エディスに託された答え
「……ここならもう安全だろう。少し休息をとるね」
グウェイクは彼女を抱えたまま、街外れの古い風車小屋へとたどり着いた。
月光が街全体を青白く照らし、追っ手の声はもう聞こえない。
「ありがとう……。本当に、助けてくれて。言っていなかったわね。私の名前はエディス。貴方の名前は?」
風車小屋にあった古ぼけた椅子にエディスを下ろすと、一息つけたのか彼女は感謝の言葉を加えて、自分の身元を明かした。
「俺の名はグウェイク。でも、礼を言うのはまだ早いさ。君の心を守り通せたか、どうかは……」
辺りを見回していたグウェイクがエディスの方に向き直ると--
彼が言い終わる前に、エディスは一歩近づき、彼を抱き寄せた。
そして、そのまま背伸びをして、彼の頬にそっとキスをした。
――それは、これまでのどんな口づけとも違っていた。
月光のように冷たい苦みでもなく、相手の心を支配する魔性の熱でもない。
ただ、温かくて、柔らかい。
そして、まるで蜜のように「甘い」感触だった。
「っ……!?」
グウェイクの体が硬直する。
初めて、キスで体が動かなくなるという経験をした。
エディスの唇が離れた後も、彼の心臓は激しく高鳴っていた。まるで、初めて人間らしい感情を揺さぶられたかのように。
「これが、今できる私の精一杯のお礼よ。……あなたのおかげで、私の心は守られた。だから、感謝の気持ちを伝えたかったの」
エディスは少し照れたように微笑んだ。その純粋な感謝のキスは、グウェイクの心に、これまで感じたことのない温かい灯をともした。
(なんだ、これ……。これが『甘い』ってことなのか……?)
初めて味わった「真実の甘さ」に、グウェイクは混乱していた。
偽りの幸福を生み出す自分の口づけとは、全く異なる温かさ。
彼は一度目を閉じ、大きく息を吐き出す。
そして、改まったようにエディスを見つめ直した。
「……エディス。君に訊きたいことがある」
グウェイクの顔から、いつもの軽薄な笑みが消えていた。真剣な眼差しは、彼女の本心を探っているかのようだ。
「君は、“真実の愛”を知っているのか? 月の姫も、あの老傭兵も……みんな愛を知れって言った。でも、俺にはそれがどんなものなのか、さっぱり分からない。君は、なぜ自分の心をそこまで守ろうとしたんだ?」
エディスはグウェイクの問いかけに、真っ直ぐな瞳で答えた。
「“真実の愛”、ね……。私は、それは『自分の心と向き合うこと』だと思うわ。誰かの意見や、誰かの力で決められるものじゃない。どんなに苦しくても、自分の心の声を聞いて、誰を、何を愛するのかを自分で決める。そして、その決断に責任を持つこと……」
彼女はそっと、自分の胸に手を置いた。
「それが、誰かを深く、そして偽りなく愛するための、一番最初のステップなんじゃないかしら」
グウェイクはエディスの言葉を、まるで喉の渇きを潤すかのように、一言一句噛み締めるように聞いた。
『自分の心と向き合う』――これまでずっと、他人を操作して生きてきた自分には、最も欠けていた視点だった。
窓から溢れる月光が、2人を照らしている。
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エディスを安全な隣街の祖父の家へ送り届ける。
いよいよ、別れの時がやってきた。
昇り始めた朝日の光が、二人の影を長く伸ばしている。
「ここまでで大丈夫よ。…本当に、あなたには救われたわ」
そう切り出すと、エディスは晴れやかな笑顔で右手を差し出す。だが、グウェイクはその手を取ることができなかった。胸の奥に澱のように溜まった罪悪感が、彼女の清らかさに触れることを拒んでいた。
「……エディス。君に、隠していたことがある」
重い沈黙を破り、グウェイクは絞り出すように声を震わせた。彼は、自分が「食い逃げ常習犯」であったこと、そして何より、唇を重ねた女性を10分間だけ意のままに操る呪わしいスキル『魅了操作』の持ち主であることを、包み隠さず打ち明けた。
「昨日、君を助けるために衛兵たちに使ったのもその力だ。……僕は、君が守ろうとした『心の自由』を、今まで踏みにじって生きてきた男なんだよ」
エディスの表情が強張る。当然の反応だ。グウェイクは自嘲気味に笑い、天を仰いだ。
「この力は毒だ。使うたびに誰かの心を壊し、僕の心も空っぽになっていく。……なぁ、エディス。君ならどうする? こんな力は二度と使えないように『消失』するべきか?」
エディスはしばらくの間、黙ってグウェイクを見つめていた。やがて、彼女はゆっくりと歩み寄り、今度は躊躇うことなく彼の手を強く握りしめた。
「……力そのものに、善も悪もないわ」
意外な言葉に、グウェイクは目を見開いた。
「確かに、あなたの力は恐ろしいものかもしれない。でも、昨日の夜、あなたが私を助けてくれた時、私の心は操られてなんていなかった。あなたは自分の意志で、私を自由にするためにその力を使ったんでしょ?」
「それは……」
「消失して逃げるのは簡単よ。でも、あなたはもう気づいているはず。その力が、誰かを救うための『盾』にもなり得ることを。大切なのは、力を消すことじゃなくて、あなたがその力を使う時に『相手の心』をどれだけ尊重できるかじゃないかしら」
エディスはグウェイクの目を真っ直ぐに見つめ、力強く頷いた。
「もし、この先の旅で、愛や心を踏みにじろうとする『本当の悪』に出会ったなら……その時は、迷わずその力で戦いなさい。偽物の愛を壊すために、あなたの力を使いなさい。それが、真実の愛を探すあなたの贖罪になるはずよ」
エディスの言葉は、暗闇を彷徨っていたグウェイクの心に一本の光の道を通した。
支配するためではなく、守るために。
偽りを広めるためではなく、偽りを暴くために。
「……厳しい道だな」
「ええ。でも、今のあなたなら大丈夫。だって、私があげたキスの『甘さ』を、あんなに驚いて受け止めてくれたんだもの」
エディスはいたずらっぽく笑うと、「これ、貴方にあげる」と言って少し年季が入ったマントをくれた。
そして最後に、「じゃあね」と言うと手を振って去っていった。
一人残されたグウェイクは、自分の掌でそっと唇を覆う。
かつては他者を弄ぶための道具だと思っていたその唇は、今は少しだけ重く、そして確かな使命感を帯びているように感じられた。
「……“真実の愛”を知るための、贖罪の旅、か。悪くないね」
グウェイクは軽やかに背を向けると、再び歩き始めた。
背後のマントが風でたなびく。
彼の視線の先には、まだ見ぬ世界と、そしていつか再び相まみえるであろう「月の姫」が待っている。
いま彼を照らしている朝日は、その先の未来も照らしているのだろうか。
次回、雪の国編




