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領主の館を出た道中でフェイネルはややぼんやりと馬車の後ろを歩いていた。
到着時よりも明らかに大所帯となった馬車列は、時折街道を行く人々を押し退けるようにして進んでいく。
難民が多かった。
不思議と聖都周辺には錆化病が蔓延しないのだとか。
故郷を失い、家族を失い、今また国を捨てて生きる場所を求める。
たった一日少々の所で村一つが消滅したことを彼らは知っているのだろうか。
意外にも聖都からサーフィラス王国側へ抜けていく馬車も多くあり、その殆どには一行と同じくノアのような神官が同道していた。おそらくはリリィの到着に先んじて行われている支援だろう。
同じように、各所に点々と存在する天幕群はやんわりとした隔離施設のように思えた。
小奇麗な天幕が二つ三つあり、他は難民が持ち込んだのだろうものに、人が無理矢理詰め込まれているような場所もあった。
あの赤黒い霧こそ発生していないが、不思議と風には錆び臭さを覚える。
きっと、道からも大きく外れた場所で上がり続けている煙が原因だ。
もうじき聖都が見える筈だと神殿騎士の一人が言っていた。
錆化病の蔓延した村へ、共に同行した青年だ。
彼はサーフィラス王国の出身者らしい。法国にある大きな学院、おそらくはシャーレイも通っていたのだろう国際的な学び舎へ留学し、そこで神官や神殿騎士など、神殿へ入って法国側で生きるのは珍しいことではないとの話だ。王国と法国との関係は、フェイネルが思っていたよりずっと密接で、友好的なものであったのかもしれない。でもなければ、自国の起源とも言える継承の剣を抑えられておきながら、紛争を抱えていないのはおかしい。
「ノアって幾つなんだっけ?」
「……なんですかいきなり」
女性に年齢を尋ねるのは、などとは思うものの、相当に若く見える彼女なら問題ないかと気軽に問いかける。
「ちょっと気になってさ」
馬車の出入り口側を歩いていたノアへ追いつき、やや声を落としたのは、馬車の中からリリィの話し声が聞こえたからだ。
王女の世話役はノアが用意してきた神殿側の人間で固められた。彼女が離れていたのはそういう理由もあったのだろう。
取り澄ましたリリィの声になんともいえない落ち着かなさを覚えながら、フェイネルは言葉を続けた。
「リリィは十四だって言ってた。十四で人生を決める。随分と性急だなと思ったんけど、ここでの常識をしらないからさ」
「私が今の道に入ったのは六歳の頃です。特殊な例であった自覚はありますが、平民の子どもなら八歳で親の仕事を手伝い始め、十で何処かへ弟子入りし、十二でギルドなどと契約を交わして将来を定めます。そこらの農村であるなら、十も越えれば立派な労働力です」
返す言葉は冷たかったが、しっかりと質問には答えてくれている。
「ノアは法国出身なのか」
「私は紛争地帯の出身です。支援を行っていた法国に助けられ、そのまま神殿へ入りました」
「また随分と大変な生い立ちだな」
「そう珍しいものではありません」
となると、錆化病を差し引いたとしても近隣の情勢はよろしくないのかもしれない。
紛争地帯というのがどの辺りなのか気になったが、ノアが明らかに話題を嫌がっているので、フェイネルも追求するのは止めにした。
他の法国側の人間とも距離があるように感じるノア。
彼女が異端審問官であるというだけではない、何か別の理由を感じなくもなかった。
「貴方の関心はリリアーナ様でしょう」
図星を指されて諸手を挙げた。
流石は異端審問官、などと思ってみたが、結構ここまであからさまに動いてきたので当然かとも思う。
「王者の血統も持つ方々の常は、私のような下賎な血の者には窺い知れぬことではありますが」
不思議と夜闇に木霊するフクロウの声に似ていた。
「儀式を行うことも、こうして聖都へ向かうことも、最終的にはリリアーナ様自身が考えてお決めになられたことです」
「そうせざるを得ない理由が、あの小さな肩に積み上がっていたとしても?」
「月の世界は、本当に豊かで甘いのですね」
嘲笑するような声が混じり、流石にフェイネルも認識の違いを思い知った。
立場が違うとはいえ、ノアは比較的リリィを気遣っていた。自ら世話役を名乗り出て、数日を過ごしてきたのもある。そんな彼女でも、フェイネルの感傷を甘さと表現するのだ。
いや、紛争地帯などという過酷な環境で育った故か。
確かに死が身近にあるこの世界で、二十歳そこそこで道も定めずふらふらしていていい、なんて悠長なことは言えないだろう。
人間五十年、という言葉を思えば、やはり人はより早期に決定を求められる。
自ら決めることさえ許されず、押し込まれた暗く狭い道を拙い足取りで辿っていかなければいけないのなら、尚更贅沢な物言いにしか聞こえない。
ノアの嘲りは、自分達の境遇に対する不満と、何も分かっていない者に対する八つ当たりじみた感情が混じっているようにも思えた。
「だとしてもさ」
思う。
思うことだけは止められない。
「あの子の背負っているものは大き過ぎる。そこに支える者の一人も居ないのは、きっと間違ってると思うよ」
返す刃は鋭く、ノアの言葉が容赦無く突き刺さる。
「では、あの方から王国の救いを取り上げて、逃避行でも始めてみますか」
馬車の影に身を置きながら、異端審問官は冷笑を浮かべてフェイネルを見据えていた。
その瞳は、夜闇に浮かびあがる刃のようにも思えた。
※ ※ ※
青は神殿の影響を強く受ける国々にとって神聖で清浄なものとして受け入れられている。
生命が強く息づく夏に聖アティアの月が昇ることも大きな理由の一つだろう。
月夜に見る仄かな青白い輝きは、見る者の心を清め、より高みへと誘ってくれるのだという。
その為か、神殿勢力を擁する法国ではガラスの製造が盛んだ。しかも、透明な、だ。月が強い信仰の対象となっている神殿で、その光を僅かでも遮ることは悪事の企みや背信と取る考えがある。とはいえ、冷え込む冬の季節に外気をそのまま受け入れていては、ありがたい説法の最中に凍死者が出てしまう。老人らの中には本望だと語るやや困った人達も居るのだが、ポンポン死なれては神官も困り果てるとなって、莫大な投資が行われた結果、極めて断熱性に優れ、より光を遮らない、透明なガラスが世に広まることとなった。
故に聖都では、各地の神殿に見られるような青白い建物が、壁面の様々な所にガラスによる装飾を施されたなんとも煌びやかな街並みが広がっている。
転じて透明なガラスで覆うことが正直さやあるがままの美しさとして認知されるに至り、目抜き通りに至ってはガラス張りの店なども少なくない。商品をガラスケースへ納めることは盗難防止にも役立つし、気安く中を覗けるとあって客足も軽くなる。
中にはガラスに青を混ぜ込むことで見た目を誤魔化し、高く売りつけようとする者も居るのだが、いつしかガラス鑑定士なる者が各市場で導入されて厳しい検査を行っていたりもする。
「……しっかし、家の中丸見えになってるところもあるけどいいのか」
フェイネルが素直な感想を漏らすと、馬上からはよく見えるのだろう、王国出身の神殿騎士が苦笑いした。
「行き過ぎた行為であるという意見もあります。それに本来、祈りとは場所を選ばず、月を仰いで行うものですから」
古い神殿には、未だにガラスを用いず吹き曝しの所もあるらしい。
老年の信徒ほど神殿での祈りより、丘の上などの見晴らしが良い場所での祈りを好む。
「一番驚いたのは温室があることだな。あれって、一年中栽培してるのかな?」
「はい。土の管理が難しいそうですが、様々な土地の植物を試験的に栽培したりもしていると聞きます」
応じる彼の声は誇らしげだ。
なるほど、とフェイネルも頷く。
錆化病が間近まで迫っていながら、行き交う人々も多く、市場には活気がある。
安価で大量の、とはいかないものの、温室の存在は年中でも実りを得られるという安心を与えている訳だ。
実際、不作から始まる飢饉で最も問題になるのは、食料が少ないことではなく、食料の高騰だ。その高騰は不安からくる。切り詰めれば、最悪何割かの餓死者が出たとしても、残る者は生き延びられる。なのに金や権力のある者が食料を買占め、結果として被害が拡大してしまう。
実際には到底不足しているのだとしても、その偽りの帳を下ろしたままにすれば混乱はかなり抑え込める。
「フェイネル様は、これからどうされるおつもりですか」
しばらく景色を楽しみながら進んでいると、橋を渡った辺りでまた先ほどの神殿騎士が話しかけてきた。
「ノア様からは、リリアーナ様の御意向に従うよう言われております」
「ノアは……ゼオールとかいう神官の所か」
「はい」
異端審問官としての報告があります、などと言って、彼女は聖都へ到着するや早々に何処かへ行ってしまった。
彼女の仕事は外交官ではなく、異端を見定め裁くことだ。
リリィの身柄を敵対派閥に奪われては元も子もないので道中は一緒だったが、ここまで来れば問題無いということだろうか。
領主の館での事といい、妙に無防備な印象もあるのだが。
「そのゼオールっていうのは……いや」
ふと後ろを進む馬車へ振り返った。
領主の館を出発してから、流石に補充の侍女が付けられたのもあってか、リリィは外へ出ることはせずに大人しくしている。
あくまで聖域での禊ぎを終えて、この地へ巡礼へ参った、という体なので歓迎の宴が催されることもない。
話す機会がなくなったのもあり、フェイネルの脳裏にあるのはシャーレイとの別れの時だ。
じっと馬車の奥を見透かすように眺める。
「少し街を見て回りたいな。儀式はすぐに行われる訳じゃないんだろう?」
「はい。おそらくですが、聖アティアの月が最も高みへ至るとされる十日後になるかと」
「分かった」
リリィが身を寄せることになる、聖都での私邸を確認してから、彼は街へと繰り出した。
神殿の場所は分かり易い。
話に聞いていた通り、街並みを望む丘の上でデカデカと佇んでいるのだから。
仄かな青白さを持つ神殿は、場所を選ばず、誰もが仰ぐことの出来る月への祈りを信仰の座に据えながらも、集まった信心の上で横たわるようにして丘の上から街へと足を伸ばしていた。
※ ※ ※
さて、意気揚々と出かけたフェイネルだが、小腹がすいて市場を物色していた。
何せ道中は日持ちのする食べ物が主で、量も少なく、成人男性である彼の腹を満たすには到底味も量も不足していた。
王国が傾いていることを考えればリリィが贅沢をする筈もないので当然と言えば当然で、我慢もしてきたのだが、なにせ鳥の串焼きは非常に堪らない。どのくらい堪らないかというと、丘上の神殿を眺めながら、権威の大きさに皮肉の一つも言おうとしていたフェイネルが似たような煩悩に負けて行く先を変えたほどだ。
赤熱した炭火の上で、串打ちされた鶏肉が脂を滴らせ、落ちた先で白煙をあげる。
鼻腔を擽る濃密な肉の旨味に負けて、神殿騎士から借りたお金で串焼きを買おうとした時だ。
背後から盛大な爆音がして、振り返った先で人間が空を待った。
一斉に道行く人が離れていく。
神殿騎士を、いや市場の責任者を、いいから退け、そんな言葉と逃げる人々がぶつかり合う中、手に入れた串焼きへ齧り付きながらフェイネルは騒ぎの中心へ向かった。
それは好奇心ではなく、心配事があったからだ。
ただし、騒ぎの原因に対するものではない。
彼よりも遥かに強い好奇心を持つ少女が、この慣れない人ごみと突然の騒ぎに目を回していたからだ。
「…………なにしてんのリリィ」
被ったフードをそのままに、けれど逃げられない様に肩を掴んで支える。
「あっ……」
あからさまに気まずそうな顔をされたので彼も容赦しなかった。
ぐいっと顔を寄せ、小声で、
「もしかしてつけて来た?」
「え、えっとぉ……」
およそ十日後、人身御供となって政治の道具になる身だ。
言ってしまえばこの十日が最後自由、かもしれない。
フェイネルとしては彼女が監視の目を逃れて遊び歩くこと事態は良いと思うのだが、それにしても立場があるだろう。
「君は根本的に、自分が隠密行動に向いてないことを自覚すべきだ」
指摘した彼に、リリィの頭部へしがみ付いていた猫が振り向いて、興味を無くしてすぐ前を向く。
足元にも猫猫猫。街中だからか、やたらと猫がいる。目立つなという方が無理という話だ。
「離れて下さいとお願いはしたのですが」
「猫だからな」
「猫ですものねっ」
言語が通じるかはどうでもいいとして、嬉しそうに言われると仕方ないかという気にもなってくる。
「ただ、俺の行き先は神殿だったから、流石にどこかでバレただろうね」
「でしたらバレない辺りまで……」
結構お転婆な所があるよな、と思いつつ、妙に歯切れの悪いリリィが手元の串焼きを見ている事に気付く。
手を上げれば視線が上がり、手を下げれば視線が下がり、揺れる串焼きに興味津々。
確かにこんなものが宮廷の食卓へ並ぶとは思えない。
「はいどうぞ」
一つ食べた後ではあるが、フェイネルが後ろから手を回して口元へ差し出すと、少女は躊躇無く齧りついた。もしかしたら、最初にフェイネルが食べる所を見ていたのかもしれない。こういうことを素直に真似ることが出来るのは、彼女の旺盛な好奇心と行動力故だろう。何故か頭の猫まで手を出してくるが、迂闊に人間の食べ物を与えると病気になるので遠ざけた。
口の中で鶏肉の旨味を味わうリリィ。
美味しかったようで、また一口齧り付く。
一口が小さいのでまるで啄まれているようだ。
それにしても強盗や物取りが人質を取るような格好で串焼きを食べさせていると、何をやっているんだろうかと思わなくもなかった。
リリィの場合、短剣を突きつけるよりこっちの方がよっぽどじっとしていてくれそうなのだが。
と、ここで彼女を見付ける事になった発端を思い出した。
というか、殆どの人が逃げ終えた広場へ突っ立っていたので、諍いを起こしていたらしい者の一人がじろりと睨んで来た。
「あー…………こっちは気にせず続けてくれ」
などといつもの調子で応じたせいかは知らないが、既に得物を出していた男が何かを叫ぶ。
興奮しているせいかよく聞き取れない。
素早く危険を察知した猫達が四方へ逃げ出し、フェイネル達だけが取り残される。
リリィ、リリィ、ほら行くぞ、などと肩を叩くのだが、少女は剣を抜いたおっさんよりも串焼きに夢中だ。危険なおっさんと美味しい串焼き、人生でどちらに注目して生きていきたいかは明白なのだが、酒が入っているらしい彼にとっては挑発と受け取るに十分だったようだ。
「舐めてるんじゃねえぞテメエらっ!!」
剣を手に詰め寄ってくる。
風体からしてあからさまにならず者だ。
その横合いから声が来た。
「舐めているのはキサマだ!! ライ ファルト!!」
光の粒が風へ煽られるようにしてならず者の足元へ流れ、渦を巻いて起爆した。
悲鳴があがる。
刻印術だ。
そして狙われた男は冗談みたいに跳ね飛び、周囲のどの建物よりも高く飛んだ辺りで限界点を迎えて落下を始める。
「ジ メイソル!!」
酔いも冷めそうな悲鳴をあげていた男へ再び光が纏わりついたかと思えば、落下の勢いや弱まりゆっくりと降下していく。が、人一人分の高さまで達した所で慈悲も尽きたのか、光が消えて潰された蛙みたいな声を上げて気絶した。どうやら落下が相当に怖かったらしい。
「ふんっ。この僕に喧嘩を売っておきながら、安易に背を向け、武器も持たない者へ襲い掛かろうとした報いだ」
硬質な靴底で石畳を打ち、少年は首元のタイを締めなおす。
定規で測ったみたいに切り揃えられた前髪と、鋭く周囲を威圧する瞳。
一見するとどこぞのお坊っちゃんにも見え無くはないのだが、迂闊にそんな言葉を吐けばどうなるか、今まさに誰もが見せ付けられた所である。
少年はしっかりとフェイネル達を見定めると、まるで結び付けられた紐を辿るような動きで二人の前へ立った。
「君達、もう安心したまえ。悪漢共には裁定を下した」
言って、けれど少年は考える素振りを見せた。
流石にリリィも人前で串焼きや齧り付き続けることはせず、品良く口元を拭いて言葉を待っている。この場合、助けられたとして礼を言うべきなのか、一方的に巻き込まれて一方的に助けられたマッチポンプに抗議でもすればいいのか。何にせよ、フェイネルは面倒事の匂いを嗅ぎ取り、彼にしては珍しく逃げ道を探した。
が、やや判断が遅かったようだ。
「そうだな。礼を要求するつもりはないんだが、実は連れと逸れてしまってね。もし時間が空いているのなら、力を貸してもらえないだろうか。合流できたら、相応の礼はするつもりだ」
彼が何者であるかは不明だが、リリィはお忍びで聖都をほっつき歩いている真っ最中。
顔を付き合わせて何の反応もないのなら、面識が無い事は明らかだが、関係者を増やして歩き回っていたらどこで見咎められるか分かったものじゃない。ましてや王国の姫が継承の儀へ挑むことは既に広報され、その様子を見ようと聖都には人が集まっている状態だ。
なので返答は決まっていた。
「はい。出来る限り、お力になります」
お人好し極まれり。
けれど当然の話だった。
フェイネルがリリィと呼ぶ少女は、死に逝く巨狼を見殺しにはせず、今わの際を苦痛なく過ごせるようにと、気絶するまで必死に治療をしていたような子、なのだから。
「ではよろしく頼む。僕はエラン。エラン=C=クゥエルだ」
「私はリリィと呼ばれています」
「フェイネルだ」
人を使うことに慣れた様子で少年は背を向ける。
頼んだ割に相談するような様子はない。まさしく、使う、つもりなのだろう。
ただし、こちらもこちらでタダのお人よしではない。
十分に離れるのを待って、質問を落とす。
「見た?」
「はい。術を使う際、掌の上に不思議な形の、賽のようなものを浮かび上がらせていました。不思議です」
王女の親切は、趣味と実益を兼ねている。