、今はこの暑さをなんとかしなければ。このままでは、脳みそどころか全身が沸騰してしまいそうだ。
木刀のことはひとまず措いておくことにして、スポーツバッグからタオルを取り出そうと地面に屈むと、自分の長い髪がさらりと顔にかかった。
「タオルタオルっと……はあっ!?」
自分の眼を疑った。黒かったはずの髪がなぜか銀色になっている。慌ててバッグに入れていた手鏡を取り出して、雷華は自分の姿を見た。
「はいいぃぃっっ!?」
鏡に写った姿は自分が知っているものとはかけ離れていた。髪も銀色なら眼も銀色。服もシャツにジーンズだったはずなのに、どこかの国の民族衣装のようなものを身に纏っている。全身をすっぽりと覆う灰色の外套に、深紅のぴったりとした長袖のシャツ。足首の部分以外だぼっとした白いパンツ。パンツを縛る帯は金色ときた。
まるでアラビアンナイトの絵本などに出てくる踊り子のようだ。
「何がどうなってるっていうのよ……いっそ夢ならいいのに」
呟いてみたものの、夢でないことは薄々わかっている。じりじりと肌を焼く強烈な日差しと、風で巻き上がる乾いた砂漠の砂。それらを嫌というほど感じることが出来るのだ。信じたくはないが、現実だと認めざるを得ない。
では、ここが現実だとしてこれからどうすればいいのか。雷華が途方にくれ始めた、その時――
「わんわんわんっ!」
どこからともなく犬の鳴き声が聞こえてきた。
(犬か。飼い主も一緒にいてくれればここがどこか聞けるんだけど。あ、でも言葉が通じないかもしれないわね)
いやしかし、人間相手ならば身振り手振りでなんとかなるはず。犬の飼い主も現れてくれないだろうか。雷華がそんな希望を抱いていると、ものすごい勢いで犬が走ってきて、彼女の前で急停止した。残念なことに他に人影は見えない。
「わんわんわんわんわん!!」
(真っ黒な……コーギー?)
雷華に向かって吠えたてる全身真っ黒な犬は、胴長で短足、耳は三角でぴんっと立っており尻尾はない。雷華のいた街でもよく見かけた、ウェルシュ・コーギ―そっくりだった。色以外は。
「君の主はどこ? 話があるのだけど」
理解してくれないよね、と思いながらも黒犬に話しかけてみる。
「わんわんわんわん!」
「やっぱり無理よね……何かいい方法ないかな」
「わんわん! ううぅぅっ!」
がぶりっ
「痛っ!」
雷華が思案していると、突然犬が彼女の左手首に噛みついた。かなり強く噛んだらしく、手首からは血が出ている。
「このっ、私を噛むとはいい度胸だわ。破傷風になったらどうしてくれるのかしら……そうだ、確か犬って食べれたわよね。今夜は犬ごはんにしようかな!」
自分の置かれた状況も忘れて、雷華はにこやかに犬を見る。眼が全く笑っていない。
「待て、悪かった! 謝るから、落ち着いてくれ!」
「もう遅い! 私を噛んだことあの世で後悔させてやる!」
そう言うと雷華は落ちていた木刀を拾い、黒犬めがけて容赦なく振りおろした。動物虐待と言われてもおかしくない行動だが、今の彼女に正常な判断を求めても無理な話だった。
混乱しながらも何とか冷静でいようと自分に言い聞かせていたのだが、黒犬に噛まれたことによって一気に感情が爆発してしまったのだ。
「っ!」
黒犬はぎりぎりのところで後ろに跳躍して木刀をかわした。
「何で避けるのよ!」
「避けるに決まっているだろうが!」
「次は外さない! ……って、あれ!? 私、犬と話してる?」
さらに攻撃をしようを木刀を構えたところで、ようやく自分が黒犬と会話していることに気がついた。爆発していた怒りが急速にしぼんでいく。
「ふうっ、落ち着いたようだな」
黒犬は人間のように溜息をつくと、雷華に近づいてくる。
「一体どういうカラクリなのかしら?」
攻撃の構えを解いて木刀を地面に向ける。風が吹いて雷華の長い髪がふわりと揺れた。
「俺がお前の血を飲んだからだ」
「何で血を飲むと会話出来るようになるの?」
「それは……」
「いえ、ちょっと待って。話を聞く前に場所を移動したい。本当は頭がおかしくなりそうだから今すぐにこの意味不明な状況を理解したいけれど、このままだと身体中の水分が蒸発してしまいそうだもの」
犬の言葉を遮って提案する。炎天下の砂漠に何の備えもなく長時間いれば命にかかわるだろうことは、都会育ちの雷華でも容易に想像がついた。
「確かにな。では村に行くとしよう」
そう言うと黒犬は、くるりと向きを変えて歩き出した。先ほどこの黒犬が走ってきた方角だ。雷華はスポーツバッグと木刀を持つと、彼(?)の後ろをついて行く。
(足、短いわね……)
とてとて歩く黒犬の後ろ姿を見ながら、しみじみ思う雷華だった。