第一話 八百神姫菜 1
第一話 八百神姫菜
「八百神姫菜。
自室の窓から景色を見ようと思えば、景色ではなく部屋が見える。それが八百神姫菜の部屋で、俺たちの関係はつまりそういうことだ。
幼なじみ。
それはともかく。窓が他人の家を向いているというのは構造としてどうなのか。窓が向かい合っていればお互いの部屋が見えてしまうし、窓がなければただの壁だ。それは窓から見える景色としてどうなのか。窓の役割としてどうなのか。建築家は一体何を考えているのか。なんだ? そう云う趣味なのか? だとしたら俺はこう云ってやりたい。グッジョ……げふんげふん。
そんな窓だから、というわけではないけれど。基本的にカーテンを窓際に寄せておく趣味のない俺としては、あまり関係ないといえば関係ない。夏はクーラー、冬は寒くて開けない。窓なんてあってないようなもの、である。本来の役割としては、だが。
ああ、大人同士よりは気まずさが少ない、と大人が判断するから幼なじみ同士は窓が向かい合った部屋をあてがわれるのだろうか。と云う理屈付け。
大人、ねぇ……。縁のない言葉だ。
身近に大人が居ないとか、運だけで生きているから大人になる必要がないとか、理由は様々だけれど。まあ、縁のない言葉だ。存在、でもいいか。
大人を知りたければ、まあバックは大人なのだけれど。金とか、ずるさとか、汚さとか、黒さとか。でもまあ。
金はともかく他は大人でなかろうとそういう人間は既にそうだ。高校生を大人とは、まあ云わないだろうから。クラスメートのみんなが綺麗な人間だとは……この先は云わないけれど。或いはその、黒くない生き方を選べる、それで露骨に敗北しないところが大人でない特権なのか。
全く関係ないが、黒いとか汚いとか今ゴキブリを想像してしまった。いや、本当、他意はない、つもりなのだけれど。貴様ら人間などゴキブリだ! とか思っているつもりは基本的にないのだけれど。虫は苦手だ……。虫と云えば。ゴキブリなり蜘蛛に、まあ俺はびびるわけだが、冷静に考えておかしくないだろうか?
ライオンに恐怖する。虎に恐怖する。熊に恐怖する。自動車に恐怖する。高い場所に恐怖する。これはわかる。ジェットコースターに恐怖する、カラスに恐怖する。この辺までもまあ危険度の問題で同種だからわかる。が、虫――ゴキブリに恐怖する。これはおかしくないか?
ライオンや虎には喰われ、熊には殺される。自動車には轢かれるし、高い場所からは落ちて死ぬ。死ぬ――そう、これは全て「自分を殺すから」怖いのだ。
ジェットコースターは事故があれば死ぬし、カラスは襲われたらちょっとやっかいだ。死ぬ、かも? くらい。けれど。
ゴキブリと戦って死ぬか? 負けるか? 傷を負うか? 恐怖は危害が加えられるから抱くものだ。雑菌? そんなもの本当に怖いか? ゴキブリにのみ付着するなんたらで死んだ人間なんて日本できいたことあるか? 熱帯の蚊じゃあるまいし。なのにどうしてゴキブリを見るとああも取り乱してしまうのだろうか? 俺は不思議で仕方ない。狼なんてどう考えても怖くて当然だが、それこそゴキブリなんて怖くない、はずじゃないか。そうわかっているのにどうして俺はゴキブリに恐怖を覚えるのだろう。
と云うようなことを、久々に空気の入れ換えという極めてまっとうな用途で使用されている自室の窓をみながら思ったのだった。
ちなみに今自室は殺虫剤の臭いとそれを打ち消す為に撒かれた消臭剤が混ざって住民に避難勧告が出されるレベルの危険度に達したので隔離地域です。バイオハザードです。臭い自体は人工物ですが大本が例のあれなので。だからこの窓は決して開けないように。臭いはともかく奴がきたら大惨事だ」
「圭祐って本当に虫苦手だよね」
「うむ」
姫菜の家に玄関という正規の手段ではいった理由を尋ねられて、俺はそう答えたのだった。
「あと無茶苦茶な言論が好きだよね。今のなんて最初から素直に虫から逃げてきたって云えばいいのに」
「きれいなジャイ○ンはジャ○アンか?」
「うん?」
「素直な俺は俺か?」
「……あ、そうだ。どうせなら一緒に晩ご飯食べる? 家には戻りたくないんでしょ?」
「何故目をそらす。何故話題をそらす。こっち見ろこっち」
「途中で全く関係ない話題に飛ぶところが姑息だよね。大人のくだりとか。まるで大人から偶然虫を連想しました風を装ってるし」
こうして飛んでおくと素で脈絡ないときも何か計算のようになる、かもしれない。大嘘をもっともらしく云うのが嘘つきである。これも嘘か? 逆も然り。何でもない風装って伏線かも知れないぜ、的な。時間は一定方向にまっすぐ進むだけ、とは限らない。何の話だか。
「まあそれはそれとして。確かに今の家に戻る気はしないな……」
虫一匹で、と思う事なかれ。本当かどうか知らないが、奴らは一匹みかけたら三十匹いるという。一対三十。比率がおかしい。そんなところに居られるか。ばらまいた殺虫剤で死骸になっていようと、じゃあその死骸はどうすればいいというのだ。貯金を崩してでもハウスクリーングを真剣に検討したいところだった。数年ぶりに見ても、やはり奴らは駄目だった。
「一見真剣だけどなんというか……ばかばかしいような……」
「お前……じゃあゴキブリ好きなのかよ……じゃあ助けてくれよ……」
「いや、嫌いだけど……」
あまりの真剣さに姫菜がちょっと引いていた。だからどうした。他人の目を気にするのは余裕のある奴だけだ! 必死なときになりふり構っていられるか! と主張すると余計可哀相なものを見る目を向けられるので云わないが。
とかなんとか。
「ふんふんふーん♪」
なんて鼻歌交じりにキッチンに立つ姫菜。ソファに座りながらその後ろ姿をぼんやりと眺める。手持ち無沙汰である。手伝おうか? などと提案はしてみたがはっきりと断られた。まあ、料理得意じゃないしな、俺。手伝わない方が味の方も信用できるというものだ。
「あ」
「え?」
なんか一秒前のモノローグをぶち破る様な声がキッチンからあがる。
「お、おい、何かあったのか?」
「いや、大丈夫だよたいしたことはない、うん」
「いや、今明らかになにかあっただろ」
「いや、全然。何にも。ほら、ちょっと塩と砂糖を間違えただけって云うか……」
「全然平気じゃねえよ!」
古典ラブコメみたいなミスすんな! 今時そんな需要はねえよ!
「大丈夫、大丈夫。ほら、私は幼なじみだからさ」
「それと料理に何の関係があるんだよ!」
「え? 幼なじみには料理スキルがあるものでしょ? 大丈夫だよ、幼なじみだから、うん。調理スキルはあるに決まってるんだよ。決まってるんだよ」
わざわざ繰り返すことで余計不安になる。いや、もしかして料理そんなに得意じゃなかったのか? 選択を誤ったのか? 自信満々な様子に騙されたのか? 料理得意だった気がするのは美化された過去なのか?
「そもそも姫菜はしっかり者系じゃなくてぽんこつ系だろ……」
「え? とんこつ系? ラーメンは味噌が好きかなぁ……」
「白々しい! そしてつまらない! 思いついたこと片っ端から云えばどれかがうけるなんて考えは捨てろ!」
リアルタイムに編集作業なんてねえよ! と自分を棚上げ。変な部分真似すんな。
「あ……」
「ちょっと待て! お前少し止まれ。というか代われ! 絶対駄目だろさっきから!」
「凛が貸してくれた小説でも、幼なじみは料理上手な娘ばかりだったから、大丈夫」
「自信の根拠はそれかよ!」
ダメ、駄目! フィクションと現実の区別はつけましょう。格闘マンガをどれだけ読んだって強くはならねえよ! ガイドブックを熟読したっててめえの舌は三流のままだよ! 流行を追うだけの奴に味だろうとファッションだろうとわかるもんか! 今それ関係ないが。勢いで話していると話題のすり替えには存外気付かれない、とかなんとか。九十九とか云う詭弁家かのたまっていた。
「むしろミスじゃないのかもしれないよ? 全然問題ないよ? 予定通りだよ?」
「それはないだろ……」
「取り戻せないミスなんてないのよっ! 諦めたらそこで試合終了だって凛が!」
テンパって虎かぶりモードになりつつあった。しかもそれ凛の言葉じゃねえ。引用だ。先生……料理が、したいです。これ以上の惨事を回避したいから。
「失敗と認めなきゃ失敗じゃないわ! 幸福なんて所詮幸福といい張ればそれだけのものなのよ!」
「勢いだけで誤魔化そうとするな」
「慌ててドジって涙目。そんな私は過去よ! ……今の私はそう、相変わらずドジって、でも開き直るのよ!」
「悪化してる! なおすところそこじゃないだろ!」
昔はこう、小動物みたいで可愛かったのに。涙目が。もっと正統派な幼なじみだったのに。環境が人を変える、というか、まあ。涙目で居られない理由もわからなくはないけれど。
「成功するまで諦めなければ最終的には成功しかしないのよ! 成功を諦めたときそれが失敗になるの!」
姫菜がどんな経緯で虎かぶりモードを作っていったのか知らないが完全に失敗だ。残念なことになっている……。
まあその残念さもそれはそれで……おっと。