幼少の思い出
私はネグレクトを受けていたのだと今になって思う。
元々できちゃった婚で金もなかった。幼稚園生の頃はお菓子を買うと夕飯代が無くなるといったくらいだった。そう母はいう。でもこれもカラクリがあると私は思っている。
私の母は母の高校の時からの友達と毎週遊んでいた。週末はカラオケに行ったり109に行ったりと浪費をしていた。だから家計には金がなかった。それを貧乏のせいにしていた。母は自分の稼いだ金は家庭に入れることをしなかった。全部自分のために使っていた。そして貯めることもなく使い切っていた。そんな生活をしていたから父の貯金もなかった。
私が小学生に入ると家事を私に任せる様になり、次第に母はしなくなった。その分パートをして稼いでいるというけども、家庭には一銭も入れなかった。そしてこの浪費家は高級服を着る様になっていった。なぜなのか
「私は人がいっぱいいるところが、苦手なの。服ってゆっくり選びたいじゃん。だから安い店には行けないの。」
そんないかれたことをいって高級店に行く様になった。でも109に行っていたくらいなのだからある程度人混みでだって買えるはずなのだ。でもそれをしないのだ。そんな生活を続け、冬には20万のコートを買っていた。
「長く使えるし、そう考えると安くない。」
と私にはいい。父には
「今月金ないんだけど、下ろしてきて。」
といっていた。
小学校高学年にもなると、私には食費が渡される様になり、夕飯もつくられず、家事もされずの毎日だった。母の料理を食べたのは小学1年生か2年生かそれくらいが最後でそっからは毎日外食をするか、ファストフードなどを食べるかそんな生活であった。
家族は仲が悪いため、私の基本的な思い出は祖父母の家で成り立っていた。どこかに連れてってくれるのは基本祖父母であった。父とは小学3、4、年生の時にスノーボードに2回行ったり、5年生の時に富士急に行ったり、それでも片手で数えられるだけの思い出である。そしてその思い出よりも、酒を飲んでいる父と駄弁っていて急に蹴られたり殴られたりする思い出の方が多いのである。さらに母はひどい。母と旅行なんぞしたこともない。
母の思い出といえば、怒ると必ず暴力を振るうところである。観葉植物としてサボテンを百円ショップで買ってきたのだが、私の部屋が片付いていないと
「部屋が汚い」
といいサボテンを投げられた。
他にも部屋が汚いと部屋中のものを全部床にぶちまける。まるで自衛隊で片付けができていない時に起こるイベントである。それ以外にも外に何時間も放置することや車で1時間ほど行った山に捨てられることすらあった。
それでも私は文句を言う性格ではなかったから、母は泣き叫び懇願する私を見たかったのかどんどんエスカレートしていった。
小学5年になった時である。いつものように何かで怒られ、そこにあったティッシュ箱を投げつけてきた。私はやり返した。初めて投げ返してみたのである。
それっきり暴力は無くなった。
そして母は感情的であり論理的に話す事ができない。そのため何か口喧嘩になっても私に負ける事が多くなり
「話しても通じない。もういいわ。なんでわかんないの。」
「もう良いから、話すだけ無駄。」
といって逃げるだけになったのである。
中学校に入ってもこの暮らしは変わらず、高校に入るとバイトもできるため、ほとんど家でご飯を食べなくなった。バイト代で食事をしたり何か必要なものを買ったりしていた。
幼稚園の時からピアノを弾きたいと思っていたが、それが再燃し電子ピアノを買うことにした。そして練習し音楽大学に進学できた。
音楽大学に入るきっかけは幼稚園生の時に好きだった女の子がピアノを弾いていたからである。その頃からずっとピアノは憧れであり弾きたかったのだ。そして中学の時に
「教えるのが上手」
と友達に言われ、なぜか音楽の教員になろうとしたのである。
音楽大学も無事に卒業した。そして教育学をもう少し研究したいと思い大学院に進学した。大学院に進学できたのは家を売った金があったからである。
大学院では小学校の教員を臨時で行いながら通っていた。やっぱり教員に私は向いているのだと思った。その子が何を求めているのか手に取るようにわかるし、どうしたら改善するのかもわかる事ができた。自分にしてあげれる事があればなんでもしたいと思えた。
きっとそんな性格で教員なんかを行っていたら自身の身を滅ぼすだろうとは思っていた。時間も労力も一杯一杯だった。でもやはり奉仕者である。それが楽しかったしやりがいだったのだ。
いや、本当は自分の存在価値をそれで示したかったのだ。愛着障害を抱えた私が皆に必要とされるためには、慕われるためにはこうするしか方法がなかったのだ。そして教員は自分の欲求を満たす上では最高の職だっただけだったのだ。