第20話 海底への手招き
波に逆らって泳ぎ続けた結果、祐奈にやっと追いついた。
まだ砂浜から少ししか離れていないのに、もう腕と足どっちもきつい。
「祐奈、よくそんな余裕で泳げるな」
「そんなことないよ? 私もちょっと疲れた」
「そんな体勢でよく言うよ」
今の祐奈は浮き輪に乗って優雅に漂っている状態だ。
小さな波に揺られる彼女の姿は余裕しか感じられない。
「ほら、ちゃんと浮き輪持っててね。私が流されないように」
「わかってるって」
「あと、手も握ってほしい」
「いや、手は関係ないでしょ」
「あるよ。浮き輪が急に消えたらどうするの?」
「そんな超常現象起こってたまるか」
ただでさえ目の前の幼馴染が未来人だというのに、これ以上常識外のことが起きるのはやめてもらいたい。
さすがに脳がパンクしてしまう。
「……まぁ、でも仕方ないな」
「おっ、繋いでくれるんだ」
「いや、違う。そもそも浮き輪を持っているから手は塞がっているし」
「じゃあ何が仕方ないの?」
「帰りだよ、帰り。帰りの電車とかでは手をつないでやるって」
「へー、そんなに手をつなぎたいんだ?」
自分から言ってきたくせになんだこいつ。
……つなぎたいのは確かなんだけど。
「……でも、それでいいよ。私も手つなぎたいし」
耳元でささやかれた甘い言葉に、血が一気に湧き上がった。
幼馴染は強い。俺の心はいつも彼女の手のひらの上で転がされている。
でも、文句は言わない。
これもまた、俺たちっぽくて心地いいからだ。
ほわほわとした温かさを感じる。
「そういえばさ、ひろくん」
「なんだ?」
「今って周りに人いる?」
周りを見るが、そこまで人はいない。
砂浜には人は多かったが……やはり海上、海は広い。
そこまで沖に出ていないというのに、周囲で俺たち以外にあるのは波の音ぐらいなものだった。
「いや、あんまいないな」
「そっか、じゃあキスしていいよ」
「……は?」
「キス、していいよ。さっき断っちゃったしね」
なんで急に?
手つなぎからあまりにも脈絡がなさすぎる。
「いやね、さっき勝手にキスしておいて断っちゃったのよくないかなって思い返してさ」
「あぁ……そういうこと」
「そうそう。だから、人がいない今ならみられる恥ずかしさはないからいいよって話」
とかなんとか言っているが、こちらを向いた祐奈の瞳は輝いている。
この幼馴染はどうやらキス好きらしい。知らなかったな、当たり前だけど。
「してもいい、じゃなくて……したいんだろ?」
「あれ、バレちゃった?」
「それくらい顔を見ただけでわかる。何年幼馴染やっていると思っているんだ」
「さすがだねぇ。では、よろしくお願いします」
祐奈が目を閉じる。
ほぼ二人きりの状況に、海上というロマンチックな環境。
場はすでに整った。
男として、このおねだりにこたえなくてはいけない。
しかし……
「ゆ、祐奈。浮き輪のせいで届かん!」
「え……あはっ! なんか面白い動きしてるね」
何笑っとるんじゃ。祐奈の願いをかなえようとしているのに。
浮き輪から祐奈を落とさないよう慎重に飛び上がるが、祐奈の顔には届かない。
泳ぎで手足に疲労がなければ届いたかもしれないのに……
ただ、せっかくのキスチャンス。
向こうから言ってきて、失敗確立0の最高のシチュエーション。
疲れているからと言って、引き下がるわけにはいかない。
そうやって足をばたつかせている時だった。
「……痛っ!」
足に突如として激痛が走った。
あまりの衝撃に浮き輪から手を放してしまう。
だが足は動かず、浮力を失った俺の身体は海中へと沈んでいく。
「ひろくん!?」
海に沈む寸前に、祐奈の声が聞こえた。
先ほどまでの甘い声色など一切ない。
(祐奈……!)
痛みに耐えつつ、俺は水中から祐奈に手を伸ばす。
だが、俺の手は何もつかめなかった。
俺の身体が海中に沈む。
深く、深く。海の底へと招かれていく。
ここは水の中。
もう、何も聞こえない。
息も苦しくなってきた。
俺が死ぬのはホワイトデーじゃなかったのか?
なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ?
俺の問いに答える者はいない。
意識を失う直前、最後に見たのは——
こちらに向かって目いっぱい手を伸ばす祐奈の姿だった。
ゴーグルもないというのに、その眼はしっかりと俺をとらえている。
あぁ、やっぱり幼馴染は強いな。
絶対諦めないって顔をしている。
俺が祐奈を好きになったのは、こういう心なのかもな。
「ひろくん! だめだよ!」
海中なのに幼馴染の、想い人の声が聞こえた気がする。
……これは妄想なのかな。
でも、妄想じゃなかったらいいな。
俺はまだ、生きていたい。
やりたいことはたくさんあるのだから。
祐奈に救われなきゃいけないのだから。
(だから、頼む……助けてくれ——)
何かが手に触れる感覚と同時に、俺は意識を失った。
♢
ふわっと意識が戻る。
酸素を求めるように口を開いたときに気付いた。
普通に呼吸ができる……?
呼吸ができるということはすなわち、死んでいないということを意味する。
(良かった、生きてたのか……)
大きく深呼吸をして、ゆっくりと目を開ける。
すると、そこには泣き腫らした祐奈の顔があった。
頭にはやわらかい感覚があるし、どうやら膝枕されているようだ。
「祐奈……」
「ひろくん、ひろくん!」
祐奈がギュッと抱きしめてくる。
意識戻りたての人間にとってこの抱き着きは少しきついが……これだけ泣いているんだ、それは言わないでおこう。
「ごめん、私が海に行こうなんて言ったばかりに」
「何言ってるんだ、祐奈は悪くない」
悪いのは今も少しある足の痛みを引き起こした犯人、恐らくクラゲだ。
祐奈に責任なんてない。
「それに、祐奈が助けてくれたんだろ? 溺れた人を助けるのは危険なのに……ありがとうな。見えてたよ、祐奈が潜ってくるの」
「でも、でも……!」
「でもじゃない。いいじゃないか、助かったんだし」
「助けるのは当たり前だよ! でもね、ひろくんをこんな目に遭わせてしまった私が憎くて……! 私が殺そうとしたも同然じゃん!」
……そうか。俺と祐奈は本来この夏に海で遊ぶ予定はなかったと言っていたっけ。
で、運命を変えるために誘ったらこの結果。
自分の責任と感じてしまうのも無理ないな。
「でもさ、こんな目に遭ったんだぞ? 運命、変わったと思わないか?」
「運命が、変わった?」
「そう、俺は死にかけたんだ。タイムリープとか全然詳しくないからよくわからんけど、こんな大きな出来事が起きたら運命も変わるんじゃないか?」
「……確かに、変わる要因にはなる……かも」
「だろ? だったら、祐奈の目的は成功じゃないか。運命を変えて、俺も助かっている。祐奈の計画はうまくいっているんだ。それなのに、何を落ち込む必要があるんだ?」
俺の精いっぱいの励ましもあまり効果がないのか、祐奈は難しい顔をしている。
泣いたり、悩んだり……太陽が雨雲に隠されてしまったみたいだ。
俺としては、祐奈にはずっと笑っていてほしいのだが……命がかかっているんじゃそうさせるのも無理か。
「そうね、うん……今はそう思っておくことにするわ」
「あぁ、そうしておいてくれ。それに、変わってなくたって大丈夫。だって、今日みたいに祐奈が助けてくれるんだろ? 信じているぞ、未来人」
「……当然ね。じゃなきゃ、未来から来た意味がない」
祐奈が真剣な顔で俺を見つめて——キスした。
柔らかな唇は、命を失いかけた俺に残った緊張感も溶かしてしまう。
何分経ったのだろう。それとも数秒程度か?
時間の経過がわからないほどの接触はついに終わりを迎える。
離れていく祐奈の赤い顔は、このまま抱きしめたくなるものだった。
膝枕をされていなければ、祐奈の身体は今頃俺の腕の中だっただろう。
「ゆ、祐奈!? またキスしやがって!」
「さぁ、着替えて帰りましょ? もうこれ以上危険は必要ないわ」
しかし……また、キスされてしまった。
これで祐奈とのキスは3回目となるのに、結局全部祐奈からだ。
俺からキスする日はいつやってくるのだろうか。
ボーっとする俺をどかして立ち上がり、更衣室へと向かう祐奈を見て俺は思うのだった。




