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女性だから恋がしたいものね?

作者: 夜乃 凛
掲載日:2026/06/09

冷たい雨が、この国の空を灰色に塗り潰していた。


窓辺に立つ私、エリアーナは、鏡に映る自分の姿をぼんやりと眺めていた。淡い青のドレスは、私の肌の色とちぐはぐで、まるで誰かから借りてきた殻のように見える。魔法学院の卒業式を終え、王立図書館での静かな研究員生活が始まってから、もう二年の月日が流れていた。


この世界には、二つの大きな力が存在する。一つは、血に刻まれた魔力。もう一つは、誰もが心に隠し持つ、理屈では割り切れない『恋』という名の衝動。けれど、私の人生にはそのどちらもが、どこか遠い国の出来事のように思えた。


「エリアーナ、またそんなところで立ち止まって」


背後から聞こえた声は、少しだけ低く、けれど温かい響きを持っていた。幼馴染であり、近衛騎士団の副団長を務めるリュカだ。彼は私の肩に、薄手のストールをかけてくれた。その手つきは驚くほど優しく、けれど私は、そこに何を見出すべきなのかを知らなかった。


「……雨の音が、少し気になっただけよ」


私は曖昧に微笑む。嘘ではない。けれど、本当でもない。

窓の外、雨粒が石畳を叩く音は、私の退屈な日常を刻むメトロノームのようだった。


「君は、相変わらずだ。世界中の古い書物にばかり興味を持って、自分の心には鍵をかけている」


リュカは溜息をつき、私の隣に立った。彼の視線は窓の外、霧が立ち込める王都の街並みに向けられている。


「恋をすれば、世界はもっと色付くぞ。誰もがそう言うだろう。……女性だから、恋がしたいものね? 君も、本当はそれを望んでいるんじゃないのか」


リュカの言葉は、私の胸の奥に眠っていた小さな欠片を、そっと突き刺した。

恋。

誰かを想い、夜も眠れず、その人の言葉一つに一喜一憂する。物語の中にしか存在しないと思っていた、淡い憧れ。私は本を読み耽ることで、その感情を疑似体験していただけだった。現実に、自分の指先を震わせるような熱源を求めたことはなかった。


「……恋ね」


私は小さく呟く。その響きは、雨音にかき消されるほど頼りない。


「私はただ、物語の中の愛に触れていられればそれでよかったの。誰かを傷つけ、あるいは傷つけられるかもしれない感情に、わざわざ踏み込む勇気なんて、どこにもないわ」


「臆病だな」


リュカは笑った。そこには軽蔑ではなく、深い慈しみがあった。

その瞬間、私の視界が少しだけ揺れた。リュカの瞳の奥、そこには私が知らない感情が揺らめいているように見えたからだ。


二人の沈黙の間を、雨が埋めていく。

ふと、王立図書館の書庫で拾った一冊の古い魔導書を思い出した。そこには、『恋とは魂の欠損を埋める行為である』と記されていた。もし私が、自分という人間を完成させるために、他者の温もりを必要としているのだとしたら。


「……リュカ」


「なんだ?」


「もし、私が恋をしたいと願ったとして。その相手が……もし、すぐ隣にいたとしたら、どう思う?」


窓の外、雨が少しだけ弱まっていた。

リュカは私の顔をじっと見つめた。その瞳に映る私には、どんな色が付いていたのだろう。


「それは」


彼は、言葉を紡ぐのを止めた。

部屋の中に漂う、湿った空気と、どこか甘やかな気配。

私はようやく、自分がずっと「恋」を避けていた理由に気づいた。恋が怖いのではない。もし誰かを愛してしまったら、今こうして隣にいるリュカとの、何気ない日常という温かな均衡が壊れてしまうことが怖かったのだ。


「……雨が止みそうね」


私は話題を変えた。リュカは少しだけ寂しそうに笑い、頷いた。


「ああ。止むね」


明日になれば、この雨も上がり、空には晴れ間が覗くだろう。

私は窓を閉めた。閉ざしたガラスの向こう、雨の残り香を閉じ込めるように。


女性だから、恋がしたいものね。

そう自分に問いかけるたびに、胸の奥で小さな芽が疼く。それは、明日への期待かもしれないし、永遠に満たされることのない渇望なのかもしれない。


私は本を棚から引き抜いた。物語はいつでも私の味方だ。

現実は、小説よりもずっと不器用で、ずっと切ない。

けれど、この不器用な日々の中にこそ、私が追い求めていた『恋』の欠片が隠されているのかもしれないと、微かに、本当に微かに、そう思った。


雨上がりの陽光が、窓枠の隙間から、私の足元に細い影を落としていた。


その日の夜、私は眠れずにいた。


リュカの言葉が、耳の奥で何度も繰り返し再生される。雨が上がった後の静寂は、昼間の湿り気を孕んだ空気とは対照的に、どこまでも乾燥していて、冷たかった。


私は寝台から抜け出し、書斎のランプを灯した。机の上には、昼間に開いていた魔導書が伏せられたままになっている。ページをめくると、古びた羊皮紙の匂いが立ち昇った。そこには、魔女が記したとされる恋の魔術が並んでいる。


『想い人を想うこと。それは、鏡に映る自分を愛することに似ている』


そんな一節を目にした時、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。鏡に映る自分。私はずっと、その鏡の向こう側にいる誰かを探していたのか。それとも、鏡に映る私が、誰かの瞳に映る自分自身を求めていたのか。


「……バカみたい」


独りごちて、私は本を閉じた。


翌朝、王立図書館へ向かうと、そこには既にリュカの姿があった。彼は近衛騎士の制服を身に纏い、高い天井から差し込む光の中で、剣の稽古をしていた。鋭く空気を切り裂く剣先。その動きに迷いはなく、ただ美しい旋律を奏でている。


私はその姿を、柱の影から見つめていた。


彼は強くて、優しくて、私という人間を一番近くで見ていてくれる人。けれど、彼は私の中に潜む、ドロリとした執着や、誰にも言えない孤独をどれだけ理解しているのだろう。


「いつまで隠れているんだ?」


気配を消していたつもりだったけれど、彼は呼吸を一つも乱さずに言った。私は観念して、柱の影から姿を現す。


「……邪魔をしてごめんなさい」


「謝ることはない。君が来るのを、待っていたんだ」


リュカは剣を鞘に収め、汗を拭いながらこちらへ歩み寄ってきた。彼の肌の温もりが、近くへ来るほどに伝わってくる。


「……待っていた?」


「ああ。昨日、君に聞かれたことへの答えを出そうと思って」


彼の足が止まる。その距離は、昨日の雨の午後よりも、ほんの少しだけ近かった。心臓の鼓動が、自分の耳元でうるさいほどに鳴り響く。


「昨日、君は言っただろう。もし相手がすぐ隣にいたとしたら、どう思うかと」


「……言ったわね」


「俺は、その相手が自分でいいのかと、ずっと考えていた」


リュカの声が低く、震えていた。その事実が、私の内側にある冷たい殻を、ゆっくりと、けれど確実に溶かしていく。


「君は物語の中の愛を愛している。現実の俺たちは、そんなに綺麗じゃない。嫉妬もするし、怒りもする。君が読んでいる本の中の王子様のような、完璧な存在じゃないんだ」


「知っているわ」


私は彼を見つめ返す。


「でも、リュカ。私は……物語の王子様よりも、泥だらけの剣を振るうあなたの手のひらの方が、ずっとずっと信じられるのよ」


それは、自分でも驚くほど正直な言葉だった。


彼が瞳を大きく見開き、それから困ったように、けれど幸せそうに眉を下げた。彼の手が、ゆっくりと私の頬に触れる。その指先の熱が、あまりにリアルで、私は反射的に目を閉じた。


「女性だから、恋がしたい。……君はそう言った。俺も同じだ。男だから、愛する人を守りたいと願う。たとえ、その相手が俺の全てを理解してくれないとしても」


彼の唇が、私の額に触れた。

それは、どんな魔術よりも甘く、どんな物語よりも切実な、現実の感触だった。


私は、自分の手が彼の背中に伸びていることに気づいた。

私たちは、物語の登場人物ではない。けれど、この瞬間、私たちは確かに恋をしている。


空には、雨上がりの青が広がっていた。

私の世界が、ようやく色付き始めたことを、リュカの体温が証明していた。


私は小さく息を吸い込み、彼の制服の襟を掴んだ。物語は終わらない。ここから始まるのだ。私と、私を愛してくれる人のための、誰にも邪魔されない、ささやかな日常の物語が。


季節は巡り、王立図書館の窓から見える景色は、あの日の雨空から、穏やかな初夏の陽射しへと移り変わっていた。


エリアーナは机に向かい、ペンを走らせている。彼女が書いているのは、かつてのような古の伝承の翻訳ではない。リュカと過ごした、些細で、取り留めもなく、けれど宝石のように輝く日々を綴る「個人的な記録」だ。


「……また、そんな顔をして難しい本を読んでいるのか?」


背後から掛けられた声に、エリアーナは苦笑しながら羽ペンを置いた。リュカが差し出してきたのは、街の市場で買ってきたばかりの、冷えた果実の砂糖漬けだった。


「難しい本じゃないわ。あなたのことを、少しだけ」


「俺を? ……奇妙な記録だな」


リュカはエリアーナの隣に腰を下ろすと、隠すことなく彼女の書いた文字を覗き込んだ。エリアーナは少し照れくさそうに紙を伏せようとしたが、リュカの大きな手がそれを優しく制する。


紙の上には、彼がどれほど不器用に恋というものを扱おうとしているか、どれほど彼女の言葉ひとつに動揺し、そしてどれほど彼女を大切にしようと足掻いているかが、美しい詩のような文章で記されていた。


「……僕の知らない僕が、そこにいるようだ」


リュカは微かに目を細め、エリアーナの肩を抱き寄せた。


「あの頃、私は『物語の結末』ばかりを探していたの。運命の出会いがあって、困難があって、最後には永遠が約束されるような……そんな綺麗な物語を」


エリアーナは窓の外に広がる、どこまでも澄んだ青空を見つめた。


「でも、今はわかるわ。恋というものは、何か大きな出来事によって完成するんじゃない。今日という一日の終わり、あなたの隣で紅茶を飲み、明日を語り合う。そんな名もなき時間の積み重ねこそが、私たちの物語なのね」


「エリアーナ」


「なにかしら?」


「俺には、物語を紡ぐ才能はない。けれど、君が書いたその物語の、隣に座り続ける役目なら、誰にも譲るつもりはない」


リュカの力強い瞳に見つめられ、エリアーナの胸の奥で、静かな火が揺らめいた。

かつては「女性だから恋がしたい」という願いを、何処か遠い鏡の中の出来事のように眺めていた彼女は、もういない。今の彼女は、自分の手で選んだ愛という火を、自分自身で守り抜く強さを持っている。


図書室の窓から風が吹き込み、めくられたページの端がぱたぱたと音を立てた。

それは、まるで物語の続きを急かす読者の指先のように。


「リュカ、少し読み聞かせてもいい?」


「ああ。君の声で聞けるなら、どんな話でも歓迎する」


エリアーナは再びペンを執った。

「女性だから恋がしたい」と願ったあの日の少女は、いま、恋をしている自分を慈しみながら、二人の明日というページを、また一枚、丁寧にめくっていく。


外では、名もなき小鳥がさえずり、初夏の風が街を駆け抜けていく。

何一つ特別なことは起きない。ただ、穏やかな日常がそこにある。

それこそが、彼女が求めていた「恋」の、真実の形なのだと、彼女は確信していた。


物語は、まだ終わらない。

ページをめくるたびに、二人の心は少しだけ、深く寄り添っていくのだから。


季節が巡り、秋の気配が王都にも色濃く落ち始めた頃のことだった。


図書館の書架の奥、埃と静寂に守られた場所で、エリアーナは一冊の古びた手記を見つけた。それは、かつてこの国を統治していた王妃が、身分の差ゆえに叶わなかった恋を嘆き、最後には自らの手で愛を終わらせたという、悲劇の記録だった。


文字を追うたび、胸の奥がぎゅりと冷たくなる。

王妃は、恋を「所有するもの」だと勘違いしていたのかもしれない。相手を完全に手中に収め、自分のものにしなければ、それは愛ではないと。


「……愚かだわ」


思わず口から漏れた言葉に、自分でも驚いた。

かつての自分なら、その物語の悲劇性に涙し、美しさを見出しただろう。けれど今のエリアーナは、ただその孤独に哀れみを感じていた。


「何が愚かなんだ?」


背後から掛けられた声に、エリアーナはふと我に返った。リュカが、任務の合間に立ち寄ったのだろう。彼の制服は少しばかり汚れていて、頬には小さな切り傷があった。近衛騎士としての彼の日常は、彼女が本の中で触れる冒険譚よりも、ずっと鋭く、危険に満ちている。


「……ねえ、リュカ。もし、私の物語の結末が、この本のように悲劇的なものだとしたら、あなたはどうする?」


エリアーナは本を閉じ、リュカを見上げた。

リュカは一瞬だけきょとんとした後、苦笑して彼女の隣に腰を下ろした。彼は傷ついた頬をエリアーナの肩に預け、小さく溜息をつく。


「俺は物語の読者じゃない。登場人物だ」


「……ええ、そうね」


「だから、悲劇か喜劇かなんて、そんな先の話はわからない。俺が興味があるのは、今この瞬間、君が俺の隣にいて、俺も君の隣にいるという事実だけだ」


彼はそう言って、エリアーナの手を自分の大きな手に重ねた。彼の体温は、秋の冷え込みとは対照的に、驚くほど熱い。


「悲劇が待っているとしても、それを塗り替えるために、俺は今日という日を積み重ねる。君が俺を必要とする限り、俺は君の物語の傍らにい続けるよ。……たとえ、君がいつかこの物語を閉じる日が来たとしても」


エリアーナは、ふっと息を吐いた。

彼女が守りたかったのは、物語の結末ではない。結末を恐れて立ち止まることでもない。

ただ、こうして隣にいてくれる人の体温と、それに応えようとする自分自身の鼓動を、確かなものとして感じ続けること。


「……あなたは、本当に不器用ね」


エリアーナは笑った。それは、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた、少しだけ強がりな笑みだった。

彼女はリュカの顔に触れ、その傷を指先でなぞった。彼の痛みが、自分の一部のように伝わってくる。


「女性だから恋がしたい。そう願ったとき、私は何かを『得よう』としていた。でも、今の私は違う」


エリアーナは、彼の手を強く握り返した。


「私はあなたを愛している。だから、私たちがどんな結末を迎えるとしても、その最後の一行まで、あなたと一緒にページをめくりたいの」


秋の風が、開かれた窓から吹き込み、図書館の古い本たちのページを音を立ててめくっていく。

それはまるで、時間が急いで次の章へ進もうとしているかのように。


二人の間には、言葉はもう必要なかった。

ただ、互いの存在を確かめ合うように、静かな呼吸が重なる。

王妃の悲劇の記録は、エリアーナの手から滑り落ち、床に静かに着地した。それはもう、彼女にとっての「真実」ではない。


真実は、ここにある。

傷つき、泥に塗れ、それでも「隣にいる」と誓う、この不器用で、愛おしい日常の中にこそ。


陽が落ち始め、図書館の中が琥珀色の光に包まれていく。

エリアーナとリュカの物語は、悲劇でも喜劇でもない。

ただ、誰よりも切実に、誰よりも深く、今日という一日を懸命に生き抜く――そんな「愛」という名のページが、これからも無限に紡がれていくのだ。

【後書き】

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。

鏡に映る自分と、隣にいる誰か。エリアーナがようやく見つけた「恋」という名前の日常を、皆様とこうして共有できることに、深い喜びを感じています。

もし少しでもこの物語を「いいな」と思っていただけましたら、ブックマーク登録と、作品下部の評価ボタン(★★★★★)で応援していただけると、執筆の糧になります!

皆様からの評価が、何よりのエネルギーです。ぜひ、力を貸してください。

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