05.臨場
GRSI本部から発進したシャトルは、セントラル・オービタルの煌めく光の帯を抜け、漆黒の宇宙へと吸い込まれていく。
幸いにも、グランド・コスモス・ライナーは比較的近い宙域を走行しており、チームYを乗せたシャトルは、あっという間にその巨大な姿を捉えた。緊急事態とはいえ、最新鋭のシャトルは揺れ一つなく、静かに銀河を切り裂いていく。シャトルの窓からは、セントラル・オービタルの巨大なリング型都市が遠ざかっていくのが見え、その光は、まるで銀河に浮かぶ宝石のようだった。
シャトル内では、チームYの面々が、それぞれの端末でグランド・コスモス・ライナーの設計図や警備システム、そしてゼノス・ヴァルガスに関する追加情報を確認していた。緊張感はあるものの、本物の任務に赴く彼らの表情には、どこか引き締まった決意が宿っている。
アラン局長の計らいで、ゼノス・ヴァルガスのような“特定旅客”の対応に特化した専門のチームも同行している。彼らはヴァルガスへの対応を一任されるため、チームYは捜査に集中できるはずだった。
特定の旅客、特にヴァルガスのような銀河の要人の警護やトラブル対応は、GRSIの中でも特に専門性が求められる分野だ。彼の気まぐれや権威主義的な振る舞いに、GRSIの通常エージェントでは対応しきれない場面も多い。そのため、今回の同行は、チームYにとって非常に大きな助けとなるだろう。
「グランド・コスモス・ライナーのセキュリティシステムは、GRSIが開発に関与している最高レベルのものだ。理論上、外部からの侵入は不可能に近い」
ノアが、シャトル内のホロディスプレイに設計図を映し出しながら、淡々とした口調で説明する。
「特に、ヴェリディアン・エコーが保管されていた『ギャラクシー・パノラマ』ルームは、多重の生体認証とレーザーグリッド、そして物理的なバリアで守られている。過去に一度も突破された例はない。そして、これらのログには、一切の異常がない。侵入者を示すデータポイントも、セキュリティアラートの記録も、一切存在しない」
「つまり、誰も侵入していないってことか?じゃあ、宝石は勝手に消えたってのかよ!」
イヴァンが、信じられないといった様子で腕を組んだ。彼の屈強な身体は、シャトルの狭い空間には窮屈そうだった。
「そんなバカな話があるか!もしそんなことができるやつがいるなら、それはもう人間じゃねえ!」
「論理的に矛盾が生じる。盗難の事実がある以上、何らかの方法でセキュリティが突破されたはずだ。しかし、その痕跡が全くない」
ノアの眉間に深い皺が刻まれる。彼にとって、理解できない事象は存在しないはずだった。彼の指が、ディスプレイ上のセキュリティログを高速スクロールさせていくが、どこにも「異常」は表示されない。それはまるで、システムが完全に機能しているのに、対象物が消えた、という理不尽な状況を突きつけられているかのようだった。
エミリーが、冷静な声で口を挟んだ。
「内部の協力者がいた可能性は?あるいは、ヴァルガス自身が絡んでいる可能性もゼロではないわ。自己防衛のための狂言、というケースも過去にはあったわね」
彼女の瞳は、ホロディスプレイに映るヴァルガスの顔を鋭く見つめていた。ヴァルガスの持つ財力と影響力を考えれば、あらゆる可能性を排除すべきではなかった。
「ヴァルガスは確かに動揺していた。だけど、彼の声の『音』は、狂言のそれとは少し違った気がするんだ」
ミリアムが、少し首を傾げながら言った。
「もっと、本当に大事なものを失った、焦りみたいな『音』がしたの。あの怒鳴り声も、ただの虚勢じゃなくて、本当に追い詰められているような『響き』があった。それに、ニュースで言ってた『黒い噂』も、あの『音』と繋がってる気がするんだ」
彼女は、言葉では説明できない感覚を懸命に伝えようとしていた。ミリアムにとって、人々の感情や周囲の状況は、視覚情報だけでなく「音」として認識される。ヴァルガスの声のトーン、呼吸の乱れ、そして彼の周囲に漂う見えない「波」が、彼女には明確な「不協和音」として聞こえていたのだ。
カケルは、彼らの議論を黙って聞いていた。彼の脳裏には、午前中にアラン局長が語った「影の奥に潜む巨悪」という言葉が響いていた。そして、ヴァルガスの「黒い噂」――不正な手段で富を築き、弱者を食い物にしてきたという疑惑。単なる盗難事件ではない、と彼の予測が告げていた。今回の事件は、単に宝石を取り戻すだけでなく、その背景にある「真実」を暴くことが重要だと、彼の直感が強く訴えかけていた。
シャトルがグランド・コスモス・ライナーのドッキングポートに静かに接合された。GRSIの制服を着たチームYが、ヴァルガス側のセキュリティ担当者や、アラン局長が手配した特定旅客対応チームのエージェントと共に、盗難現場である「ギャラクシー・パノラマ」ルームへと向かう。
ヴァルガスの専門チームは、既にヴァルガス本人と面会し、彼をなだめつつ、今後の対応について協議を開始しているようだった。
部屋に足を踏み入れた瞬間、誰もが息をのんだ。あのヴァルガスが自慢していた絢爛豪華なルームは、以前と寸分違わぬ姿でそこにあった。高価な調度品、美しい眺望、そして――中央に置かれた、空っぽの強化ガラスケース。宝石が消えたこと以外、何一つとして乱れていない。まるで、宝石だけが空間から切り取られて消え去ったかのようだった。
「まさか……本当に、何一つ痕跡がないのか?」
イヴァンが、茫然とした声で呟いた。彼の強靭な身体にも、この異様な状況は理解を超えていた。
「まるで魔法でも使われたみたいだ。こんな手口、聞いたこともねえぞ!」
ノアは、素早く携帯端末を取り出し、部屋の隅々までセンサーを走らせる。
「異常なし。物理的な侵入痕、電子的な干渉、全てがゼロだ。完全にクリーンルームだ……ありえない」
彼の声には、明確な焦りが混じっていた。データが示す事実と、目の前の現実が乖離している。彼のロジックでは説明できない現象に、ノアは苛立ちを隠せないでいた。彼は端末の画面を凝視し、あらゆる可能性をシミュレートするが、どのパターンも「ヴェリディアン・エコーの消失」という結果には繋がらなかった。
エミリーは、精密なセンサーを内蔵したグローブをはめ、ガラスケースの表面を丹念に調べていく。彼女は通常の目視検査に加え、マイクロ振動センサー、熱感知センサー、さらには分子レベルの残留物を検出するセンサーなど、あらゆる分析機能を搭載したグローブを駆使していた。しかし、彼女の熟練した捜査眼と最新技術をもってしても、肉眼では何も見つけられない。だが、彼女の指先がケースの天井に近い部分をなぞった、その時だった。
「待って」
エミリーの声が、静寂に包まれた部屋に響いた。彼女の表情は、わずかに、しかし確実に変化していた。
彼女は精密グローブのセンサーを最大出力にし、特定の波長の光をガラスケースに照射した。すると、肉眼では捉えられないはずの、非常に特殊な偏光フィルターを通して、ケースの表面にごくごく微細な「傷」が、ぼんやりと浮かび上がった。
それは、まるで猫の爪痕のような、数ミリ程度の薄い引っかき傷で、光の加減でなければ決して見えないほどだった。しかし、エミリーの特殊なグローブのセンサーは、そのわずかな異変を捉えていたのだ。
「これは……物理的な傷よ。それも、非常に微細な。おそらく、ナノレベルのコーティングを破壊したもの」
エミリーが、冷静だが、どこか驚きを隠せない声で言った。彼女の指が、その傷をなぞる。
「通常の方法では、この強度のガラスにこんな傷はつけられない。しかも、この形状……まるで、何か鋭利なもので、表面をそっと撫でたような痕跡だわ」
ノアが即座にグローブのデータを自身の端末に転送し、解析を始める。彼の顔色が、急速に青ざめていく。
「このデータは……信じられない。過去に報告されたシャドウ・キャッツの犯行と、完全に一致するパターンだ」
ノアが、ディスプレイから顔を上げ、驚きを隠せない声で言った。
「セキュリティシステムを物理的に突破しつつ、痕跡を残さない光学迷彩、そしてこの微細な侵入痕。どれもが彼らの手口を示唆している。彼らが、あの『幻の集団』が関与している可能性が極めて高い!」
「シャドウ・キャッツだと?あいつらか!」
イヴァンが目を丸くし、興奮と困惑が入り混じった表情を見せた。
「噂じゃ、実在するかどうかも怪しいって話じゃなかったのか?それが、まさかこんなところで……。しかし、あいつらが相手なら、腕が鳴るってもんだ!」
彼の拳が、かすかに震えている。
「あの『音』……静かすぎて、逆に不気味だったこの『音』は、シャドウ・キャッツの『音』だったんだ……」
ミリアムが、驚きと同時に納得したような表情で呟いた。
「彼らの動きって、本当に見えないし、聴こえないんだね。空間に溶け込んでいるみたいで、とっても繊細な『音』がするの……」
カケルは、その傷を凝視した。彼の予測能力が、その微細な痕跡から、膨大な可能性の「連鎖」を構築し始めていた。ヴァルガスの警備の完璧さ、そしてこの「シャドウ・キャッツ」としか形容できない手口。
アラン局長の言葉、「影の奥に潜む巨悪」というフレーズが、彼の脳裏を駆け巡った。この事件は、ヴァルガスの不正と、見えざる犯人の目的が複雑に絡み合っていると、カケルの直感が強く囁いていた。
「これは、単なる強盗ではない」
カケルが、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。彼の視線は、虚空を見据えていた。
「ヴァルガスが隠蔽しようとしている『黒い噂』。そして、シャドウ・キャッツが常に標的としてきた強欲な権力者。全ての点が繋がった。彼らがヴァルガスから宝石を奪った真の目的もまた、単なる金銭ではないはずだ。この事件の裏には、もっと深い真実が隠されている」
「ノア、その過去の報告書と、この現場のデータを詳細に照合してくれ。シャドウ・キャッツの犯行手口、使用された技術、全てだ。エミリー、この傷から犯人の手がかりを洗い出す。もし可能なら、付着物や、わずかな残留分子の可能性も探ってくれ。ミリアム、君の空間認識で、犯行時のこの部屋の『音』を再現してほしい。わずかな空気の流れ、光の屈折、人の気配……全てだ。イヴァンは、周囲の状況を警戒し、不審な動きがないか探せ。特に、ヴァルガス側の警備員や同行者にも注意を払ってくれ」
カケルの指示に、チームYはそれぞれの役割を認識した。
シャドウ・キャッツ、誰もが名前を聞いたことのある存在との巡り合いに、チームYの中に緊張感が芽生えつつあった。