「月の姫」エレノア
重厚な扉が、音もなく開かれた。
部屋の中に満ちていたのは、夜の闇を透き通らせたような、神秘的な銀の光だった。
バルコニーへと続く窓の傍ら、月光を受けて立っている女性がいる。
透き通るような銀髪は夜風に揺れ、その肌は雪のように白い。彼女こそがこの国の至宝、「月の姫」エレノアであった。
「……夜分に、騒々しいお客様ですね」
エレノアは驚く様子もなく、静かに振り返った。その瞳は深い藍色をしており、迷い込んだネズミを見るような、冷ややかな知性を湛えている。
「やあ、こんばんは。あまりに月が綺麗だったから、一番近くで君と一緒に見たくなってね」
グウェイクはいつもの軽薄な足取りで、彼女との距離を詰めていく。
絶世の美女――その噂に違わぬ、いや、それ以上の神々しさに一瞬気圧されそうになるが、彼はすぐに不敵な笑みを取り戻した。
「そんなに警戒しないで。僕はただ、君を『自由』にしてあげたいだけなんだ」
「自由、ですか。私を意のままに操ることが、貴方の言う自由なのですか?」
「……! なんだ、気づいていたのか」
グウェイクは歩みを止めない。むしろ、面白そうに目を細めた。
彼は一気に間合いを詰め、エレノアの華奢な肩を壁へと押し当てる。逃げ場を塞ぐ、彼が得意とする必勝の形だ。
「知っているなら話が早い。君のその誇り高い瞳が、僕への愛で蕩けるのを見せてよ」
グウェイクは強引に彼女の顎を指先でクイと持ち上げた。
奪う。一瞬で。すべてを塗り替える魔性の口づけによって。
彼が唇を寄せようとした、その時。
「……悲しい方」
エレノアの口から漏れたのは、拒絶でも悲鳴でもなく、凍てつくような「憐れみ」の声だった。
「な……?」
グウェイクの動きが止まる。
エレノアは避けることもせず、至近距離でまっすぐに彼の瞳を射抜いた。その冷徹な眼差しは、グウェイクの心臓の奥にある、自分でも気づかなかった「空虚」を見透かしているようだった。
「貴方の術は、心の器を無理やり愛という名の毒で満たすもの。ですが、貴方自身の中には……一滴の愛も注がれていない」
「……何を、言ってるんだ」
「貴方は、“真実の愛”を知らないのではありませんか? 誰かに心から愛されたことも、誰かを命懸けで守りたいと思ったことも……。だから、そうやって薄っぺらな術で、偽りの心を買い漁るしかない」
エレノアの言葉は、鋭い刃となってグウェイクの余裕を切り裂いた。
彼女はそっと自分の胸に手を当て、寂しげな眼差しを向ける。
「唇を重ねるだけで心を得たつもりになっている貴方は、誰よりも孤独に見えます」
「黙れよ……!」
グウェイクは苛立ちに任せて、力任せに彼女の唇を奪おうと顔を近づける。なぜ苛立っているのかは自分でも分からない。
だが、その瞬間に感じたのは、彼女から放たれる圧倒的な魔力の拒絶と、今まで味わったことのない胸の「疼き」だった。
「黙れ……黙れと言っているんだ!」
グウェイクの声が、静寂に包まれた寝所に荒々しく響いた。
本当は自分でも分かっていた。図星を突かれた苛立ち。これまで数多の女性を陥落させてきた絶対的な自信が、エレノアの冷徹な眼差しの前で音を立てて崩れていく。
「“真実の愛”なんて、そんな安っぽい言葉で僕を揺さぶれると思うなよ!」
彼は吐き捨てるように言うと、逃げることを許さない強さで彼女の細い腰を引き寄せ、その唇を強引に奪った。
――勝った。
そう確信したはずだった。
しかし、唇から伝わってきたのは、これまで味わったどの女性とも違う感触だった。
それは熱を帯びた悦びではなく、冬の海のように冷たく、そして薬草のように突き刺さる「苦み」だった。
(なっ……魔力が、流れない……!?)
いつもならグウェイクの体内に溢れるはずの、相手を支配する魔力の奔流が起きない。それどころか、彼の『魅了操作』はエレノアの深い静寂の中に吸い込まれ、霧散していった。
「……っ、なぜだ! なぜ術が効かない!?」
突き放すように唇を離したグウェイクは、肩で息をしながら後ずさった。
エレノアは乱れた服を直すこともせず、ただ静かに、凪いだ海のような瞳で彼を見つめ直した。
「心のない口づけは、ただの作業に過ぎません。貴方の術は、相手の心に付け入る隙があって初めて成立するもの。……今の貴方の心には、私を揺さぶるだけの重みがないのです」
彼女は窓から差し込む月光を浴び、まるで天界の住人のような神々しさを纏う。
「グウェイク。いつか貴方が、自分以外の誰かのために涙を流し、真実の愛を知ったなら……その時は、もう一度お会いしましょう。その時こそ、貴方の本当の声を聞かせてください」
その時、廊下の向こうから無数の金属音が近づいてくるのが聞こえた。
「あれはやっぱり誤報だった!であれば姫様が危ない!」「見ろ!姫様の部屋の扉が開いているぞ!」
響く近衛兵達の怒号。彼女らにかけた術が解けたか。どうやら長居し過ぎたようだ。
「ちっ……!」
グウェイクは窓枠に手をかけ、最後に一度だけエレノアを振り返った。
彼女は追っ手を呼ぶこともなく、ただ寂しげな眼差しを湛えて彼を見送っていた。
「……“真実の愛”、か。そんなもの、この世にありはしないさ」
吐き捨てるように呟き、彼は夜の闇へと身を躍らせた。
城の縁や突起を利用して城壁を滑り降り、追っ手の包囲網を潜り抜けていくグウェイクの胸の中には、先ほどの口づけの「苦み」だけが、いつまでも消えずに残っていた。
次回、旅立ち編




