01.「グランド・コスモス・ライナー」
銀河鉄道が誇る最高級豪華列車「グランド・コスモス・ライナー」は、漆黒の宇宙を滑る一筋の光だった。無数の星々が織りなす天の川を背景に、流線型の車体は未来的な輝きを放ち、まさに動く宮殿と呼ぶにふさわしかった。
その最も豪華なスイート、「ギャラクシー・パノラマ」ルームでは、ゼノス・ヴァルガスが満足げにグラスを傾けていた。
ヴァルガスは、銀河政界の影の支配者と囁かれる男だった。齢は50代半ば。恰幅の良い体躯は、これまでの人生でどれほどの富と美食を貪ってきたかを物語っていた。高級仕立てのスーツのボタンは、彼の膨らんだ腹部を締め付け、わずかな皺が寄っている。滑らかな頭皮には、これ見よがしに高価なカフスボタンのような頭皮インプラントが埋め込まれ、その存在感を主張していた。顔には、富と権力をひけらかすかのような、傲慢な笑みが常に張り付いている。彼の隣には、彫刻のように無表情なボディガードが二名、まるで動かざる石像のように立っていた。
ヴァルガスの視線の先には、特別製の強化ガラスケースに収められた、深緑色に輝く巨大な宝石があった。それが、銀河にその名を知られる「ヴェリディアン・エコー」だった。掌ほどの大きさで、楕円形に研磨された宝石は、内部から生命を宿したかのように脈動し、見る者の心を奪う。光の角度が変わるたびに、緑色の深みが変化し、まるで宇宙そのものの秘密を閉じ込めたかのようだった。
その美しさだけでなく、ヴェリディアン・エコーには、数々の黒い噂が付きまとっていた。ヴァルガスがこの宝石を手に入れるために、どれほどの不正と犠牲を積み重ねたか、銀河の闇社会ではまことしやかに囁かれている。
だが、彼はそんな噂などどこ吹く風とばかりに、その輝きを独占することに悦楽を感じていた。
「美しいだろう?これほどの輝きを放つものは、この銀河には他には存在しない」
ヴァルガスは、隣に立つ無表情な秘書に話しかけた。秘書は「その通りでございます、閣下」と機械的に答える。
彼にとって、ヴェリディアン・エコーは単なる宝石ではなかった。それは、彼が築き上げてきた権力と、踏みにじってきた者たちの象徴であり、自らの強欲と征服欲を満たすための究極のトロフィーだった。
彼の指が、ガラスケースの表面をゆっくりと滑る。その指の動きに合わせて、ケースの表面に埋め込まれた極細のセンサーライトが反応し、宝石の周囲を完璧に照らし出す。銀河鉄道が誇る最高レベルのセキュリティシステムだ。
ヴァルガスは、満足げに微笑んだ。この宝石が、どれほどの犠牲の上に成り立っているかなど、彼にとっては些細なことだった。むしろ、それこそがこの宝石の価値を一層高めているとさえ感じているかのようだった。
彼はグラスに残った高級酒を飲み干し、ふと、部屋の隅にあるヴィンテージ物の星球儀に目をやった。彼が少年時代を過ごした、既に枯れ果てた荒廃惑星の姿がそこにあった。あの頃の自分には、富も力もなかった。だからこそ、今、全てを手に入れたいという渇望が、彼の内側で決して消えることはなかった。
その時、ヴァルガスがグラスを置くためにわずかに身を屈めた。その一瞬の隙。彼の視線がヴェリディアン・エコーから外れた、ほんの一瞬のことだった。
強化ガラスケースの表面。
ヴァルガスが見つめていた面とは反対側の、部屋の天井に近い部分。
そこに、光の加減でなければ決して見えないほど微細な、まるで猫の爪痕のような引っかき傷が、一瞬だけきらめいた。
その傷は、肉眼ではほとんど判別できないほど小さく、まるで空気の揺らぎのようにすぐに消えた。しかし、その刹那、天井の通気口の格子が、ごくわずかに開閉する微かな音がした。それは、グランド・コスモス・ライナーの静音設計をもってしても、ヴァルガスには聞こえなかった。彼の脳裏には、ヴェリディアン・エコーを巡る今後のビジネスプランと、その宝石を披露する次のパーティーの計画しかなかったからだ。
通気口の内部から、黒い影が静かに滑り込んできた。その影は、部屋の隅の暗がりに音もなく着地する。影は、部屋の構造、警備員の配置、そしてヴェリディアン・エコーのセキュリティシステムを、瞬時に把握しているかのようだった。
影は、ヴァルガスが再びヴェリディアン・エコーに目を向け、悦に入っている隙に、壁を這うように移動する。その動きは、床に敷かれた豪華な絨毯の上を滑るように進み、どんな微かな音も立てない。影は、宝石のケースに近づく。強化ガラスの表面には、複雑なレーザーグリッドと振動センサーが張り巡らされているはずだ。通常の侵入者であれば、触れた瞬間に警報が鳴り響く。
しかし、影は、そのシステムをまるで存在しないかのように通り抜けた。それは特殊な光学迷彩スーツが、周囲の光を完璧に屈折させ、センサー網を欺いているのだ。影の指先が、ガラスケースの表面に触れる。
「ピッ」
ごくごく微かな電子音がした。それは、ヴァルガスが手に持っていたグラスが氷に触れる音よりも小さく、彼の耳には届かない。ヴァルガスの満たされた笑みが、窓の外に広がる星空に向けて向けられる。彼は、この宝石が完全に自分の支配下にあることを疑っていなかった。
しかし、その瞬間、ガラスケースの表面に、再びあの猫の爪痕のような、微かな、しかし決定的な傷が、星の光を受けて一瞬だけきらめいた。そして、影は、来た時と同じように音もなく、通気口へと吸い込まれていった。まるで、最初からそこに何もいなかったかのように。
グランド・コスモス・ライナーは、銀河の闇を静かに滑り続ける。列車内では、ゼノス・ヴァルガスが自身の勝利に浸り、ヴェリディアン・エコーの輝きを独占する未来に酔いしれていた。だが、彼の知らないところで、既に彼の最も大切な「勝利の証」は、その手から零れ落ちていたのだ。