第2話:目覚める美しき薔薇
月光が銀の薄絹のように古城を包み込む夜、アシュレイは書斎の窓辺に佇んでいた。その瞳は、庭で月下美人に水を与えるリリアーナの姿を追っている。彼女が城に来てから一週間が過ぎ、アシュレイの心には、千年の時を経てなお鮮やかに蘇る記憶と、新たに芽生えた感情が交錯していた。
(まるで月の光から生まれた妖精のようだ……)
アシュレイは小さくため息をついた。リリアーナは相変わらず、乱れた髪に粗末な服。しかし、その姿に宿る生命力と、無垢な美しさは、アシュレイの心を揺さぶらずにはおかなかった。千年もの長い人生で、こんな感覚を覚えたのは初めてだった。それは、失われた人間性を取り戻すような、温かく、そして危うい感覚だった。
「どうしたアシュレイ? 珍しく人間の娘に目をつけたようだね」
背後から聞こえた声に、アシュレイは我に返った。振り返ると、そこには親友のエルドリッジ・ブラッドムーンが立っていた。その赤い瞳には、からかいの色と共に、僅かな懸念の色が浮かんでいる。
「エルドリッジか……。相変わらず、人の心を読むのが上手いな」
アシュレイは苦笑いを浮かべた。エルドリッジの洞察力には、いつも感心させられる。しかし同時に、自分の内なる変化を隠し切れていないことに、僅かな焦りを感じていた。
「あの娘には、何か特別なものを感じるんだ。まるで……砕けた氷の下から、新芽が顔を覗かせるような」
エルドリッジは窓の外を覗き、リリアーナを観察した。彼の鋭い目は、リリアーナの中に秘められた可能性を見抜いていた。
「ふむ……確かに、磨けば光りそうだ。しかし、久しぶりに人間の娘に興味を持つとはね。まさか、あの時の悲劇を繰り返す気じゃあるまいな?」
エルドリッジの言葉に、アシュレイの表情が一瞬曇った。千年前の記憶が、鮮烈に蘇る。愛する人を失った痛み、そして永遠の孤独を選んだ自分自身への後悔。それらが胸の奥深くを刺す。
「違う……。今度は違うんだ」
アシュレイは再びリリアーナに目を向けた。彼女は今、蝶を追いかけていた。その無邪気な姿に、アシュレイの胸の奥が熱くなる。長い間、凍りついていた心が、少しずつ溶け始めているような感覚だった。
「彼女を……私好みの貴婦人に育ててみようと思うんだ」
エルドリッジは驚いた表情を浮かべた。その瞳に、好奇心と懸念が交錯する。
「おや? それは面白そうだ。どうやって?」
アシュレイは微笑んだ。その瞳には、久しぶりに生気が宿っていた。それは、まるで長い眠りから目覚めたような、新鮮な輝きだった。
「まずは、彼女自身に気づかせることから始めよう。眠れる美女を目覚めさせるように……」
その日の夕方、アシュレイはリリアーナを城の大広間に呼び出した。燭台の柔らかな光が、広間を幻想的に照らしている。
「リリアーナ、君に見せたいものがある」
アシュレイは彼女を大きな鏡の前に立たせた。リリアーナは困惑した表情を浮かべる。彼女の心の中では、自信のなさと好奇心が入り混じっていた。
「何を見せてくださるんですか?」
「君自身だよ」
アシュレイはリリアーナの肩に手を置いた。その温もりに、リリアーナは小さく震えた。それは恐れではなく、何か新しい感覚への期待のようなものだった。
「よく見てごらん。君の目の輝き、その立ち姿。君には、計り知れない魅力がある。まるで、夜明けの露に濡れた薔薇の蕾のようだ」
リリアーナは鏡に映る自分の姿を見つめた。しかし、彼女にはアシュレイの言う魅力が見えない。長年、自分を価値のない存在だと思い込んでいた彼女には、自身の美しさを認識することさえ難しかった。
「私には……何も特別なものは見えません。ただの村娘です」
アシュレイは優しく微笑んだ。その笑顔に、リリアーナは心臓が早鐘を打つのを感じた。それは、今まで感じたことのない、不思議な高揚感だった。
「それは君がまだ気づいていないだけだ。これから少しずつ、君の魅力を引き出していこう。君は、磨かれていない宝石のようなものだ。私が、その輝きを世界に示してみせよう」
リリアーナは困惑しながらも、小さく頷いた。彼女の心の中で、小さな希望の種が芽生え始めていた。それは、今までの彼女の人生では感じたことのない、新しい可能性への期待だった。
その夜、リリアーナは自室のベッドに横たわり、天井を見つめていた。柔らかなシーツの感触が、彼女にとっては新鮮で贅沢なものだった。
(アシュレイ様は何を考えているんだろう……。私には、魅力なんてないのに……。でも、アシュレイ様の言葉は嘘じゃないような気がする……)
彼女の心に、小さな変化の種が蒔かれた。それは、やがて大きく花開く運命にあった。リリアーナは、自分の中に眠る未知の可能性を、おぼろげながらも感じ始めていた。
一方、アシュレイは書斎で、リリアーナのための教育プランを練っていた。彼の指が、優雅に羽ペンを走らせる。
「エチケット、ダンス、文学……。彼女の隠れた才能を引き出すんだ」
彼の目は、久しぶりに生き生きと輝いていた。千年の人生で初めて、誰かを育てることに心躍らせていた。それは、単なる気晴らしではない。アシュレイの心の奥底で、凍りついていた何かが、ゆっくりと溶け始めているのだった。
城の外では、満月が輝いていた。その光は、アシュレイとリリアーナの新たな物語の始まりを、静かに見守っているかのようだった。それは、血に塗れた過去と、未知なる未来を繋ぐ、銀色の糸のようでもあった。