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作者: 中条 眞

高校最後の作品です。一応コメディーですが、最後のあたりはシリアスです。ページ制限の都合で少々無理やり終わらせたような最後ですが、気楽に読んでください。


 時刻はきっと朝。忙しない車の走行音に、寒さ対策に防寒着を着込んだ学生と、堅苦しいスーツを着た大人たちが同じ方向へと歩いているからだ。おそらく行く先は駅、だと思われる。

 後ろから次々に人々が自分を追い抜かしていく。皆目線は前に向いており、誰一人として立ち止まっている自分を見ようともしない。いや、それが普通の人間のすることだろう。登校中または出勤中に、立ち止まる女子高生を気にして目線をよこしたり、ましてや声をかけるのは不自然だ。そう、これは当たり前のことだ。

 だけど、今猛烈に、誰でもいいから声をかけてほしかった。私は。いや、あたし? それともウチか? さて、自分の一人称は果たしてなんだったのだろうか……。

 とか言っちゃって冷静に分析してますが、マジで誰か声かけてほしいんだが。え、なにこれ軽くどころか頭の中かなり混乱してんだけど。

 私(一人称は私にした)はとりあえず、歩道の真ん中で棒立ちになっているので、フラフラとおぼつかない足取りで、道の端まで移動した。肩に下げていた妙に軽いスクールバッグを乾いた地面に置き、再度思案に暮れる。

 目の前には道行く人々と、昼間はきっと活気ある場所となるのだろう街並みが広がっている。ちなみに、私の背後はどうやらパチンコ店らしく、『新台出現!』とごつい男の絵がプリントされた宣伝の旗が、寒風にはためいていた。国道と書かれた道路に、立ち並ぶ美容院に弁当屋。きっとどこにでもある風景。そして、自分にはとても馴染みのある風景で……。

 いや馴染みもくそもねぇよ。全く見覚えねぇよ。どこだよここ。

 というか、「くそ」とか言っちゃった。私ってこんな口悪いのか? いや女の子だ、きっとそれなりにお上品なんだろうが、なんでだろう今はものすごく悪態を吐きたい気分だ。

 ……ふう。落ち着け私。なぜこうなったのかをおさらいしようじゃないか。まずは、あれだ。とりあえず――――私は誰だ?

 自分で言ってて「何この子痛いわー」って思うのだが、本気でわからない。もうほんと「ココハドコ? ワタシハダレ?」状態なんだが。

 まぁ、簡単に言うと、どうやら私は記憶喪失というものになったらしい。

 状況はたぶん登校中で、きっと駅に行く途中だったのだろう。紺色の膝頭が隠れる程度のスカートに、着崩さずに着ている同色のブレザー。触り心地のいい白黒のストライプのマフラーを首に巻いている。正直、身に着けているこれらも見た覚えがない。

 つい数分前、私はこの道に立っていた。私の混乱を余所に、周りは全く騒いでいない。つまり、交通事故等が起きて記憶を失ったわけではない。ならば、上から花瓶でも落ちてきたのだろうか。そう思い頭をさすってみたが、痛みどころかたんこぶ一つついていなかった。

 どうやら、私は登校中、本当に唐突に、記憶を失ったらしい。原因は不明。

 そこまで考え付き、唐突に自分が孤独であることにひどく寂しさを感じた。胸の奥に不安の塊でも詰め込んだかのように、心細さが襲ってきた。息の白くなる冬の気温が、その心に拍車をかけ一層寒さを感じた。思わず二の腕をさするように体を抱き込む。しかし、冷え切った手を服にこすっても、暖を取ることは叶わなかった。

 道行く人が通り過ぎる中、私はまず何をすべきかを考えた。とりあえず、この混乱した頭を少しでも落ち着かせるために、何でもいいから『自分』というものを知りたかった。私はすぐさま行動に移した。

 ブレザーとスカートのポケットを探る。しかし中身はどれも空で、次に私はしゃがみこみ鞄の中身を探りだした。

 重さからしてわかっていたが、教科書などの重いものは存在しなく、学校から配布されるだろうプリントすらない。というか、駅に向かっていたくせにどうして定期がないんだ。財布すらないぞ。若干諦め半分で、小さいポケットのほうを探ると、そこには一番期待していたものが入っていた。

 う、うをぉぉぉ!! 携帯キター! そうなんですよ、私が一番求めていたものはこれなんですよ!

 ストラップも何もついていない無機質な白い携帯が、そこには入っていた。携帯ほど『自分』を知るのに適したものはないだろう。今のご時世、携帯中毒なんてのもあるくらいだ。きっと私も携帯を暇があれば弄っていたに違いない。いやそうであってほしい! 先ほどの不安なんてものも吹っ飛ぶぐらいに安心感を持つ。これで自分の名前も交友関係も、住所だってわかるはずだ。

 嬉しさに口元を緩めながら、期待に胸ふくらましその二つ折りの機械を開いた。

『暗証番号を入力してください』

「ファッキンッ!!」

 投げた。私は携帯を投げた。あぁそうさ投げたとも。暗証番号? 知らねぇよそんなの。自分の名前も年齢すらわからないんだぞ? だいたい15から18ぐらいかな、とか思えるだけだぞ。もしかしたら留年して20歳かもしれないんだぞ。暗証番号? 記憶喪失の私に、何ハイレベルな問題要求してるんだよ。今の私にとって東大入試問題並みに難問だぞ。いや、むしろそれすらも簡単に思えてくるほど、この問題は難しいかもしれない。

 私の携帯が宙を舞う。何の思い入れも執着もない携帯が、回転しながら飛んでいく。後悔先に立たず。その言葉が浮かんだのは、2秒後だった。

 携帯は無機質な音をたてて道路の真ん中に転がった。車の行き来が激しい道路で、開いたままの携帯は「あ」と呟いたのと同時に――無情にも車に引き潰された。

「しまったあああああ!!」

 やっちまった! なんて馬鹿なことをしてしまったんだ、私は! もしかしたら携帯ショップで事情話せば、暗証番号なんてどうにかしてくれたかもしれないのに。ていうか、誰かから連絡が来てくれるかもしれないのに!

 どうしよう。手がかりなんてないし、携帯壊れちゃったし。ていうか、記憶戻ったら絶対自分殴りたくなる。携帯壊したとか、もったいない……っ!

 今手持ちにある唯一の手がかりだったものが、むなしくも粉砕され、私は地面に項垂れた。

 都合よく「あら○○ちゃん、どうしたのこんなところで」と気さくに話しかけてくれる紳士淑女はいないだろうか。いや、ここで待っていてもそんな奇跡的なことはないだろう。やはり自分で動くしか。

 そこで、私は近くを通る派手なセンスの塊をした女性に声をかけた。

「あの、すいません。この辺に病院か、交番ってありますか?」

 訝しげな視線を女性は投げかけたが、女性はすぐに答えてくれた。

「この通りをまっすぐすすんだら、タクシー停留所があるから。そこのすぐ近くに交番があるわよ」

「ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げて礼を述べれば、女性はさっさと歩いて行った。

 住所を知るのに一番うってつけなのは交番だ。この近くに私が住んでいるなら、事情を話せば教えてくれるだろう。怪しまれなければ、の話だが。

 病院のほうにも一度検査を受けたかった。でも、保険証もなければ財布すらない状態では、どうにも気が進まない。

 私は重い足取りで、女性が教えてくれた道を歩き始めた。




「君さー、大人をからかうもんじゃないよ」

「だーかーらー、本当だって言ってるじゃないですか。信じてくださいよ」

「そんなふんぞり返って言われてもねぇ。というか君態度悪いよ」 

 目の前の中年警官はひどく胡乱げな目でこちらを見ている。

 態度が悪いことは自覚してる。しかし、何度も説明しているのにもかかわらず、こうも頭ごなしに否定をされては、不機嫌になるのは仕方ないことだと思う。

「信じてくれれば態度もよくなりますよ。さぁ、私の住所を寄越せ」

「警察の前でこんな高圧的な女子学生、おじさん初めて見たよ」

「私の住所をくださいませ、お代官様」

「それ、仮にも警察に使う名詞じゃないよね。むしろ悪役だよね」

 正直信じてもらえない気持ちも理解できる。自分だって突然ガラの悪い学生がやってきて「記憶無くなっちまったぜ」と半笑いでやってきたら、絶対信じない。たぶん「消え失せろ!」とか言って追い出す。

 適当にあしらう感が否めない彼は、しつこい私に嫌気がさしたのか、深いため息を吐き携帯を取り出した。二つ折りの携帯を私の目の前に構え、「1+1は?」「にー」と間抜けにも思わず答えてしまったのは、反射的なものだろう。

 携帯の扱いに慣れてないのか、ぎこちなく両手で機械を弄る姿は何やら親近感を抱いたが、私はすぐさま「ちょっと待った」と手のひらを相手に突き出した。

「ちょお、おっちゃん。人の写真を何に使うつもりですか。答えによっては警察に突き出しますよ」

「よし逮捕は任せてくれ。何しろここは交番でおじさんは警官だからね」

「私はあなたが警官だなんて信じませんよ」

「信じる心は人を救うんだよ。おじさんを信じなさーい」

 どこかの怪しい宗教団体の教祖を気取るような、いかがわしい物言いだったが、高齢者用の「らく○くホン」がどうにも言葉とミスマッチだった。

 訝しげに相手を見据えていると、ボタンを押すたびに「よいしょ」やら「ポチっとな」だとかを呟いていた口が閉じ、私に目線をやったことで一連の作業を終えたことを知る。目線を受け、写真の用途を再度尋ねようとしたところ、鈍い携帯の振動音によってそれはさえぎられた。

「お、早いな」と呟くが、決してその音を待ち焦がれていたという様子は無く、むしろその速さに不快を示しているかのように嫌気の表情をしていた。「僕ね、今年23歳になる息子が一人いるんだけど」関連性の見えない話題を話し始め、彼は携帯を両手で閉じた。

「はぁ」と気の抜けた返事をする。

「今から、そいつ来るから」

 なんで、と問う前に、私の後ろ手にある交番の入口から、すさまじい摩擦音が聞こえてきた。

「僕にヘルプを叫ぶ女子高生はどこですかああああ!!」

 コンクリートで固められた地面にブレーキ跡を残す勢いで、その男は登場した。中肉中背の体型をした男は、きっと自分のできる限りさわやかな笑顔を向けていたのだろう。しかし、全速力で走ったと思われる汗だくで引き攣った顔に無理やり笑みを浮かべている様は、必死すぎて爽やかさとは程遠い、むしろ暑苦しい見かけだった。

 というか、必死すぎてキモい。さらに発言がなんだか変態臭を醸し出していて、気持ち悪さが一層引き立っていた。

 強烈な登場を演出した男にドン引きしている私を見つけると、男は鼻息荒く詰め寄った。

「あぁ、君が記憶喪失になったっていう子かい? なんてかわいそうに、自分が何者かもわからずにひどく狼狽して心底心細かったんじゃないのかい? 全く、人生とは不思議なことが起こるものなんだね。ああ、そんな怯えた顔をしないでくれ。大丈夫だ、僕が来たからには君の不安など、跡形もなく消し去ってあげよう。さながら3年間思いを寄せた異性にいざ告白しようとして実はホモだったという事実に気付いた時の乙女心が一瞬にして凍りつき侮蔑の感情が沸き起こるほどの素早さで、君の不安を僕が拭い去って差し上げようじゃないか!」

 ノンブレスで言い切った男に、私はドン引きだ。思わず警官の後ろに隠れ「お巡りさん、あの人変態です」と言ってやったぐらいだ。

「ああ、ビートルズの名曲『ヘルプ』の歌詞に出てくるような助けを僕に求めたのにもかかわらず、僕を突き放すとは。全く思春期の女子高生というのは、小悪魔だね。そうやって気があるそぶりを見せつけて僕を翻弄しようとでもいうのかな? そのひらめくスカートを揺らめかして時折見せる白い足は確かに僕の心を揺さぶり動揺させるが、僕は君の心の叫びに召喚されたいわば君のナイトであるがために、鋼鉄のような理性で君を守りそしてつくしてあげよう。女子高生の生足ハァハァ」

 どうしよう、内容が理解できない。いや理解したくもないのだが、あまりにも支離滅裂すぎる言葉の羅列は、私をただ怯えさせた。なにこれ怖い。

 今だ意味不明な言語をしゃべりつくす男を無視し、男と私の間を阻む壁となっていた警官が、こちらを向いて心底不快そうな声音で言った。

「これ僕の息子」

「……心労お察しします」

「ありがとう。――というわけで、コレが君を家まで届けてくれるから」

「聞き捨てならない言葉が今あなたの口から発せられた気がしたんですが、もちろん冗談ですよね?」

「本気」

 にこやかに言い放った警官から、私は視線を今だしゃべり続ける男に向けた。

「やめてください、あれはガチな変態です!」

「そうさ! 僕は女子高生が大好きな変態、その名も明彦君だよ!」

「おまけに家に寄生する害虫、別名ニートなんだ」

「パパ辛辣!」

「ちょお、マジで言ってませんよね。こんな超ハイテンションな変態に女子高生差し出すとか、生肉ドレス着たレディー・○ガをサファリパークのど真ん中でライブさせるぐらいの危険性がありますよ」

「そのライオンさながら、僕は涎を滴らせて君を見つめようじゃないか!」

「その目玉に硫酸ぶっかけんぞ!」

「わお、ご褒美いただきました!」

 変態な上にドエムだなんて、救いようがないニートだ。

 縋り付き涙目でやめてくれと懇願する私に、警官の制服を着たおじ様は無情にもこう言い放った。

「この変態と一緒に30分もいたら、気が狂って逆に記憶を取り戻すんじゃないのかな? こんな変態を押し付けられたくなかったら、二度と大人をからかうんじゃないよ」

 この大人最低だ、と本気で思った瞬間だった。





 交番を追い出され、私は変態明彦君と横並びに突っ立っていた。もちろん、身の安全を考え2mの距離を保っている。隙あらば距離を詰めようとする明彦を横目に、私はため息を吐いた。

「なにこの絶望感。実は私、今日が命日なんじゃないの? 遺書でも書こうか」

「まぁまぁそう死に急ぐものじゃないよ」

 誰が原因だと、と恨めし気に明彦を睨む。が、彼の目が喜悦に揺れたのを感じ、私はすぐに目をそらした。

「まったくシャイなんだから」と照れた様子で身をくねらせる明彦は、本当に気持ちが悪い。

「さて、こんな寒空の下で時間を持て余すのはやめて、そろそろ行こうか」

 彼は、本当に私を家まで届けるつもりなのだろうか。先導するかのように一歩前に踏み出した彼は振り返り、どこか自信と好奇心が含まれた、例えるなら小学生が外に遊びに行くかのような顔で私を見下ろした。その好奇心が、彼の趣味(女子高生に構う)によってのものなのか、はたまた違う変態的意識のもとで疼いているのか、私にはわからない。

 期待せず、むしろセクハラまがいの言葉を警戒しながら、私はぶっきらぼうに「どこへ?」と聞いた。

「君の学校さ」

 予想外の行く先に、私は首をかしげた。もしや、警察に対しての態度や言動に、学校へ文句でも行くつもりなのだろうか。それならば残念なことだが、私は学校がどこかさえ知らないのだから、それは叶わないことだろう。無理だということを言おうと、口を開こうとすると、彼はさらに続けて言葉をかぶせた。

「学校へ行って、君の名を聞いて、それから住所を聞いて、そして、お家へ帰してあげよう」

 まるで子供をあやしているかのように、優しげな声音だ。いや、彼から見れば私はまだ子供なのだから、本当にあやしているのかもしれない。

「……は?」

 それは聞き返す言葉のつもりだったが、うまく声が出ていなく、ただ息を吐いている呼吸音にしか聞こえなった。しかし、呆然とする私の表情で、私が今の発言に対し疑問をもっていることを、彼は察してくれたようだ。

「今の所、君を知る手掛かりは制服ぐらいしかないからね。学校へ行けば名前も住所も手に入る。それに、馴染みのある場所へ行けば、君の記憶は回復するかもしれないからね」

 目の前にいる変態は、さらりと言ってのける。どう言っても信じてもらえなかった私の今の状態を、彼は一度も疑うことをせずに、受け入れたのだ。

 そういえば、会った当初から、彼は私の言葉、正確に言えば父から受けたメールを、信じていた。

「あんた、あの警官みたいに言わないの? 大人をからかうなって」

「僕は君が思うほど大人ではないから、その要求には答えられそうにないよ」さも残念そうに苦笑した彼は、さらに続けた。「それに、僕は全世界の女子高生の正義の味方だよ。君の心からのヘルプの叫びに、目を背けることはできないよ」

 この男はどこまでも変態だが、どこまでも私には優しかった。不覚にも、この男の言葉に感動している自分がいた。どうやら、私はこの右も左もわからない、独りぼっちの世界に、想像以上に参っていたらしい。こんな変態に絆されるとは。

「それに、記憶を取り戻すという旅は、きっとおもしろそうだ」

 先ほどの好奇心の色は、私の記憶を解き明かすことからきていたのか。

 第一印象でこの男を変態の言葉でひとくくりしたのは、気が早かったか。そう内心、ほんの少しの自己嫌悪に浸るが、それを表に出しはしない。素直に信じてくれたことに対し、感謝できないのは、私のもとからある性格からなのだろうか。

「ところで、君の呼び名をどうしようか。いつまでも“君”では他人行事だ」

「あなたと他人以上になるつもりはありませんけどね」

「おや厳しい。要望がなければ、僕の好きに呼んでしまうよ」

「どうぞ」と投げやりにいえば、彼はやれやれ、といった感じに仰々しく肩をすくめた。

「それでは、僕は君のことをこう呼ぼう――――“ヨーコ”。君は、今からヨーコだ。そして、僕のことは親愛を込めて“ジョン”と呼んでくれ」

「かのスターと同じ呼び名を、あなたみたいな変態に使うのは失礼だから、やめておくわ、明彦さん」

「女子高生にファーストネームで呼ばれると、なんだかイケナイ気持ちになってくるね」

 やっぱり彼はどこまでも変態だった。




 彼の女子高生スキルをフル活用し、私の制服から学校を絞りあてた。正直、私の制服をじっくりねっとりと見つめてから、高校名を言い当てたこの男の気持ち悪さはひどかった。

 以外にも車の免許を持っていた彼に連れられ、やってきたのは電車一本で行ける場所だった。電車を使うという私の予想は当たったが、何故私のカバンに定期が入っていないのか、それはわからないままだった。そのことを彼に問うと、「きっと学校に行くつもりじゃなかったんだろう」と、のんきにもそう言われた。シンプルかつ正当な答えだ。しかし、ならなぜ制服を着ていたのか、何故駅方面に向かおうとしていたのか。疑問は膨れるばかりだった。

「その謎も、きっと家へ帰れば解決するさ」

 彼の口ぶりは、まるでそうなることが当たり前、という確固たるものがあった。

 やってきた県立高校は、女子高だった。女子高というと、お嬢様のイメージと、いじめなどの陰湿なイメージ、どちらかしかなかったが、どちらとも捕えない、平凡な場所だった。

 体育の授業だろうか、グラウンドを2列になって走っている集団がある。この寒空のした、ジャージなしでの格好は寒そうだ

「とりあえず、職員室行って、事情を」

「いや、ヨーコさんはここで待っていてくれないかな?」

 いざ来客用の入口へと行こうとすると、彼は私の肩を掴んだ。抑え込むように力を入れた手は、身をひねれば楽に離れられそうだが、有無を言わせない雰囲気が、彼からは漂っていた。どこか真剣みを帯びたひとみは、緊張感を漂わせている。その様子からわかりうる事態の深刻さに、私は目を見開いた。

「まさか……」

「ヨーコさんも気付いたかい。そうだ、もしかしたら君は……」

「あんた、私というストッパーがいないことをいいことに、この学校の女子高生に変なことするともりでしょ!」

 私を校門のところへ待たせ、この変態は校内に蔓延する女子高生という格好の餌を貪り食うつもりなのだ。そうだった、この変態にとってここはまさに聖地。ダメだ、ここでこの変態を野放しにしたら、私の友達(たぶん)が危ない。この場を食い止められるのは私しかいない。

「ここを通りたくば私を倒せ!」

「うん、謎の使命感に燃えているところ悪いけど、ちょっと落ち着こうか」

 両手を広げ行く手を阻む私を、あきひ……おっと間違えた、変態が落ち着かせるように軽く両手を挙げた。大丈夫だ、私は至って冷静だ。

「確かに僕は変態だ。そこは胸を張って主張しよう。だがしかし、今は君を無事、家まで送り届けるという使命がある。それを差し置いてまで女子高生と戯れるなんてことは、僕にはできないよ」

「ならば私の目を見て話そうか」

「ソーリー、それはできない相談だ。なぜなら僕の瞳は、グラウンドを走る女子高生の揺れるたに」

「おっと危ない危ない、危うく足が滑って明彦さんの大事な部分に膝蹴りを食らわせるところだった。ふー、全く私ってばドジッ子ね。で、何の話だっけ?」

「ん? 僕が君の瞳を熱く見つめているって話さ。黒曜の瞳に星がいくつも瞬くさまは、あたかも小宇宙のように美しい。まったくもって余所見ができないよ。ハハハ」

 内またになっていますよ、明彦さん。

「そんな話はさておき」咳払いを一つし、彼は私を今度こそまっすぐに視線を向けた。「僕が思うに、君はただの記憶喪失ではない」

 彼の言葉に、すぐには反応できない。一拍の間を開けて、私は顔をしかめた。記憶喪失でないのならば、この状況はなんだと言いたいのだ。

「いや」釈然としない私の表情を見越して、彼は一度首を振ってから言い直した。「確かに君は記憶を無くしている。しかし、それだけではない、ということだ」彼は続ける。

「きっと、ヨーコさんの身に起こっていることは、もっと複雑で、そしてとてもシンプルなことだ」

 言っている意味が理解できない。矛盾を伴った彼の発言は、私の頭に疑問符を浮かべさせる。しかし、はっきりしない彼の中でも、答えは出ていないのだろう。言いよどむ姿は混乱の色をにじませていた。

「これはあくまで僕の勘と、乏しい知識でそう思い当っただけだ。しかし、もしそれが正しければ、君は校内へ足を踏み入れてはいけない。なぜなら、その事実に直面した時、君がどう感じどう行動するのか、僕にはわからないからだ」

「つまり、私をここへ残すのは、自分の欲望のためではなく、あくまで私のためだと?」

「もちろんだとも。愛すべきヨーコさんのため、僕は我が身を犠牲にして全力で君の力になろう」

「本音は?」

「2割が私欲です。大量の女子高生をこの目で拝みたいです」

「くたばれ変態」

 暴言を吐けば、変態は喜んで校内へと入って行った。私は、彼の言うとおりにここで待機だ。

 入口から若干遠ざかり、手入れの行き届いていない枯れた花壇の塀に腰を下ろした。風よけの壁すらないこの場所は、寒風の針が肌に刺さり、寒いというよりも痛みを感じた。先ほどまで車に入っていたせいもあってか、急な気温の落差に、スカートから出た膝は赤く乾燥していた。

別に、明彦の言葉を鵜呑みにしたわけではない。彼の言葉にはやはり疑問が浮かぶ。しかし、私の体は従順にこの場にとどまっている。その気になれば、明彦に黙って校内へ入ることは可能だ。現に、目の前の来客用入口は、まるで私を誘うように開放されている。

 寒さをしのぐ為、無意識に膝を抱えた私は、焦点まで続く長い無人の廊下を見つめた。見覚えあるはずの廊下だが、なんの感情も記憶も浮かびはしなかった。

 ふと、背後からローファーの靴音が聞こえる。歩き去る音とは違い、その音はコンクリートで舗装された地面を踏みしめるかのように、じゃりと靴底を押し付ける音だった。

 私の背後で立ち止まったのだろうと感じ、首だけを後ろに回すと、こちらを見つめる女子生徒がいた。遅刻したと思われるその生徒は、髪にダメージが残るような明るい色をしていて、私とは正反対に制服を着崩していた。男子にウケがよさそうな、それでいて辺りを見合せばそこらじゅうにいそうな見かけをした彼女は、私を見下ろしていた。――ひどく嫌悪感を露わにした顔つきで。

 私は眉をしかめた。初対面でここまで嫌な顔をされる筋合いはないと思ったからだ。しかし、そのあとすぐに、ああ私は記憶がないのだ、と頭の隅で思う。どうやら、以前の私は彼女を不快に思わせることをしてしまったらしい。

「あんた」彼女は歪んだ口元を開き、苦いものを吐き出すように低い声を出した。「なんでまだ生きてんの?」

 は? 言葉が出ない。彼女は今、私になんて言ったのだ?

 ついていけない私の脳内を置いてけぼりに、彼女は早口に捲し立てる。

「ねぇなんで学校来てるわけ? 来るなって言ったよね。意味わかんない」

 いや、意味が分からないのはこっちのほうなんだが。ため息を吐きながら、彼女は長いストレートの髪をかき上げた。これが白人の美人さんだったら色気が出るのだろうが、堀のない平凡な彼女がやっても、ただの真似事にしか見えなかった。

 価値がないものでも見るかのように、蔑視する彼女は一言こう私に言った。

「気持ち悪い」

 瞬間、私の中で何かが切れた。

 私はその場で立ち会がる。一歩彼女が身を引いたのに合わせ、私も距離を詰めた。

「な、なによ」思いもしない反応だったのか、うろたえる彼女はさらに身を引こうとするが、私はそれを許さなかった。彼女の細腕を、しっかりとつかんだ。

「気持ち悪い」彼女と同じ言葉を、私は言い放った。おまけの微笑み付きで。

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔、という言葉は今の彼女を形容するために生まれたものではないのだろうか、と思うほどに、彼女の表情は面白かった。その真ん丸に開かれた両目に映る私が、どこか楽しげに笑う。

「悪いんだけど、そういう言葉をあなたに言われる筋合いはない。というか、あなた誰? あ、きっと知り合いなんだろうけど、本当にごめんね。針葉樹の葉の先ほどぐらいしか価値のない人間は、私記憶に残っていないの。私の傍に変態が一人いるのだけれど、彼は広葉樹の葉の面積程度には価値のある人間だと思っているから、つまりあなたは変態以下の人間となるのね。なんて可哀そうに。“気持ち悪い”の一言で私をしいたげられたつもりでいるなんて、本当に哀れで愚かで、まぁつまりなにが言いたいのかっていうと、お前こそなんで生きてるの? って話」

 途中途中、彼女が口を挟もうとしていたが、もちろんそんなもの無視だ。誰がお前みたいな人間の話なんて聞くものか。それよりも私の価値ある話を聞け。

「ねぇ、なんであんた生きてるの? もしかして、わざわざ私にその“気持ち悪い”の一言を言うために生きてきたの? うっわお粗末な人生だね。人間一人の悪口を言っていい気分にひたることができるなんて、なんて安く軽い幸福かしら。それだけであなたの気が晴れるというのなら、全世界の働く人々にその幸せを分け与えてほしいわ。まぁ、その前にあなたの人間性に人々はさっきのあなたと同じ言葉をあなたに向けるわね。そうだ、心優しい私がそうなる前に先に言ってしまって、これから起こりうるあなたの不幸を緩和させてあげるわ。えぇ、本当に、心の底から言ってあげましょう。“気持ち悪い”。“なんであんたまだ生きてるの”? ついでに菩薩のように慈愛に満ちている私は、その先の言葉もあなたに先に伝えてあげるわ。あぶらとり紙の厚さほどしかないあなたの人間性に敬意を込めて、“さっさと死”――」

「はい、ストーップ。ヨーコさん、ストップ、そこまで」

 後ろから私の口を押えたのは、明彦の手だった。先ほどからノンストップで舌を動かしたせいで、口内にたまった唾が不快だ。

頭が一つ半分ほどの身長差がある私たちの見かけは、おそらく仲の良い男女が抱き合っているような恰好だろう。非常に不愉快だったが、腹の中にたまったどす黒いものがまた口から出てきそうで、私は大人しくしていた。

「さぁ、ヨーコさん。ゆっくり、その手を放そうか」

 私の口を押える手はそのままに、もう片方の手で私の手に触れた。彼女の紺色の制服に爪を立てる私の手は、力の込めすぎで、小刻みに震えていた。彼の手が重なり、彼女の腕から剥ぎ取るように指を絡め、力任せに引き離した。

「さぁ、君も行きなさい。これ以上何か醜いことをこの子に言うのならば、僕は君に容赦なく変態行為を迫るよ。純潔が大事なら、さっさと教室へ行って学生の本業に勤しむといい」

 緊迫した声音だというのに、内容が残念だ。思わず彼の手の中で口角をあげてしまう。動きが伝わったのだろう、彼の手が私の口から離れた。どうやら、もう口を押える必要はないと判断したらしい。

 彼女は肩をいからせ、聞き取れない耳障りな金切り声を出して、足早に去って行った。

「……こういう時でも、あんたは変態なんだね」

「この口で君が少しでも救われるなら、僕はどんな言葉だって吐いてみせるさ。たとえ君に罵られようともね。それとも、今の言葉は褒め言葉と受け取ってもよかったのかい?」

「どうぞご自由に。それにしても、愛しの女子高生にあんなこと言ってよかったの?」

「残念ながら、彼女は僕のお眼鏡にかなう代物ではなかったね。こう見えて、僕は一級品しか好まないんだ」

 ウインクを飛ばす明彦を横目に、私は彼女の去った方向を見やった。視線の先に彼女はもういなく、無人の下駄箱があるだけだ。

「ここは冷える。話は車の中でしよう」

 彼の手が私の肩に触れる。彼の手は、とても暖かかった。




「小野優子、17歳。2年4組、出席番号4番。席は廊下側の最後尾。1年の時に家庭科部に所属していたが、2年進級と共に名簿から除外されているね。どうやら幽霊部員だったようだ。委員会はなし。成績は中の下。数学と英語の成績が芳しくないらしく、2学期の期末テストでは赤点ギリギリだったそうだ。授業態度は真面目で先生の話をよく聞いている、らしい。以上が、学校で得られた君の情報だよ。小野優子さん」

 道路の脇に止めた車内で、明彦は手帳を見ながら話した。あの変態の手帳の中に私の情報が入っていると思うと、無性に奪い取って燃やしてしまいたい衝動にかかられる。

「それにしても、ヨーコさん、というあだ名は惜しかったね。しかも苗字まで小野だ。僕の勘というのは、案外鋭いものなんだね。でも、今更小野さん、優子さんと言うのもなんだか違和感があるから、そのまま君のことはヨーコさんと呼ばせてもらうよ」

 私は気だるげにシートに背を預け、窓の外を眺める。ゆっくりとした動作で、目を閉じ、視界を闇一色にしてから、「まだあるでしょ」と言った。

 明彦はとぼけることもなく、ただ無言のままだ。どうやら、言いよどんでいるらしい。先ほど決定的な場面に居合わせたにも関わらず、彼はその情報を私に告げようとはしない。ただ気まずいからなのか、それとも私に気を使っているためか。私はもう一度、今度は彼を見て「まだあるでしょ」と同じことを言った。

 彼の表情は情けなかった。ハの字に下がった眉は頼りなく、初めて会った時のあの強烈な第一印象が薄れてしまうほど、今の彼はひどいものだった。

 それがなんだか可哀想に思えてしまって、私は苦笑を漏らした。

「大丈夫だから。なんか、変な気分なんだ。自分のことなのに、なんか他人の話聞いてるみたいで。正直、自分の名前とか学歴とか、どうでもいいの」

 これは本心だった。“小野優子”。確かにその名前は私を指すものなんだろうが、呼ばれて振り返れる自信もないし、呼ばれる声の響きが懐かしいとも思えない。“小野優子”のどの情報も、今の私にとっては興味のないものにしか思えない。まるで、いざ宝箱を開けたら中身がただの石ころだったような、期待外れという感情が心の中にはあった。

 明彦は、私顔色を窺うように不安気な瞳を向けた。学校へ着くまではあれほど不埒な視線を浴びせていたというのに。明彦の態度の変わりように、なんだか笑いがこみあげてくる。

 思わず短く笑ってしまうと、明彦の目が一際大きく揺れた。私の視線から避けるように斜め下を見やった彼は、まるで隠し事をしようとする子供の様だった。

「私、いじめられてるんでしょ」

 彼は何も答えなかった。しかし、その無言は肯定していると体で表しているように見える。

「さすがに、目の前で“気持ち悪い”とか言われたり、あからさまに嫌ってますよ、って態度取られたら、嫌でもわかるよ。あんた、いつから気づいてたの?」

 わざと校内に入れなかったのは、きっとその事実に明彦が気付いていたからだろう。しかし、その優しさも、あの女子生徒がぶち壊してしまったのだが。

 明彦は、変わらず気まずそうに口を歪めていたが、私の落ち着いた声音を聞いて、こちらをちゃんと見てくれた。

「グラウンドを走る生徒がね、こちらを指差していたんだよ。僕は視力がとても良くてね。遠目でもはっきり、彼女たちの顔が見えたよ」

 明確には言わなかったが、おそらくグラウンドの生徒たちはこちらを指差して、先ほどあった彼女のような表情をしていたのであろう。

「規模は? クラス単位? それとも学校全体?」

「グラウンドの生徒は君と同じクラスの子たちだよ。でも、きっと規模は学校全体とまではいかなくとも、2年生全体だろう」

「ふうん。そんなに私って性格悪かったのかな?」

 鏡で自分の覚えのない顔を確認した時、特別不細工だとは思わず、平凡な顔つきだなぁ、と内心残念だと思った。体系だって、どちらかというと細身ですっきりした体系だと自負している。外見がいじめのきっかけではないと私は推測していた。

 私の声音が安定し続けていることに、明彦は徐々に以前のあっけからんとした口調を取り戻していった。

「いいや、ヨーコさんは見た目通り真面目で誠実な人柄だったようだ。しかし、内気で親しい友人はいなかったようだ」

「真面目で誠実、ね」

「今のヨーコさんからじゃ、想像もつかないような撫子ちゃんだったようだね」

 からかうように笑みを混ぜてきた明彦に、私はぶっきらぼうに「悪かったね、口が悪くて」と返す。その話を聞く限り、本当に赤の他人の話を聞いているようだった。自分のことのはずだというのに、他人事のように同情してしまう気持ちすら沸き起こってしまう。

「いじめというのはどこからやってくるのかわからないものだからね。きっと、きっかけはそれほど重要ではないよ。怖いと思うのは、その行為を続けて、快感を覚えてしまった人の心さ。帰り際に、君のクラスを見てきたよ」

「私の席、ちゃんと原型留めてた?」

 ドラマや漫画では、中傷の落書きなどでボロボロになった机が定番だろう。しかし、学習机の無事を問うのもなんだか変な感じがして、苦笑が漏れてしまう。

「原型は留めていたよ」私の苦笑につられたのか、明彦も先ほどの悲観の表情とは打って変わり、幾分か柔らかな表情で言った。「ただ、全体的に落書きがひどかったね。内容もどれも陳腐なものばかりでね、まったく芸がなかったよ」

 芸のあるいじめというのも変だと思うが、私はその言葉にわざとらしく顔を歪めた。「うっわ、ひどい人間もいたもんだね。こんな可愛らしい私をいじめるだなんて」

「愛嬌がある顔だとは思っているよ。あぁもちろん、僕の心を射止めるには十分な顔立ちだ。初めて会った時から思っていたよ、君は美しい」

「脈絡もない褒め言葉をどうもありがとう」

 呆れて投げやりに礼を言うと、ふと明彦がじっと私を見つめてきた。今まで散々不躾な目線で見られてきたので、自然と身構えるように胡乱げな目線を返してしまう。

「なに?」

「僕が校舎に入る前、君は記憶喪失ではないのかもしれない、と言ったことを覚えているかな?」

 もちろん、覚えていた。理解できない彼の言葉は、私の頭の中で解き明かされない謎としてしこりを残していた。あの時の明彦の表情は、自分でもわかっていないと曖昧な顔をしていたが、どうやら今の彼は自分が発した言葉の意味を十分に理解できているらしい。その真剣に私を見つめる目には、確信の色が宿っていた。

「これまで君自身の事情について会話をしていて、ようやく確信がついたよ。君は記憶喪失ではない。いや、記憶喪失ではあるにしても、おそらく同時にもう一つの現象が、君の身に起きている」

 私は明彦の言葉を黙って聞いていた。自分の状況の全貌を今だ理解できていない自分が、口を挟んでしまっては真相に行きつくまで長引いてしまう。そう判断したからだ。今の時点で、私よりも明彦のほうが、私については詳しい。

「突然だが、君は自分の性格というものを理解しているかな?」

「前は真面目だって言ってたね。誠実とも」

「前ではない。僕は今の君に質問しているんだよ」

 今、という言葉に、私は首をひねった。記憶が無い現在の私を指しているなら、今更そんな質問をしなくとも、明彦自身がよく理解しているはずだ。しかし、本人もそのことはわかっているのだろう。彼は私の言葉を待っていた。

「……はっきりものを言う。どっちかというと、男っぽいかな」

「おまけに僕に容赦なく暴言を吐くね。まぁ、そこが僕にとっては興奮材料となっていいのだけれど。まぁ、それはさておき、君をいじめているであろう子にも、君は怖気づくことなくはっきりと失礼なことを言っていたね」

「心の正当防衛だよ」

「でも、昔の君を考えれば、あの時の君はまさに“存在するはずのない君”だった。あの時の彼女の表情が、それを物語っていただろう?」

 確かに、私が勢いよく捲し立てていたときの彼女は、本当に驚いた表情をしていた。きっと、今まで私が彼女に対して反抗してきたことなど、一度もなかったからだろう。

「今のヨーコさんは、明らかに“小野優子”とは別人のように、違いがはっきりしている。ここで、僕は君に問おう。なぜ、ヨーコさんはこんなにも“小野優子”とは別人のように違うんだい?」

 私は答えられない。確かに、小野優子について話を聞いたとき、「その人物は本当に私なのか?」とさえ思ってしまった。だが、そこまで掘り下げて疑問に思うこともなかった。だから、咄嗟に私は言葉が出なかった。

「君は自分の過去が思い出せないよね。家族との思い出も、どんな環境で育ってきたかも、君は思い出せない。“小野優子”の真面目や誠実、そして内気な性格は、それらの過去があってこそ、形成された性格だ。しかし、はっきりとした物言いに、内気さとはかけ離れた勝気でそして大雑把ともいえる性格。“小野優子”とは真逆の性格は、どこから成り立ったんだい? 君は過去がない。その個性を作り上げた思い出が何もない状態で、どうして最初から個性が確立していたんだい?」

 一息に言い切った明彦は、どこか興奮しているようだ。“私”という謎の存在を解き明かすかのような、名探偵にでもなったような興奮を、彼は感じているのかもしれない。

「僕が見た映画や小説などの乏しい知識での情報でしかないが、記憶喪失になった人というのは、無気力でどこか儚い存在なんだよ。“自分”という基盤を無くしてしまっているからね。しかし、君は特別だ。“小野優子”とは全く異なった、“ヨーコさん”というオリジナルの基盤を、作り上げてしまった」

 そこまで明彦の話を聞いていて、自分がどういう存在なのかを理解する。そうか、私はただ記憶を無くしていただけではないのだ。

「“小野優子”は、記憶を無くしたのと同時に、――もう一人の自分という存在を、作り上げたんだ」

 私は、生まれたのだ。





「“小野優子”は、学校で長い間いじめを受けて、精神がもう限界だったんだろうね。過度のストレスによって、記憶障害になったり、解離性同一生涯になることは、よくある現象らしい。僕は精神科の医者ではないから、この言葉に信憑性があるとは思えない。けれど、これははっきりしている。ヨーコさんは、自分自身を守るために、生まれたんだよ」

 私たちは、学校から入手できた“小野優子”の家へと向かっていた。どうやって学校側から住所を入手できたのかと問うと、明彦は怪しく変態臭を醸しながら笑みを浮かべて「内緒」と色気のある声で言われたので、とりあえず良心的な行為で入手できたのではないのだろうと感じた。

「内向的な性格だから、学校側にも家族にも、きっと助けを求められなかったんだろうね。おまけに、学校側はいじめを見て見ぬふりだ。だから、自分を助けてくれるような存在を、求めていたんだろうね」

 私は「うーん」を唸った。自分を助ける、と言われても、自分という意識がない。なので、なんだか危機感というのを持てないでいた。精神に異常が出るほど、“小野優子”は不安定だった。それは精神科に相談すれば、きっと真剣に頭を突き合わせて解決策を練るほどの、出来事なのだろう。しかし、どうにも他人事としか思えなく、まるでテレビ画面の中にあるドラマでも見ているかのような心境だった。

「助けるって言われても、なんか気分が乗らないな」

「でも、君はつい先ほど、行動に移したじゃないか」

「え?」

「学校で、とても無遠慮な言葉を、あの女子生徒に明言していたではないか。あの行為は、きっとこれからの“小野優子”の環境に、少なからず変化をもたらしたと思うよ」

 あの時、腹の底が煮えくり返るような、猛烈な怒りに襲われていた。我を忘れていたと言ってもいいくらいだ。もしかすると、あの爆発的な怒りの感情は、今まで抑えてきた“小野優子”の鬱憤が、私を通して表に出てきていたのかもしれない。

 そう思うと、やはり私は“小野優子”の存在を原点に生まれたのだな、と改めて明彦の言葉に内心頷いた。

「でも、あの程度でいじめが収まるってことはないと思う」

「規模が規模だからね。すべてが丸く収まるなんてことはないさ。それでも、一歩踏み出すきっかけを与えたのは、事実だよ」

 学校から、始めいた駅へととんぼ返りをし、数分もしないうちに目的地へと着いた。

 オートロックのマンションが多く建造されている中、そのマンションはとても古めかしく思えた。薄い黄土色をしている壁は、もとからそういう配色なのか、それとも白い壁が風にさらされて黄色を帯びているのか、その事実はわからない。

「部屋は302号室だよ」

 エレベーターに乗るまでもない、と自然と足が階段へと向かう。目的の家へと着くのに、迷いはしなかった。目で部屋番号を探す素振りすら私はしなかったことに、体自体は家を覚えていたのか、と感じる。

 表札にはありふれた字体で「小野」と表示されていた。

「チャイム押したほうがいいのかな」

「ここは君の家だよ? 何も怖がることはないさ。怯えるヨーコさんは僕の庇護心を一層強くさせられるけれど、同時に僕の加虐心と変態欲が煽られてしまって、まったく僕のダイヤモンドの原石並に硬い理性に君は感謝するといいよ」

「あなたの口もダイヤモンドのように固ければ、ここまで私を不快に思わせることなんてないのにね。というか、もしかして家までついてくるの?」

 父親から言われた「私を家まで送り届ける」という目的はもう終わったはずだ。この中までくる必要性も義理も、彼にはないはずだ。

 しかし、彼はきょとんとした顔で、至極当然のように「当たり前だよ」と言い放った。「僕はヨーコさんを家まで送り届けることが使命だ。この家は小野優子さんの家でも、ヨーコさんはここを我が家だとは思っていないだろう?」

 なら、僕の役目もまだ終わっていないさ。そうやって微笑する彼に、私は内心感謝した。少々強引な部分もあるとは否めないが、やはり一人でこの家に踏み込むのは心細い気持ちがあった。変態といえど、今日一日を共に過ごした人間だ。私の白紙の頭の中には、この男しか存在しないのだから、傍にいてくれると分かって、私の心は安泰した。

 長く深呼吸を数回繰り返し、私は意を決して銀色のドアノブに手をかけた。造作もなく開かれたドアだったが、重みだけは十分すぎるほど感じる。それが錯覚であることは、理解していた。

「た、ただいま」言った後、ひどく違和感のある言葉だと思った。しかし、私が言わなくては不自然だ。いや、記憶を無くしていることを説明すればいいんだが、口が無意識に動いていた。

 家の中からの返答はなかった。鍵が開いていることから、留守ということはないと思うのだが。

 清楚な玄関で、ぎこちなく靴を脱いで家へと入る。辺りをきょろきょろと見回してしまっている私に対し、明彦のほうがまるで自分の家が如くに自然な動作であがっていた。

「お邪魔します」丁寧に靴を並べ、入ってよいのだろうかと迷う私を置いて、ずかずかと廊下の先へと歩いて行った。

「ちょっと」

 慌てて後を追う。廊下にはドアが3つほどあり、おそらくどれかに私の部屋へとつながるものがあるだろう。廊下の先はリビングで、そこそこ片付いている生活環あふれる部屋が広がっていた。

「どうやらご家族の方はいないようだね。ちなみに、学校から“小野優子”さんは両親と3人暮らしだと聞いたよ」明彦は、食卓の上にある紙を見つめていた。その顔が、どこか難しそうに眉を寄せていた。「それにしても、鍵がかかっていないというのは不用心だね。年頃の娘を狙った、どこかの変態が入ってきてしまうよ」

「それは自分のことを指しているの?」

「ん? 何のことかな? ところでヨーコさん、この手紙は――」

 そこで廊下側からドアが開く軽い音がした。それと同時に、トイレの水が流れる音がする。どうやら、家主は用を足していたらしい。

 廊下から姿を現したのは、中年の女性だった。40代後半と思われる彼女は、目じりの皺を伸ばして目を見開いている。一瞬、自分を見て驚かれたのかと思ったが、その視線が私を通り過ぎていることに、明彦を見て驚いていることが分かった。

「優子、そちらはどなた?」

 優子、という人物が誰を指しているのかわからず、明彦が肘で私を突いてくれたおかげで、自分のことだと遅れて理解した。

「えっと」ここで、彼女を「お母さん」と呼ぼうか迷った。“小野優子”にとって彼女は母であったとしても、私にとってはそうは思えないからだ。大体、彼女が母なのかでさえ、私には確信が持てない。

「どうもこんにちは。優子さんのお母様、でよろしいでしょうか?」 言いよどんでいる私に、明彦が前に踏み出し愛想のいい笑みを浮かべてフォローをしてくれた。

「はいそうですけど」

「僕は駅の交番に努めている西嶋明彦と申すものです」言いながら、明彦は胸の内ポケットから手帳を取り出した。しかし、今日見てきた彼のメモ書きに使っていた茶色い手帳ではなく、黒っぽいものだ。それを母に開いて見せると、警戒心をわずかににじませていた母の顔が安心したように綻ぶ。

 明彦の先ほどの言葉から、まさかと思い後ろから首を伸ばし覗いてみると、案の定それは警察手帳だった。

「ねぇ、それって本物?」小声で訊ねる。明彦も同じように小声で「もちろん」と私の耳元で答えた。「僕の父が持っていたものだよ。本物に決まっているじゃないか」それは犯罪なのではないのか? 明彦はすぐに手帳をポケットにしまった。

「今朝、優子さんが貧血で倒れてしまいまして。救急車を呼ぶまでもないと本人と僕が判断し、署内で落ち着くまで休んでいたんですよ。体力は回復したのですが、心配なので僕が家まで送り届けたんですよ」

 ありもしないことを、よくもこんなにも堂々と言えたものだ。嘘だということを微塵も感じさせない微笑みで述べ、母はすっかり明彦に騙されたようだ。

「あらあら、そうでしたの。ご迷惑をおかけしました」

「いえ、これも僕の務めです」私服の警官が交番で努めているはずがないというのに。母の顔に疑いの色はどこにもなかった。どうやら、人の言葉を真に受けやすい人種のようだ。

「すみません、お礼とは言えませんが、お茶でもどうでしょうか」

「いただきましょう」

 キッチンへと姿を消した母を見送り、明彦は浮かべていた笑みを引っ込めた。彼の考え込むような顔に首をかしげたが、それよりも私は彼が嘘を言ったことを問い詰めた。

「どうして嘘ついたの? 別に、記憶無くしました、って言えばよかったじゃん」

 遅かれ早かれ、この現状を家族には説明しなくてはならない。それは明彦自身わかっているはずだ。車の中でも、どう家族に説明しようか、という話題を話した時間もあった。だというのに、なぜ明彦がわざわざ嘘を吐いたのか、意味が分からなかった。

 明彦は、またあの顔をして私を見ていた。いじめを受けていると分かり、その事実を伝えられず気まずそうにしていた、あの時と同じ目で、私を見下ろす。しかし、今度の彼はすぐに私に話してくれた。

「机の上にある手紙、あれは“小野優子”が書いたものだよ。母親に宛てた手紙だ」指差した先に、白い封筒と三つ折りの折り目がついた紙が置いてある。あの中身を、彼は読んだのだろう。

「なにあれ」

「遺書だ」

 え、と思った。すぐさま、私はその手紙に飛びついた。至近距離で黒いペンで書かれた文字を追う。内容はとても短く、家族への謝罪と今まで育ててくれた感謝の言葉。そして、ただ「死にます」とだけ書いてあり、自殺場所である住所が書かれているだけだった。

なんてシンプルな遺書だろうか。遺書というよりも、ただの書置きにしか見えない。しかし、そうなってしまった理由を知る私と明彦には、“小野優子”の状態がどれだけ深刻なものだったかを思い知らされた。

「自殺場所は、駅から数分歩いたところにある廃工場だよ。普通だったら一般人は通らない場所だね。これでようやく、君が必要最低限の荷物すら持たないで、駅方面へ向かっていた理由がわかったよ。財布も、定期も、勉強道具も、持つ必要がなかったからだよ。だって……」その続きの言葉を明彦は口にはしなかった。しかし、言わなくともわかる。

 だが、私の心はその真実よりも、違う部分で震えていた。今私の中にある疑問が本当だとしたら、自殺を実行しようとしていた“小野優子”はあまりにも不憫に思えてしまう。

「いや、そんなことはもういい。今、“私”が生きている。ここにいる。それでもう解決なんだ」

 私の声は震えていた。怒っているのか、それとも恐ろしいのか。何について興奮しているのかわからないが、それでも私の感情は大きく波打っていた。

「それよりも、……っそれよりも! この手紙が、ここにあるということが、そんなことよりももっと重要だ!」

 極力抑えて絞りだした声音は大きく揺れている。強く拳を握りしめ、手の中にある手紙が深い皺を刻む。

 私は明彦を睨みつけるように見た。この感情をどうしたらいいのか、わからなかったからだ。明彦から見たら、私の鋭い視線は、助けを求めているように見えたのかもしれない。もし、母がキッチンから茶瓶を持って現れなかったら、私はこの場で明彦に縋り付いていただろう。そして、私のほうへと中途半端に伸ばされた彼の両手は、きっと私の弱さを受け止めていただろう。

母は平然としてやってきた。「お茶が入りました。どうぞ座ってください」テーブルの上に丁寧に湯気だった茶瓶を置く。

 私は、母を見つめた。その視線に気付いたのか、母が私を見たが、その視線は1秒と持たずに私から外れた。

 愕然とした。まさかそんな人間がいるとは思わなかった。だって、こんなにも堂々と置いてある手紙を読んでないはずがないのに。私たちが家へと入った時点で、封が開いているのに。目の前で明彦に茶を出している母親は、この手紙を読んでいるはずなのに。

 瞠目して母を見つめる私に、明彦が肩を抱いた。

「どうやら、まだ少し気分が悪いようですね。優子さんの部屋はどこですか?」

 私は明彦のなすがままに廊下を歩いた。母の申し訳ないという声をどこか遠くで聞きながら、私は明彦に部屋へと連れて行かれた。

 明彦が気を使うように、母に「家事などが忙しいでしょうから、優子さんのことは僕に任せてください」というと、母は部屋を出て行った。

 私はベッドの端に座り、項垂れた。母は、私に心配の言葉をかけることすらしなかった。

「あの人、この手紙読んだはずだよね」

「そうだね」明彦は、部屋にある“小野優子”の机を探っている。ノートを開いたり、小物入れをのぞいたり、個性を感じさせない簡素な部屋を見渡す。

「読んでるはずなのに、なんであんな普通な態度なの?」

 娘の遺書を読んだ母親が、どういう行動に出るのか、母親になったことがない私にはわからない。しかし、少なくともあんなにも落ち着いていられるとは思えかった。

「きっと、お母さんはあの手紙を冗談だと思っているんだろうね」続けて、明彦は顔を顰めた。呟くように苦々しく「ひどい」と言った。

 私の腹部が、ずんと重くなる。学校で起きた時よりも、はるかに重い、怒りが沸き起こった。組んでいた両手に力が入る。“小野優子”の母親に対する怒りが、私の脳内を激しく荒らした。

「ヨーコさん、これを」

 渡されたのは、「Diary」と書かれた日記だ。新しいとは思えないが、ものすごく古いとも見えない日記帳だ。手に持つと、なじみ深い重みが伝わる。

「毎日日記をつけているみたいだね。失礼かと思ったけど、ヨーコさんに許可を取るのもなんだか変だから、勝手に見させてもらったよ」

 日記の内容は、全体的に暗いものだった。学校で起きたいじめについて、悲しい、もう耐えられない、といった言葉が多く書き込まれていた。そこには母親についても書かれていた。日付が新しくなるにつれ、学校のことよりも母親に対してのことが多く書かれていた。

「……離婚、してたんだね」

「というよりも、別居が近いんじゃないのかな。学校側は母子家庭だということを知らなかったみたいだから。正式な手続きは、きっとまだなんだろう」

 読み進めていくうちに、気分が下落していく。丁寧だった文字が雑になり、一行の線を飛び出すほど大きくなった文字を見ると、“小野優子”を不憫に思う気持ちが大きくなっていく。

 一番最近のページを見ると、そこには母への恨み言の思いが詰まっていた。小さなことが積り重なり、やがて“小野優子”は母親に対する憎悪に埋もれてしまったのだ。大きなきっかけなどはない。一日一日に起きる母親への不満が、この日限界を超えてしまって、“小野優子”は遺書を書いたのだ。

「優子さんは、きっといい娘だったんだろうね」

 それも飛び切り優しい、お人よしだ。

 こんなにも親不孝にもほどがあるほど悪態を吐いても、日記の最後には2ページにわたる母への謝罪の言葉があった。泣いていたのだろうか、ところどころインクが円状ににじんでいて、文字が読めない部分があった。

「こんな娘でごめんなさい」「お母さんは悪くない」「親不孝者でごめんなさい」「幸せになってください」

 感謝と謝罪が織り交ぜあった母親を労わる言葉は、私の中にある怒りを鎮静させ、“小野優子”への憐みの思いを浮上させた。

 不思議な気分だった。あの母親の子供として、“小野優子”の怒りが腹部にくすぶる。そして、第三者の視点で、あの女性に怒りと軽蔑の感情、そして“小野優子”に対する同情が存在する。私の頭の中で、“私”と“小野優子”が、多様の感情を訴えていた。

 日記を閉じ、私は目の前にいる明彦を見上げた。彼はいつも、私を見つめている。彼は優しく私に笑いかけた。

「当事者であり、第三者である気分はどうだい?」

「……あんまり、良くはないかな」

「さて、この日記を見た限り、ヨーコさんはヨーコさんの立場として、やらなくてはならないことがあるね。――心の底から、『ヘルプ』を叫んでいるのは誰だい?」

 明彦は私に問う。

「今一番、君の心の中で『ヘルプ』を叫んでいるのは誰だい? 自分ではどうしようもできず、悩み、苦しみ、そして助けを求めたのは誰だい?そして、その叫びを聞き取り、この場に存在している人は誰だい? 生まれてきたのは誰だい?」

「正解を答えてあげよう」彼は膝を折り、ベッドに座る私と目線を合わせた。まるで子供に言い聞かせるように、保父のように柔らかな声音で、私の背を押した。

「君だよ。ヨーコさん」

 私は“小野優子”として、そして“私”として、彼女を助けるために生まれたのだ。

 私は、彼女の『ヘルプ』を聞き入れよう。






 ビートルズの『Help!』が、心地よく耳の中に流れている。高値で買った高音質のヘッドフォンは、60年代の音質でも十分に美しいと言えるほどの彼らの声と演奏を耳に届けさせてくれた。

 駅へと流れ込む人々の喧騒の中、明彦は父が勤める交番へと歩いていた。つい一週間前に父から黙って拝借していた警察手帳を、人知れず返そうと思ったからだ。本当ならば家でこっそり返してもよかったのだが、わざわざこの寒空の下で交番まで行こうとしているのは、ちょっとした期待があるからだ。

 一週間前の出来事が鮮明に頭に浮かびあがり、明彦は白い息を口の端から漏らし笑みを浮かべた。あの日は、本当に特別な日だった。人生の中であの日ほど、興奮し、楽しく、そして貴重だと思える日はなかった。

 一人の少女を思い浮かべ、明彦は笑みをさらに深くした。

 あの日の最後、ヨーコは“小野優子”の母親に対し激怒の言葉を吐き出した。日記に書かれた思いのたけをすべてぶつけ、そしてヨーコとして、つまりは第三者視点での“小野優子”の不憫さをぶちまけた。あの勢いは、他者の怒られている姿を見る気まずさよりも、いっそ清々しいと思えるほどの暴露ぶりだった。しかし、言葉の節々に相手を気遣う言葉を探していたのは、おそらくこれからの親子関係に大きなしこりを作らないための、母親と“小野優子”に対しての配慮であろう。

 もちろん、ヨーコは学校で受けているいじめの件についても大々的に話した。少々大袈裟な部分もあったが、あれぐらいがあの母親にはちょうどいいと、明彦は思っていた。

 母親の反応は、最初は手紙に対してもヨーコの訴えに対しても、冗談だと真に受けていなかった。しかし、さすがに母親としての親心というものが残っていたのだろう。ヨーコの訴えが徐々に激しくなり、最後には泣いて詫びていた。いじめに気付けなかったこと、心細い思いをさせてしまったことなど。あの言葉がどれだけ本気だったのか、真意はわからないが、あれだけ言えば親子の関係は少しでも緩和できるだろう。

 曲が一周し、もう一度同じ曲を再生する。この交番へとたどり着くまでの道のりは、すべてこの曲で頭を埋めたかった。かの大スタージョン・レノンの歌声が、明彦の気持ちを高揚させる。

 すべてが落ち着いた頃、ヨーコは涙を流した。本人も意味が分からなかったらしく、不思議な顔をしていた。明彦は、あの涙は“小野優子”が流していたと解釈している。自分では言えなかった言葉が伝わり、彼女は安心したのだろう。

 ヨーコの涙は思ったよりも引かず、数分間流し続けた。その間、明彦はずっとヨーコの頭を撫でていた。取り乱していた母親も落ち着き、今だ泣き止まないヨーコに何か飲み物を持ってくると言い、キッチンへ姿を消すと、ヨーコは明彦に笑った。あの時の彼女の穏やかな表情は、今も鮮明に思い浮かべられる。なんとも印象的な、ひどく優しげな顔だった。

 そして、その時明彦に言ってくれた言葉も印象に残っている。

「ありがとう。私を家まで送り届けてくれて」

 その時初めて、ヨーコは明彦に礼を言い、そしてスイッチが切れた機械のようにその場で倒れた。気を失ったヨーコは10分程度で目を覚ました。

 目を覚ましたヨーコは、もうヨーコではなく、“小野優子”だった。憂いを浮かべた表情をして目覚めた優子は、心配そうにして覗き込む明彦を見て「誰?」と言った。どうやら、ヨーコとしての人格だったときのことは、何も覚えていなかったらしかった。

 しかし、すべてを忘れたわけではなく、おぼろげに自分が母に何を言ったかどうかは覚えていたようだ。母とのわだかまりが打ち解けて、優子は喜んでいた。自分を忘れているということは残念だったが、遺書を母と明彦の目の前で破いて捨てた優子に、明彦は満足だった。

 その優子に、今日は会えないだろうかと思い交番へ向かっていたのだ。わざと駅周辺の道をゆっくりと歩き、辺りに優子がいないかどうかを見回す。しかし、そうそう会えるものでもない。立ち止まって何分か姿を探したが、どこにもいなかった。

 思わずため息をこぼして、仕方なく明彦は交番へ向かった。繰り返された曲は、すでに9週目を迎えていた。

 交番が視界の先に見えた時、緑色のチェックのスカートが目立つ制服を着た女性を目にし、明彦の脳内は活気にあふれた。駆け足で交番へと滑り込み、父と対話する女性にしゃべりかける。

「こんにちは素敵な御嬢さん。そんなむさくるしい中年男性とではなく、僕とお話ししませんか? あぁ心配なんてしなくて平気ですよ。あなたを取って食おうなんて、そんな変態じみた気持ちは米粒ひとかけらほどもありませんから。ましてや、女子高生という興奮材料を目の前にしてスカイツリーよりも高い理性が崩れるということはございませんのでご安心を。さぁ、その麗しいお顔を見せて下ださい」

 振り返った彼女は、会いたいと願っていた優子だった。なんとも言えない顔で、優子はこちらを見つめていた。

 優子の顔を見つめ驚きを隠せない明彦。内気な素振りでおずおずと優子は「あの」とか細い声をあげた。

「はい」一週間前のヨーコとは真逆の反応に、思わず声が裏返る。咳払いを一つし、もう一度「はい」と答えた。

「明彦さん、ですよね」大人しい女子高生が自分の名前を呼んでいるということに、また余計なことを言う前に明彦はすぐに返事をした。

「はいそうです。お久しぶりですね、優子さん。あの、その制服は」

 確か、ヨーコの来ていた制服は上下共に紺色だった。しかし、彼女のスカートは緑色のチェック柄だ。確か、この制服は隣町の公立高校のものだった気がする。

「母と相談して、転校することになったんです」

 嬉しそうにはにかむ姿はとても可愛らしい。

「そうだったんですか」そう言い、明彦は内心安堵した。あの学校に通い続けるのは、優子にとってマイナスでしかない。いじめについてが気がかりだったのだ。どうやら、その心配ももうしなくていいのだと思うと、明彦は嬉しくなる。

「あんまり、私覚えていないんですけど、あの日お世話になったので、一応、報告をしようと思って。あの、迷惑でしたか?」

「いいえ、とんでもない。その気持ちがとても嬉しいです」

 はっきりとしたヨーコの性格もよかったが、この内向的なのもいいかもしれない。一粒で二度おいしいというのはこういう時に使うのだろう。

 優子の表情は晴れ晴れとしていて、どこかこれからの新しい人生に期待を持った様子だった。ヨーコの存在が、彼女の今の姿を現していると思うと、手助けをした自分が誇らしく思う。

「あの、それじゃあ私はこれで。これから、母と新しい学校の教材を買いに行くんです」

 優子の表情は、とても嬉しげで、こちらまで顔がほころんでくる。

「いってらっしゃい」

「はい」

 元気よく、彼女は交番を後にしようとしたとき、明彦はふと思い当りその背中に呼びかけた。

「優子さん、もう『ヘルプ』は叫んでいませんか?」

 振り返った優子は、一瞬きょとんとしたが、「はい」と笑って答えてくれた。そして今度こそ、優子は人垣の中へと去って行った。

 見えなくなっても、その背中を見届けていると、後ろから「おい」と低い声音が響いた。

「青春してるところ悪いが、変態さん」

「自分の息子を変態呼ばわりとは、あなたには親心というのはないのかな?」

「残念ながら、自分の子供を変態に育てた覚えはないからね。おっと、間違えた。変態じゃなくて泥棒さんか」

「は?」

 不可解な言葉に、明彦は眉を寄せた。しかし、いつもは穏やかなはずの父の顔が、恐ろしい。いや、笑みを浮かべているにはそうなのだが、この背後にまとっているどす黒いオーラが見えるのは気のせいだろうか。

 知らずに顔が引きつり、一歩後ずさる。そこで、自分が泥棒呼ばわりされる事柄を思いつき、「あ」と声を漏らした。しかし、弁解をしようにもすでに遅く、父は笑顔で言い放った。

「父親の、ましてや警察の懐からものを盗むとはいい度胸じゃないか。え? さぁ、さっさと警察手帳を出して、お縄をちょうだいしようか」

「いやいやお父様。これにはマリアナ海溝よりも深い訳がありましてね。ハハハ、その手に持つ手錠はなんでしょうか?」

「そりゃあ、自分の家に居座る害虫、別名ニートを捕えるためのお縄ですよ。囚人服着て、刑務所の中で少しでも働ければ、害虫から昆虫に昇格させてあげてもいいよ」

「わあ、明彦君ちょー嬉しい! でもその前に、どうして僕が警察手帳盗ったって知ってるんですか?」

 じりじりと寄ってくる父に、明彦は両手で静止させるようにして交番の出口まで後ずさる。

「あのお嬢ちゃんが教えてくれたのさ。それにしても、あの子は随分と人が変わったね。あの時の態度のでかさはどこへ行ったのやら。これも教育の賜物なんだろうね」

「あの時の子は環境が生んだと言っても過言ではないですよ。あの子の姿こそ、社会への不満と風刺を具現化させた……っておっとぉ! ちょ、本気で手錠かけようとしてるでしょ、父さん!」

 素早い動きで両手を狙う父に、明彦が飛び退く。人の悪い笑みを浮かべた父の姿が、どう見ても警察には見えない。

「何をわけのわからないことを言ってるんだ。大人しく捕まりなさい」

「僕が捕まる理由が理解できません!」

「日ごろの行いを思い浮かべて、胸に手を当ててみなさい。そうしたら己の汚さと気持ち悪いくらいの煩悩が見えてくるでしょう。それが君の罪だよ」

「僕の煩悩はアイデンティティーだよ。これがなくなったら明彦君は死んじゃうよ」

「ならば、生まれ変わった明彦を、僕は父親として愛情を持って育てよう」

「パパひどい! ちょ、誰か助け、ヘェルプ!!」

 




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