18.偽りの救出
イヴァンが扉を押し開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、予想だにしない光景だった。
広大な空間の奥に、確かにリン・リーの姿があった。彼女は、透明な強化ガラス製のカプセルの中に横たわっており、その顔には疲労の色が浮かんでいるものの、目立った外傷はない。まるで、宇宙美術館の展示品のように、厳重ながらも奇妙に静かな場所に収められていた。そのカプセルは複雑な機械装置に接続されており、生命維持装置の微かな作動音だけが、不気味な静けさの中で響いていた。
「リン・リー!」
ミリアムが思わず声を上げた。彼女の『音』は、カプセル越しでもリン・リーの微かな生命の鼓動を捉え、その存在を確かに伝えている。その『音』は、助けを求める切実な響きを帯びていた。
「やったな!リン・リーは無事だ!」
イヴァンが安堵の息を吐いた。ここまでの潜入は、まるで拍子抜けするほどに順調だった。隠密行動でアイアン・ガードの兵士を排除し、ノアとエミリーの完璧なサポートでセキュリティを突破してきた。彼らにとっては、まさに完璧な作戦遂行だった。
しかし、カケルの顔には、依然として訝しさが張り付いていた。彼の冷静沈着な判断力は、この異常なまでのスムーズさに危険信号を発していたのだ。
「落ち着け、イヴァン。これは……あまりにも簡単すぎる」
カケルは、リン・リーの置かれた状況、そして周囲の不自然なほどの静けさに、警戒を強めた。彼の『連鎖反応予測』の能力が、不穏な未来を示唆するようにチクリと脳裏をよぎる。
ヴァルガスの、そしてアイアン・ガードの警備がこれほど手薄なはずがない。彼は事前に、ヴァルガスの背後には何らかの怪しい動きがあることを多少は認知しており、今回のリン・リー誘拐も、単なるヴァルガスの個人的な復讐ではないかもしれないと予測していた。
例えば、ヴァルガスの莫大な資産が、最近になって特定のシェルカンパニーを経由して不審な動きを見せていたことや、彼の私設部隊が異常なほど機密性の高い場所へ集結しているといった情報が、カケルの頭の中では既に繋がろうとしていたのだ。それにもかかわらず、ここまでの“完璧な”潜入はありえなかった。まるで、彼らが歓迎されているかのように。
「ノア、エミリー!リン・リーが監禁されているカプセルのセキュリティを分析しろ!同時に、この空間全体の構造を緊急スキャンだ!何か引っかかる!」
カケルは、直感的に罠を察知し、即座に指示を出した。彼の声には、僅かながらも緊迫感が滲んでいた。
シャトル内のノアは、カケルの言葉に即座に反応した。
「了解!カプセルのシステムに接続を試みる!しかし……この施設全体のデータフローが、異常なほど少ない。まるで、私たちを意図的に誘導しているかのようだ……」
ノアの冷静な声に、僅かな困惑と、彼自身もまた違和感を覚えている様子が混じる。彼は施設のネットワークに深く潜り込もうとするが、見えない壁に阻まれているようだった。
エミリーが操るドローンも、リン・リーのカプセルと周囲の空間を細部までスキャンしていた。
「カプセルのガラスは特殊な強化合金で、内側からの解除は不可能。外部から強力なエネルギーパルスで破壊するしかないわ。ただ、問題は……」
エミリーは、ドローンが捉えた映像から、カプセル周辺に隠された無数のセンサーと、それが連動しているであろう防御システムに気づき始めていた。彼女の言葉が途切れたのは、まさにその瞬間のことだった。
「…ブーー…」
突如として、空間全体を震わせるような、深く不気味な声が響き渡った。それは、スピーカーからではなく、空間そのものから直接語りかけられているかのように、カケルたちの脳内に直接響くような、威圧的な響きを持っていた。
「ようこそ、GRSIのエージェント諸君。貴様らの愚かな『正義』は、ここで終わりだ」
その声が響き終わると同時に、空間全体が不吉な赤色に染まった。非常灯の警告色が点滅し、周囲の壁面から不気味な機械音が鳴り響く。同時に、ノアの通信がノイズと共に途切れる。
「カケル!施設全体のシステムが再起動した!完全にハッキングが遮断された!マップも、セキュリティも、全てが……!」
彼の声は電子的な雑音にかき消され、完全に通信が途絶えた。まるで、システムそのものが、チームYを嘲笑うかのように。
「ノア!ノア!」
カケルが叫んだが、返事はない。無線からはザーッという砂嵐のような音しか聞こえない。
エミリーのドローンからの映像も、次々とノイズにまみれていく。
「ドローンが……無数の対ドローン兵器にロックオンされている!まずい、撃墜される!」
エミリーの焦りの声が響いた直後、通信は完全に沈黙した。上空を飛び回っていたはずの高機能ドローンたちが、一斉に閃光を放つ対ドローンレーザーによって撃墜されていくのが見えた。まるで花火のように、無数の火花を散らしながら、熱気を帯びた金属片が床に降り注ぐ。彼らの唯一の空中支援と外部との連絡手段が、一瞬にして失われたのだ。
「退路が……!」
ミリアムが震える声で呟いた。彼らが侵入してきた重厚な扉が、まるで生き物のように、重々しい音を立てて閉ざされた。分厚いロック機構が作動し、二度と開かないことを冷徹に告げるかのように、通路は完全に塞がれた。彼らは、巨大な鉄の檻に閉じ込められたのだ。
リン・リーが監禁されたカプセルに繋がれたディスプレイに、新たなメッセージが投影された。リン・リーの怯えた顔の横に、無機質な文字が冷酷に浮かび上がる。
『愚かな操り人形とその玩具を追う愚かな犬たちよ。お前たちのゲームはここまでだ。』
「これは……ヴァルガスじゃない!」
カケルが、そのメッセージの冷酷さ、そして圧倒的な自信に、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
これは、ヴァルガスが送りつけるような、私怨のこもった脅迫状ではない。もっと巨大で、傲慢な、そして何よりも計算され尽くした悪意の声明だ。カケルが感じていた怪しい動きの正体が、今、目の前で明確な形を持って姿を現そうとしていた。それは、単なる裏社会のボスではなく、銀河の深淵に潜む存在の片鱗だった。
天井や壁面が軋みを上げ、格納庫の随所に隠されていたレーザー砲台が次々と姿を現し、標的を正確にロックオンしていく。同時に、格納庫の奥深くから、これまでとは比べ物にならない数の新型自動追尾型ドローンが稼働し、不気味な電子音と機械的な羽音を立てながら、カケルたちに迫りくる。それらのドローンは、これまでのGRSIのデータにはない、より洗練された戦闘用モデルだった。
そして、重武装したアイアン・ガードの精鋭部隊が、四方八方から現れた。彼らは、完璧な布陣でチームYを包囲し、その中心には、隊長らしき巨漢の兵士が、錆びついた金属のマスクの下で不敵な笑みを浮かべて立っていた。彼らの纏うアーマーは、これまで遭遇した兵士よりも遥かに重厚で、その動きには熟練された戦闘のプロの気配が漂っていた。
「ようこそ、GRSI。お前たちの行動は全て、我々『影の評議会』の計算通りだった。あの女の誘拐は、ヴァルガスなんかの指示ではない。我々が貴様らを誘い込むための完璧な餌だ。所詮、ヴァルガスは我々の駒に過ぎん」
隊長の言葉が、カケルの脳裏に雷鳴のように響いた。リン・リーの誘拐がヴァルガスによるものではなく、その背後にいる『影の評議会』によるものだった。そして、この「救出劇」も、彼らを誘い込むための巧妙な罠だったのだ。
シャドウ・キャッツからの『鍵』に安堵し、ヴァルガスという目先の目標に囚われすぎていたことに、カケルは気づかされた。しかし、それ以上に、彼が漠然と抱いていた「ヴァルガスは駒に過ぎない」という疑念が、明確な形を持って目の前に現れたことに、強い衝撃を受けていた。まるで、操り人形師が、操り人形を捨てて、自ら舞台に現れたかのように。
「くそっ、最初から罠だったのか!」
イヴァンが怒りに震え、強引に包囲網を突破しようと飛び出すが、無数のレーザーが彼を狙う。ボディシールドで辛うじて防ぐものの、その圧倒的な火力に押し戻される。彼の剛腕も、今や絶体絶命の状況ではただの足掻きにしかならない。
ミリアムは、無数のシステムの起動音、レーザーの充填音、ドローンの稼働音、そしてアイアン・ガードの足音と、それらが織りなす圧倒的な『音』の洪流に、パニックに陥りかけていた。
「音が……多すぎる……!何が、どこから来るのか……分からないよ……!」
彼女は耳を塞ぎ、その場にうずくまってしまう。感覚が鋭い分、彼女にとってこの状況は耐え難いものだった。
カケルは、迫りくる絶望的な状況に、歯を食いしばる。ノアとエミリーとの通信は途絶え、外部からの援護は完全に途絶えた。退路は断たれ、リン・リーは手の届かない罠の中。
自分たちのGRSIの『正義』が、これほど無力だとは……。
ヴァルガスの背後に、これほど巨大な闇が潜んでいたとは……。
彼の『連鎖反応予測』は、もはや最悪の結末しか示さなかった。
「GRSIの『正義』は、ここで終わりだ」
アイアン・ガードの隊長の声が、嘲るように響き渡る。その言葉は、カケルの耳に絶望の宣告として響いた。
チームYは、圧倒的な絶望の淵に立たされていた。




