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 領主の館は小高い丘の上にあり、突き出すように天へ伸びる岩場の見張り台を背負って聳えていた。

 かなりの大きさだが、古びた印象が強く、人気は乏しい。

 石造りなのは二階までで、そこから上の四階までは木造になっている。

 神殿で見たような青を主体に色付けされているのは、道中に何度も見上げてきた聖アティアの色だからだろう。この国ではとても青が好まれているらしい。ただし、仄かな青であって、濃青色は下品であるという認識が強い。

 錆化病を遠ざけたい一部の貴族らが狂ったように青を求め、染料が足りなくなるとその濃青色で顔まで染め上げていることがあると、異端審問官であるノアが不快そうに溢していた。


 そういう意味では、この領主の館は一定の品を維持している。

 仄かな青を帯びた壁面に加え、入り口へ続く花壇には同じく薄い青を宿した花々が並んでいる。

 病的に求めた結果というよりは、元々好んで植えていたといった様子。それでも一部が摘まれ、空になった花壇があるのは、やはり使用したということなのだろうか。


「それでは、フェイネル様達はあちらの通用門からお入り下さい」

「おや、俺達は正門から出入りしちゃいけないのかい?」

「姫様と同行しているならともかく、貴方はこの国で貴族位を持ってはおりません。神殿騎士も広義では神官の一つですが、正門を通るのは長たる者のみとされています」


 仮に古ルデーテルの化身であったとしても、という言葉を口の奥へ隠したままシャーレイは言い、自分もまた正門へ向かわず背を向けようとした。


「あれ、奥さんも正門は使っちゃいけないの?」

 フェイネルが問えば、彼女は一切表情を崩さず答えた。

「私は第二夫人です。館を分けるのが通例ですので」

「でも、久しぶりの帰宅だろう? 出迎えくらいあってもいいのに」


 ノアが到着した時点で解任されたのであれば、彼女との出発時間の誤差は一日程度だ。足の違いがあったとしても、やはり一度戻ってあの村へ行ったとは考え辛い。


「先触れも出しておりません。経歴に傷を受けた者の帰還は、人知れずであるべきなのです」


 そうして離れに身を置き、改めて手紙を送り、帰還していることを伝えるのだという。

 なんとも胡乱で、なんとも認め難い決まりだ。

 結局一族の恥を遠ざけて誤魔化したいという意図が透けて見える。

 理由が何であれ、離れていた家族が戻ってきたというのに。


「そうか」

「では」


 けれど外様から首を突っ込んで主張した所で、子どもの駄々以上に価値は無い。

 だから、


「後でリリィと一緒に顔を出すよ。甘いお菓子と苦味のある飲み物を用意しておいて欲しいな」


 言えばようやく、彼女は僅かに口元を緩めた。


「姫様は苦味のあるものが苦手なのです。甘いお菓子と、吐くほど甘い飲み物をご用意しておきます」


 そりゃ参った。

 諸手を挙げたフェイネルを見て、また表情を殺した彼女は静かに別館の方へ歩いていった。


    ※   ※   ※


 リリィが彼の到着を知ったのは、それから鐘一つ分の時間が経過してからだった。

 元より法国が実効支配する聖都へ入る前に、長旅の汚れを落として身なりを整えること、その場所に相応しいものとして侍従長の実家である領主の元へ身を寄せることは、渋々ながらノアの了承も得て決めていたことだ。

 重要な外交相手の領土へ向かうのに、一国の王女が旅の汚れをそのままにするなどありえない。

 錆化病という脅威があるとはいえ、弱った時ほど権力は身を正し、歩調を保つ必要がある。


 という言い訳の元、やはり何も話さないまま別れてしまった侍従長シャーレイの様子を伺いたかったという本音もあったりなかったり。


「よっ、ほっ、ああっ」


 裏庭で始まった小気味良い音の連なりに覗き込めば、なんとフェイネルが少年を相手に剣の稽古をしているではないか。


「ははっ、僕の勝ちー! 弱っちいんだぁ、フェイっ!」

「待て待てっ、まだ十敗しただけだ。もうちょっとやれば感じが掴めるからさっ。さあ次だ」


 少年は領主の第一夫人の子で、いずれこの地を収めることになる人物だ。木剣で打ち合う二人を見ているのは、第二夫人の子で既に成人している。女児しか生まれなかったことでシャーレイを娶り、その後に生まれた子であると聞いている。やがて第一夫人との間に彼が生まれたので、今ではその少年に仕えるべく学び直しをしているのだとか。


 あまり仲が良いとは言えない関係だが、フェイネルが混ざっていることで、不思議と仲睦まじい兄弟のようにも見えた。


「あっ!? なに今のっ!?」


「秘密だよー。兄様から教えてもらったとっておきなんだっ」

「へえっ、俺にも教えてくれよっ」

「秘密だって言ったじゃんっ」


 再び木剣が奏でる心地良い音が連なっていき、少年とフェイネルが弾んだ呼吸で庭を駆け回る。

 どうにもフェイネル、真っ向勝負では敵わないと知って脚を使い始めたのだが、返って自分の首を絞めているだけになっているようだった。


 ここが領主の館でなければ、この二階のバルコニーからだって飛び降りて、混ざってみたいとリリィは思うのだが。


 そもそもフェイネルはリリィに同行しているのだから、到着したら真っ先に顔を出すべきだ。なのに領主の息子達を相手に剣の稽古へ混ざり始めるなどと、彼の人の懐へ踏み入る気安さに感心すると共に、やはり少々不満も出る。


 ここならば侍女の補充も出来るだろうと、ノアは領主へ祝福を与えた後に町の教会へ向かってしまっている。

 退屈なのだ。

 付けてもらった侍女らも、まさか姫君の世話をすることになるとは、なんて緊張のあまり指先が震えている始末。いずれ仲良くなれたらと思うものの、権力の側から軽々と求めるのは押し付けと変わらない。彼ほど気安く踏み込めないリリィでは、今は我慢の時期だった。


 たいくつでーす。


 バルコニーから少年と楽しげに稽古を続けるフェイネルを見下ろし、不満を隠さず内心で訴える。

 それが届いたからかは不明だが。


「あれ、リリィっ」


 不意にこちらを向いたフェイネルが木剣を片手に手を振ってきた。


 領主の二人の息子らも彼の行動でこちらに気付く。

 が、リリィはリリィで大いに慌てた。

 子どもじみた不満をぶつけていた所だけに、内心を見透かされたような気がして顔が熱くなる。

 思わず背を向けて、そのまま二歩を進んで身を隠す。下からではバルコニー上を覗けない。やってから、あぁ何をしているんだと自問する。


「あれ。聞こえなかったかな。おーいっ、降りてきて一緒にやるかーい?」


「フェイ、姫様は剣なんて野蛮なことはしないよ。お姫様なんだから」

「それに階下からとはいえ、軽々しく女性へ声を掛けるものではないね、フェイ」


「んー、地上の作法は難しいなぁ」


 また適当なことを言って。リリィは呆れつつも、吐息に心地良いものが混じっていることに気付く。

 諦めて再び顔を向けると、彼はまだこちらを見上げていて、大きく手を振る様に、小さく振り返して応じた。


 実は剣も扱えるのだが、この場合、流石にバルコニーから飛び降りて稽古へ混ざるのは、流石にやりすぎだろうかとか考えながら。


    ※   ※   ※


 男三人で汗を流した後、フェイネルは服を着替えてリリィの部屋へ向かった。

 先触れというものが必要だそうなので、貰った紙に『後で向かうよ。一緒にシャーレイさんの所へ遊びに行こう』と書いて、紙ヒコーキにしてバルコニーへ飛ばした。好奇心旺盛な彼女が窓の向こうに見えたらしいそれを拾い上げに来たのを見て、フェイネルは急いで姿を隠したのだが、リリィにはばっちり見られてしまっている。先触れ送っておいてその場で会ってしまうのは勿体無い、とでも思ったのだろうか。


 紙ヒコーキを選んだのは明らかに彼のおふざけだ。

 フェイネルとて、本来は人を送って約束を取り付ける類のものであることは察している。

 けれど不自由さの中に身を置くリリィへささやかな楽しみを提供したくて、ややお茶目な方法を選んだ事実は否めない。


 ただ、いざ扉の前までやってきた所で中から悲鳴があがった。


 見張りの騎士達まで目を丸くし、取り次ごうとしていたフェイネルと見合わせ、「少々お待ちを」と言い掛けた時にはもう彼が扉を開けて踏み込んでいた。


「どうしたっ」


「ああああああああああ…………」


 部屋の中で彼が見たのは、彼女が飛ばしたのだろう紙ヒコーキが開けっ放しの窓から飛び出していく所で、それへ手を伸ばしたリリィが情けなく崩れ落ちていく姿だった。


 フェイネルはまず一緒に部屋を覗き込んでいた騎士達へ目をやった。

 彼らは出入りを管理し、危険があれば助けに入るが、どう見ても必要そうな状況には見えない。

 というか、歳若い姫のやや世間にはお見せし難い、お尻を突き出すような後ろ姿をじっと見詰めているのはよろしくないと判断したのだろう、まだ少し視線を残しつつも、フェイネルへ後を託して扉を閉めた。


 部屋の隅で、この館で付けて貰ったのだろう侍女が微笑ましげに立っているのを見つつ、


「おや、俺の手紙は投げ捨てられてしまったのかな」


 言った所でようやくリリィも気付いた。


「フェイ!? あっ、いえ! ああああっ」


 否定するのか落胆するのかも定まらず、さぞかし珍しいものを楽しんでくれたのだろうなと思える様子で彼女は肩を落とし、寄って行った侍女が上着を羽織らせた。中が透けて見るような一枚布で、なんとなく仕切りなおしを促すようなものだなとフェイネルは感じた。


「紙があればまた作ってあげるよ」


 ピクリと少女の耳が反応する。


「というか、中に君への先触れ変わりに言葉を書いてたんだけど、読んでくれたんじゃなかったのか」


 こほんと可愛らしく咳払いをしたリリィが立ち上がり、振り返る。

 侍女が離れていって、彼女はいつか遺跡でも見た綺麗な礼をしてみせる。


「お待ち申し上げておりました。フェイのすることですから、きっと後で顔を出すという意味かと思って、門番にもそう告げておきましたから」

「手紙を読んでくれなかったのかぁ。心を籠めて書いたのに、残念だなぁ」

「す、すみません、形を崩すのが勿体無かったので……中に何か書いてあったのですね……」

「それで飛んで来た様子から使い方を連想し、飛ばして遊んでいたと」

「は、はい」


 ポットの開閉ボタンすら即座に探し当てる理解力のある少女だ、紙ヒコーキが実際に飛ぶ様を見たのなら、遊び方くらいはすぐ分かるだろう。


 改めて、リリィから促された長椅子へ腰掛けて、テーブルを挟んだ向こうに座る彼女を見る。

 侍女が下がっていくのを見て「ああ」と呼び止めた。


「リリィの予定や都合次第だけど、この後、シャーレイさんの所へ顔を出そうと思って。そこで甘いお菓子と、とんでもなく甘い飲み物を提供してくれるそうだよ」


 リリィの表情が真剣なものに変わった。


「それではここでお茶を嗜んでいる時間はありませんね。すぐに向かいましょう。先触れは」

「約束はしてあるから、離れに行けば会えると思うよ」


 解任した側と、解任された側。

 両者が望んだ結果ではないとはいえ、貴族的なマナーを理由に会えないと言われたらどうしようかと考えていたが、どうやら問題ないらしい。

 家族にすら後ほど手紙で帰宅を伝えるのなら、賓客であるリリィにはシャーレイの居場所すら知り様も無い。


 侍女にはお茶の用意ではなく、外出の用意を指示し、また少しだけ二人は会話を楽しんだ。


 後、紙を数枚欲しがったので、フェイネルは別に折れるものがあったかと思案し、先に部屋を出る。

 意外に待たされた後、遠慮がちに扉が開いて、リリィが顔を出した。


「あのぉ……侍従長がこちらへ来てくれることになりました」

「あぁ……そういえばそうだな」


 王女が会いたがっているのだから、来させるのが当然だと、ようやく彼も気付いた。


 到着したシャーレイは慎ましやかな表情をしつつ、一度だけフェイネルを見て、眉をあげた。


    ※   ※   ※


 奥の椅子にリリィが、右手の長椅子にフェイネルが座り、シャーレイは左手の長椅子へ腰掛けた。

 程無く果実水と共に焼き菓子が運ばれてきて、リリィが表情を維持しながらも目を輝かせる。


 背凭れへ身を預けることなく、鉄骨でも入っているみたいに背筋をピンと伸ばしたシャーレイがまず双方へ口を付け、会話が始まる。


「その後、お変わりないようで安心致しました。聞けば、後任の侍女も付けられずご苦労なさったのだとか」

「道中の世話はノア、同道している異端審問官の方が行って下さいました。でも、そうですね、侍従長が居た頃のようにとはいきません」


 リリィの視線が扉の前で控える侍女を掠める。


「そういうことでしたら、この館に居る使用人は好きに引き抜いて下さって構いません。夫も国を支える姫様の為ならば否やはないでしょう」

「それは……」


 こうしてゆったりと過ごしてれば忘れそうになるが、サーフィラス王国は錆化病の蔓延で国が傾くほどの被害を受けている。

 比較的被害の少ない地方とはいえ、家を任せられる人手をぽんぽん引き抜かれては困ってしまうだろう。

 しかもシャーレイは戻ったばかりの、傷ありな経歴を持つ第二夫人だ。

 果たして領主の意思を代弁していいのかどうか、判断出来かねるものだった。


 あるいは法国の後ろ盾があるからこそ、そう振舞うのが当然だと言っているのか。


 少なくともここから一日程で法国が実効支配する聖都だ。影響力の強さは他の領地どころではないのかもしれない。


「構いません。必要であれば聖都から人材を引っ張ってくることは可能ですから」


 言ったシャーレイとの間に、フェイネルは先ほどから熱心折り続けていたツルが完成したらしく、見せ付けるような、楽しむような所作で置いていく。

 元侍従長へと向けられていたリリィの視線が滑り、けれど戻し、また滑る。


 机の上には既に蛙、紙ヒコーキと今折ったばかりのツルがある。

 一体どうしてそんな形になっていったのか、気になって仕方無いリリィを煽るような行動だ。


 フェイネルは口元を緩め、果実水を舐めるように飲んだ。流石に蜂蜜まで入ったその甘さには苦い顔をし、けれど変わりに、焼き菓子の中から自分にとっての手前に置かれた、ドライフルーツが混ぜられているらしいものを食べ、酒漬けされた味に小さく唸る。


「まあいいじゃないか、リリィ。貸してくれるならありがたく借りとこう。人選はノアと相談した上で、向こうで落ち着くまでの間だけならそこまで問題は大きくならないだろうし」


 新しい折り紙を作りながらフェイネルが言うと、リリィは小さく頷いた。

 日当たりの良い部屋だからか、季節が聖アティアの象徴する夏へ入ってきたからか、吹き込む風には熱がある。

 斜陽の王国へ吹く風を三者三様に感じつつ、最初の毒見以降は菓子にも果実水にも手を付けようとしないシャーレイが、齢五十年の年月を感じさせる表情をピクリとも動かさずに言葉を発した。


「そういえば姫様は、私が法国の間諜であるとお気付きだったようですね」


 これはなんとも大胆な発言だ。

 思わずフェイネルが侍女の様子を確認してしまうも、反応らしい反応はない。

 予め手は打ってあるということか。


 領主よりも権限があるような発言を考慮すれば、ここは彼女の城と言ってしまっても良いのかもしれない。


 ノアがよくリリィを置いて離れたものだ。

 聖都を向かう以上、ここを経由する筈だと先手を打っていた、なんてことは考えられるだろうか。

 まあどちらでもいいか、と。フェイネルが適当に思考を切り上げるのを待っていたように、シャーレイは続けた。


「聡いお方です。そうと示した所もありますが、大抵は気付かず成すがままですから」

 反応したのはフェイネルだった。

「気付かせて、警告と牽制でもするつもりだった? 立場があることを考えるなら、今後も潜伏を続けるのに不要な行為じゃないか?」

「法国の根は深く、広いのです」


 なんとも気の滅入る回答だった。

 リリィと出会ったことでサーフィラス王国へ親近感を抱いているだけに、フェイネルにとっても他人事とは言い難い。


「先にお伝えしておきますが、夫も、私達の子も、私の立場を知りませんが、知られても良い状態にはなっております」

「脅しは通じない?」

「むしろ、迂闊な行動を諌めております」

「反撃がキツそうだ」


 ドライフルーツのくれる芳醇な酒の風味を味わいながら、果実水で押し流す。

 やはり、シャーレイの用意したものは少々甘過ぎる。

 大人好みのフレーバーも、この甘さの前では喉を通る頃には忘れてしまう。


「まあでも、それとなく察してる部分はあるのかもな。息子さんとはさっき剣の稽古を付けて貰ったけど、貴女の事を聞いた時、少し含みを隠すような所があった」

「そうでしょう」


 まるでそのように育てましたから、とでも言うような口調だ。

 あまり突っ込んで聞くべきではないと思いつつも、誘われるように興味を持ったフェイネルは言葉を吟味する。


 一方でリリィは自分の近くに置かれた紙ヒコーキをじっと見詰め、手に取った。

 話を聞いていないのではない。思う所の先に、階下からふわりと飛んで来たこの紙ヒコーキがあったのだ。

 空を舞う不思議な物体。

 紙を特定の形へ折り畳むだけでこんなことが可能になるとは。

 最近法国で増えているという羊皮紙ではない紙は、従来のものと比べて安価ではあるものの、やはり高級品だ。それを遊び道具にしてみせるフェイネルを見て、シャーレイを見て、じっと考え込む。


 両者の様子をしっかりと伺いながら、シャーレイは口を開いた。


「嘘から始まり、偽りで塗り固めた家族です」


 容赦の無い発言に二人は揃って顔を曇らせた。

 思っていても口にはしなかった。

 庭で楽しそうに接していた異母兄弟を思えば、それを嘘とするのは抵抗がある。


「姫様。私は生まれも育ちもサーフィラス王国です。ですが曽祖父の代よりこの地へ入り、影ながら法国の支援を受けつつ地位を向上させてきた家系。当然、王国からすれば裏切り者です」


「いえ……私はそのようには」


「そう思うべきでしょう。事実なのですから」


 リリィの手元で紙ヒコーキが握られ、僅かに身を折った。

 あまり力を入れ過ぎれば翼が折れて、もう飛べなくなってしまう。


「夫とも政略結婚ですし、正妻との間に男子が生まれた後はさしたる会話すらありません。法国の力を使い、強引に捻じ込んだものですから、当然と言えば当然ですが」


 フェイネルはリリィを見て、焼き菓子を一つ取り、齧った。

 果実水には手を出さず飲み込む。


「……だけど、ここの人達は幸福そうに見えるね。なんでだろう」


「そうなるよう努めましたから」


「真実を明かす手もあった」


「そのようなこと」


「そうだね」


「人と人とが関わる上で、我慢を要せぬものなど多くありません。やらずとも良い価値があるが、出来ずに孤立していくか。嘘とは効率良く人と関わる潤滑油のようなものでしょう」


「そんな貴女が、敢えて真実を話した」


 リリィはじっと考え込んでいる。

 よく聞いて、よく考え、安易には口を出さない。

 折れかけた紙ヒコーキを丁寧に伸ばしつつ、力が入るのを堪える。


「私は――――」


 そんな少女を見詰めながら、かつてはその侍従であった女が僅かに目を細めた。


 アキレアの花の如く力強い口調で。


「私が、母が間諜であることを知ったのは十二の頃でした。物心付く前より、神殿へ参じ、教えを受け、その尊さを唱和してきましたから、法国へ尽くすことへの不満も疑問もありませんでした。およそ一年掛けて、ゆっくりと成すべき事を教え込まれた私は、その身で出来るあらゆる手段を教え込まれました。元より大成した貴族となっていた家柄ですから、周囲もやや行き過ぎた教育としか思わなかったようですね。疑問を覚えたのは法国にある学院へ通い始めてからです。ちょうど、私の正体を知る、法国側の有力貴族の生徒が学院内で私を使って地位向上を図っていた頃です。私達の繋がりを知らずに右往左往する周囲を見て、その方はとても私を気に入り、私もまた法国の為に身を捧げることを厭う心など持ち合わせていませんでしたから、成すがままとなりました」


 口を挟むにはあまりにも重い、その真実すら平然と吹き抜けて、座る二人を見据えてくる。


「切っ掛けは、やはりあの方でしょうか」


 小さく吐息を落とし。


「彼は法国は勿論、王国とも比較にならないほど小さな、国と称するのも笑ってしまうような辺境の地からやってきた貴族でした。法国への利益を考えれば、接触することに意味など見い出せないほどで、無駄とさえ言えるものでしたでしょう。けれど私を使っていた男は、彼を篭絡しろと命じてきたのです。既に守るものなど無くしていた私は素直に応じ、彼が好む女になりきって、彼へ近寄っていきました。嘘の愛情を囁き、嘘の満足を与え、そうした先で全てを暴いてみせて大笑いする。それだけの小さな計画です。事はうまく行きました。彼は泣き崩れ、私を使っていた男は大いに満足し、私も与えられた仕事が終わったと息を付いた程度。ただ、その時になって初めて、自分の胸の内に何も無いことを知りました。法国の為に、王国で生まれ育ちながら、それに背いて生きる私には、道具としての機能以外がいつの間にか全て抜け落ちていたのです。それでも構わないと思っていました。道具と割り切って働いていると、胸の内にある些細な煩わしさを忘れられたのですから」


 十四歳のリリィへ聞かせるにはあまりにも過酷な話だ。

 けれどシャーレイは容赦しない。


 この館を出れば、おそらく彼女がリリィへ語り掛ける機会など二度と無いのだから。


 これから法国の元で政治の駒となり、途方も無く長い時間を閉じた世界の中で生きなければいけない少女へ向けて、嘘と偽りを重ねてきた女が言葉を連ねる。


「学院を卒業してからは、互いの立場上、その男から連絡を受け取ることはなくなりました。変わりに母の指示に従って幾つかの貴族と秘密裏に関係を持ち、情報を盗み出し、それを母へ伝えていく日々。といったも二年ほどでしたね。結婚は極めて重要な手管です。若さを失えば価値の低い相手と結婚しなければならなくなる。そうして今の夫と結婚をし、第二夫人としての身軽さを生かして大領地の隅々まで間諜の網を張り巡らせていきました。ただ」


 と、不意にシャーレイは外を眺めた。


 少し前まで、バルコニーから望む庭で、彼女の息子と、正妻の息子とが剣の稽古をしていた。シャーレイの息子はすでに成人しており、とても屈託の無い、大らかな性格に育っているように見えた。彼にもそんな過去があるのだろうかとフェイネルは思ったが、こちらを見詰めるアキレアの花の如き女性が、瞳に煌々と何かを湛えていることに気付いた。


 ただ。


「息子にはなにも教えておりません。娘が生まれたらと思っていたのですが、夫との関係や、正妻との関係を考慮している内に、第二子を得る機会が無くなってしまいましたので」


「子どもか」


 そこでようやくフェイネルは口を挟んだ。

 彼女の話す内容より、話題そのものへ着目するように。


 男であるフェイネルでは窺い知ることは出来ない。語り合えるのは、未だ幼いとはいえリリィだけだ。


 貴族が実権を握る時代、十二で結婚し、子を成すことなど珍しくは無い。まして彼女は十四だ。


 あまりにも性急過ぎる人生だが、法国への人身御供となったなら、遠からずそういった話は出るだろう。


「どう、でしたか」


 白百合の花ような少女は問いかける。


 応じるのは、アキレアの花の如き女。


 フェイネルが背中に感じた王国を行く風を受けて、二人の髪が僅かに揺れた。


「人が一度に負える重みなど、赤子一人分で精一杯。貴女は目に見える何もかもを受け入れ、容易く染まってしまう。自分の色を知り、そうして初めて…………」


 結局言葉通りに応じることは無く、続く言葉は消えたまま。

 もし、こうなる以前であったのなら、聞くことが出来たのだろうか。

 けれど、こうなっていなければ、決して彼女は話さなかったのだろう。


 呑み込んだ言葉を胸の内に抱いたまま、間諜の女はフェイネルを見た。


「貴方が何者であるのか、私如きには推し量れるものではありません。行動ですら、命懸けで人を騙すこともある世界では、絶対的な評価を許さない。時に人は自分自身ですら騙せてしまうのですから」


 けれどフェイネルは、シャーレイが到着を遅らせてでも錆化病で苦しむ村へ乗り込み、最後の一人を看取ったのを見ている。

 シャーレイもまた、フェイネルがその一人に対し、最期を慰撫するべく言葉を送った姿を見ている。


 すべてが嘘で、見ている誰かを騙す為の演技とも言えるのかもしれないが。


「どうでしたか。この国は」

 未だ側面の一つを覗いたに過ぎない彼へ問いかける意味とは。

「守ろう。フェイネル=オコーネルとして、そうしたいと思えた」


 決して納得した訳でもなく、信用した訳でもなく。

 人を騙し、その裏を覗き、欺いてきた女にとって、人はどこまでいっても絶対的なものには成り得ない。自分自身ですらその内へ含める彼女は、けれど我が子へ己と同じ道を与えなかった。

 人は騙され合い、裏を隠し持ちながら、欺かれることで人と接し続けていける。


 真実は黄金足り得るだろうか。

 人体ですら錆び付くこの世界で。


 広がる花の地の根が、どこへ伸びているのかすら容易に確かめることは出来ない。


 会話が言葉を交わすことであるのなら、そこから随分と長い時間、三人は話をしなかった。

 けれど思考は回る、そして、言葉を挟まず考え続けていることが、既に一つの反応であり、交感可能な行動とさえ言える。


 いつしか顔を俯けていたシャーレイは、すっといつものように背筋を伸ばし、話を終えることにしたようだった。

 立ち上がった彼女は侍女へ指示して扉を開けさせた。

 そうして振り返って、向き合った光を受けて眩しそうに目を細めた。


「姫様」

「はい」

「どうか、体調にはお気を付け下さい」


 完璧な礼をしてみせ、応じる少女もまた、そこへ至ろうとするようで。


「さようなら」

「はい。さようなら、姫様」


 別れを告げた。





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