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 馬車に揺られているだけの時間というのは結構苦痛だ。

 仮にも王女であるリリィの馬車には、座面にたっぷりと綿が詰め込まれており、多少の揺れで腰を痛めるようなことはない。ただ、この小さな揺れの中で無理に本を読もうとすれば、吐き気や目眩を催してしまう為に、やれることと言えば会話くらいなもの。


 天蓋付きの大きな馬車、動く王宮とでも例えられそうな豪奢な造りに吐息を落としながら、はて今のは何に対してだと思考が回る。


「今朝は何を食べたんだ?」

「……なんですかいきなり」


 外からフェイネルとノア、二人の会話が聞こえてきた。


「いや、異端審問官の朝食がどんなものかと思ってな」

「芋のスープとパンを少々」

「芋食があるのか」

「どこにでもあるものです」

「ここしばらく、俺の食事は固いパンと水だけだったからな。神官は皆してあんな粗食を心掛けているのかと思った」

「芋は五十年ほど前に神殿のさるお方が見い出されたもので、民を飢えから開放し、安寧を齎したものです。贅沢を象徴するものではありません」

「なるほど、なら俺も今日はその粗食にあり付けると嬉しいね」


 私もお芋は好きなので楽しみです、などと思いつつも返事を送れないことに寂しさを覚える。


 出発前、当初はリリィと同乗する気でいたフェイネルだが、ノアが徒歩で同道すると聞いて自分もと名乗り出たのだ。

 彼の目的が世を見て回ることだと聞いているリリィからすれば自然な判断であるし、馬車に乗るつもりだったのも、そういうものかと納得していたからだろうとは理解している。


 聖域へ降り立った、というのが本当であるならば、そこから出て見えるものは全て物珍しいだろう。


 出来れば混ざりたい。

 退屈なこの時間、楽しみは誰かとの会話なのだ。


 ところが視線を遮るように壁で覆われたこの馬車、窓すら勝手に開けてはいけませんと度々言われてきたものなのだ。


 せめて誰か同乗者が居れば話は変わるのだが。


 誰か。


 そう考えた所で、ため息の正体に気付いた。


「その首飾りって木製? 彫り込みも簡素だし、結構庶民的な所あるんだな、異端審問官って」

「神殿の庭で採取された、特別な木を掘り込んで作られています」

「聖別ってヤツか」


 本来であれば、この馬車には複数名の侍女が同乗する筈だった。

 けれど、権力闘争の結果、新たな者がサーフィラス王国への利権を手にし、前任者の送り込んだ監視役である侍従長らは引き剥がされてしまった。

 まさか全員が関係者だとまでは思っていなかったので、今朝などは勝手の分からない着付けに四苦八苦している所へノアが様子を見に来て、謝罪されながら身支度を整える手伝いをして貰った。邪魔者の排除までは頭にあっても、それでリリィの世話をする者が居なくなることは考えなかったらしい。


 王女の世話役をそこらで雇い入れる、という訳にもいかず、目的地まではノアが面倒を見てくれることになった。

 それはいいのだが、ようやく慣れつつあった環境が変わるのみならず、がらんとした馬車の中を見つめていると、どうしてもこの先にやってくる日々を思い浮かべてしまう。


 せめて、別れの挨拶くらいはしたかった。

 ノアからすれば政敵の手先である為、情報を与えたくなかったのだろうが。


「それにしても、皆して馬にでも乗って移動するのかと思っていたよ」

「神官は馬には乗りません。巡礼を徒歩で行うのと同じく、信徒の規範として日常的に修行の歩みを怠るべきではないのです」

「にしては、神殿にも馬車はあったぞ」

「極一部の、高位の者は修行を終えている為、馬車の使用が認められています」

「終着点があるなんていい教義だ」

「何を仰りたいのですか」

「いや、修行を終えた後はきっと布教の役目を負って、いろんな所へ顔を出すようになるんだと思ってね」

「はい。その通りです」


 淡々と応じるノアへ、フェイネルは楽しげな口調を崩さない。

 どうにも彼は、やりすぎない程度に彼女をつつくのを面白がっているらしい。

 ノアもノアで口が回る、というべきか、流石は異端審問官、神殿批判を掠めるようにして舞う彼へ上手く応じている。だから余計にやるのだが、果たして自分が火刑台の前で踊っている事実をどこまで認識しているのかフェイネルに問い詰めたくもなる。


 そう。彼も彼だ、とリリィは思う。


 リリィの国を見たい、とまで言ったのだから、せめて道中でくらい案内をさせてはくれないのだろうか、と。


 たった一人で馬車の中へ取り残されて、寂しく揺られ続けているしかない。

 既に侍従長はおらず、フェイネルは勿論、おそらくはノアも王室の振る舞いにまで口出しはしてこないだろう。なのにどうしても気軽に窓を開けないのは、やはり心が繋がれている証拠なのだろうか。


 自由。


 最早口にするのも憚られる一言を胸に、白百合のような少女は眉を落とした。


    ※   ※   ※


 昨夜、リリィの寝所へやってきたフェイネルは、彼女を庭へ連れ出して星空を見たがった。


「相変わらずすっごい景色だ」


 星空なんて晴れていればいつでも見れるのに、心から素晴らしいものを見たみたいに彼は笑う。


「月から見た星空は、ここよりもっと近くて大きく見えるんじゃないですか」

「残念ながら夜の月は明るいからさ、ここほど星が見えないんだ」


 明るいと星が見えない、リリィには無い考えだった。

 確かに思い返してみれば、篝火の多い場所などでは聖アティアの輝きも霞んで見えていたような気もするが、星はと言われると分からない。

 この地の民は夜空を見る時、星よりもそれぞれの月を見上げるものだ。


 今は夏、最も美しい真円を描く聖アティアは、仄かに青い光を放ち、暗闇を照らし浄化してくれている。


 彼の独特な発想はどこからくるものだろうか。

 正体へ迫れるとも、迫ろうとも考えていなかったが、思索そのものは楽しくてつい追及したくなる。


 しばらくのんびりと夜空を眺めていたフェイネルは、思い出したような口調で言った。


「自由になりたいとは思わないか」


 思いがけない言葉に理解が遅れた。


「自由、ですか?」


「そうだ。このまま神殿だか法国だかに身を預けて、残りの人生を閉じ込められて生きるのは、俺には君らしくないように思える」

「ですが、もうどうしようもありません」

「本当にそうかな? いや、俺もこの土地のことは分からないし、まだ具体的な方法は提示出来ないけど、あっさり諦めなくっても、抗う方法はあるんじゃないかな」


 彼はじっと空を見詰めていた。

 同じように、あたり前の夜空を見上げていたリリィは、広い景色の中に己が溶け込んでいくような感覚を得る。


「そうだな……例えば替え玉を用意する。必要な時には戻らなくちゃいけないけど、普段はあちこち行って、好きにやらせて貰う方法もある。感染症の対抗策を提示出来るってのは、君が思っている以上に価値がある筈だ。他には、法国以外の勢力を頼る手もある。近隣の、どこか君を尊重してくれる国を探して、あの刻印術を共有するんだ。欲しがる所は多いと思うよ。どこから入り込むかも分からない病に対して、何も手段が無いってのは誰だって不安だから。他には――――」


 一つ一つ、まるで物語を紡ぐみたいにフェイネルが可能性をくれる。


 現実的な判断として納得したリリィだが、確かにそんな方法もあるのだと納得したものも、確かにあった。


「フェイ」


 名を呼べば、その名を持つ男が振り返る。

 少年のような目をしていた彼は、地上を見た途端に現実を知る大人の表情に戻ってしまった。


「約束は守らないと。それに私は、やっぱり法国の力を借りるのが一番早く、確実だと思います」


「そんなに大きな力があるのか、セヴィアって国は」


「この大陸で大法国セヴィアと、神殿勢力の影響下に無いのは僅かな国のみです。その国も、僻地であったり、その土地独自の環境が理由で教化が遅れているだけと言われています。最近では異大陸にも進出しているらしいですよ」


「大陸を越えてまで……何が連中をそうさせるんだろうねぇ」


 信仰の対象である古ルデーテルの化身を名乗っておいて言う事ではないのだが、確かに、とリリィも小さく笑ってしまった。


 大きな力があり、一声掛ければ大陸のどの国々よりも兵を招集出来る。

 五十年程前に見い出された芋の登場で貧困はとても遠いものになったと言われているけれど、なぜまだ広がり続けるのだろうか。

 どこまで広がっても、人間は月へは届かない。

 目指すべきは外ではなく、上ではないのだろうか。


 浮かび上がった思考をリリィは慌てて消した。

 彼女のいけない癖だ。

 考えることが好きだから、教義や戒律の裏側まで思索の糸を伸ばしてしまう。

 うっかり絡んでしまえば今度は彼女が異端審問に掛けられてしまうだろうに。


「ありがとうございます。色々と考えて下さったのですね」


「いやぁ……まあ、余計な口出しだったな」


「いいえ。こうして星空を見ながら夢を見れたことは、きっとこの先も覚えていられます」


 本心から言ったのだが、フェイネルは笑ってみせつつも眉を下げていた。


「儀式って、どんなことするの」


 話題を変えた彼にリリィも乗った。

 押し問答になってしまうのはお互いに本意ではない。


「サーフィラス王国には、いえこの大陸には、神殿と同じくらい、強く信仰されている存在が居ます」

「へぇ」

「それが、建国王と呼ばれるお方で、混沌としていた当時の大陸を平定した人物です」


 今でこそ小国でしかないサーフィラス王国も、昔はほぼ全土を支配下に置いていたと言われている。

 長い歴史の中で、かつて平定した国々の独立を認め、あるいは離脱され、時に分裂して、そうやって今の国土にまで縮小していった。


「サーフィラス王国以外でも彼を信仰する国はあり、各所に遺骨の納められた祠が多数存在します。この大陸が再び混迷の時代を迎えた時、何処かより復活して民をお救い下さるのだとか」

「大した人だったんだな。国を越えて愛される、というより、一時的にとはいえ元は一つだったんだから、皆して信じたがるのも分かるよ」

「一度も現れたことはありませんけどね」


 つい漏れた不信心な言葉を、フェイネルは笑って流す。


「ですから、人々の信仰は彼自身と、彼の残した剣へ集められたのだと思います」

「剣? 当時のものが残ってるの?」

「はい。その剣は数百年もの間、ずっと野晒しにされているのに決して錆びることなく、今も王国を望むビルダの丘にある大岩へ突き刺さっています。現在は神殿がその管理を行い、継承権を持つサーフィラス王家が希望すれば、いつでも挑戦することが出来るようになっています」

「国を象徴する剣が法国に取られてるのか」

「王国が二つに割れて争っていた時代、保護を名目に侵攻し、神殿を築いたそうです」


 呆れた話だとリリィも思う。

 おかげで自国の継承の儀を行うのに、他国の許可が必要になった。

 二分された状態では当時の法国には対抗出来ず、散々に足の引っ張り合いをしていた結果、支配を既成事実化されてしまったのだ。


 当時は険悪だったと言われているが、さらに百年以上経過した今となっては落ち着いている。

 現在のサーフィラス王国が、大法国セヴィアを認めることで支援を受け、もう片方を大陸の端まで追い詰めたのだから。


「その剣を引き抜いた者は、真に建国王の後継者足り得ると言われていて、大昔の盟約を鵜呑みにするのであれば、分離していった国々は再びサーフィラス王国の元へ傅くことになっています」

「引き抜けないのか? その……、リリィって結構力あるだろ?」

「え?」

「え?」


 とにかくとても由緒ある剣で、抜けさえすれば確かに法国の支援すら必要なくなるのかも知れない。

 あくまで盟約を各国が履行するなら、だが。


 結果がどうあれ荒唐無稽な話に過ぎない。


 大昔の誰かさん達の約束で、昨日までの全てを投げ打てる者が居るだろうか。


「無理ですよ。今まで数多くの王族が挑み、引き抜けた者は一人もおりません。私如きが建国王の後継者だなんて、考えただけで目が回りそうです」

「それでも可能性はあるんだな」

「まだその話、続けたいんですか?」

「あいや、ごめんごめん」


 リリィは笑って応じる。


 本当に、自分が引き抜けるなどと思ったことは無い。

 それに万一抜けてしまったら、本当に目を回して気絶しそうだった。


「今の小さなサーフィラス王国でさえ手に余っているのに、大陸全土なんて要りません」

「でも各地の遺跡を好きに探索して良いって言われたらどうする?」


 思わず両手を握って浮き足立ってしまったので、今度はフェイネルが楽しげに笑った。

 もう、と拗ねたように言って、言葉を続ける。


「儀式はきっと失敗するでしょう。それでいいんです。そして私は、偉大なる建国王に劣る王であったと民衆へ喧伝し、足りぬ身でありながらも、神殿の赦しを得て王政を持続させるのです」


「継承権を実質的に握られている訳か。思っていた以上にずぶずぶなんだな」


「そうです。ずぶずぶ沈みかけているのが今の王国です」


 経緯はどうであれ、今の法国は実際にサーフィラス王国を支えられるだけの力も、そうする理由も持っている。

 確かに首根っこを抑えた状態ではあるものの、大陸へ広がる二つの信仰を法国が握り続けるには、やはり継承の儀に失敗し続ける王家が必要なのだ。


 フェイネルの語った夢はとても魅力的ではあったが、やはり王国は大昔の呪縛から逃れることは出来ない。

 玉座に据えられると決まった時点で、リリィの魂は繋がれているのだ。


    ※   ※   ※


 一人ぼっちの馬車で揺られていると、起きているのか眠っているのかも曖昧になる。

 聞き耳を立てていた外の会話もどこかぼやけ、あぁそうかと納得する。

 この先ずっと、開けられる筈の窓にすら手を付けず、生きているのか死んでいるのかも分からない人生を送るのだ。


 分かっているのに、手を触れさせようとすると躊躇ってしまう。


 思えば聖域での行動は本当にどうかしていたのだろう。

 最後の自由。

 最後の、信仰。

 あんな高い場所まで行って、結局祈りは届かなかった。

 足元に錆で隠れた刻印があったのは偶然ですらない。

 賢狼ユラハがいずれ誰かがあの遺跡へ礼拝へ来た時、錆化病への治療法を伝えられるようにと遺したものだ。

 ならば神の奇跡ではなく、行動した意思が収束することで起きた必然。


 神への信仰なんてとっくに失ったと思っていたのに、今また傷付こうとしている自分に気付いて吐息が漏れた。


 信仰は物心付く以前から続けてきた習慣だ。

 それを変えるというのは、呼吸の方法を変えるようなもの。

 常に意識し、否定して、新しい方法を全うしようとして初めて離れていけるものなのかもしれない。

 随分歩いたと思って振り返れば、すぐ後ろで高く覆い被さるように聳え立っていて、歩みの遅さにうんざりする。


「自由、か」


 再び溢し、眩しさに目を細める。

 あ、と気が付けば、馬車の扉が勝手に開け放たれていた。

 車輪は今も轍を踏んで進んでいる。

 乗り込んでくるのが誰かなんて、考えるまでも無かった。


「なあリリィ、暇だったら一緒に歩かないか?」


 当たり前の顔をして言ってくるフェイネルへ、外からノアの苦言が差し込まれる。


「ですから、一国の王女であるリリアーナ様を歩かせるなど無礼です」

「そんなのリリィが決めればいいだろ。女王になるんだぞ。歩くのにも許可が要るのか?」

「それと、何度も言っていますがその呼び名は失礼です」

「良いって言われたからね。駄目と言われるまでは続けるさ」


 呆然とその様子を眺めていたリリィは、自分が窓へ手を伸ばしたまま固まっていることに遅れて気付く。

 彼から見れば自分へ向けているとも取れるその手を、素早く歩み寄ってきた大きな手が掴む。


「行こう、リリィ」


 あぁ、と気付いた。

 ほんの数日前、大きな想いを胸に踏み出した遺跡での会話。

 あの時には確かにあった感情が、いつの間にか消え失せてしまっていた。


 生きているかも死んでいるかも分からない人生を送らせるのは、果たして法国との契約なのか、自分自身なのか。


 まだまだ、割り切るには辛い現実であるものの。


「はいっ。私も歩きたいです、フェイ」


 握り返した途端、思っていたよりずっと大きな力で引き寄せられ、瞬く間にリリィの身体は光の向こうへ飛び出していた。


    ※   ※   ※


 数日を空っぽの馬車を引き連れてリリィ達は歩き通した。

 日々の歩みは巡礼と同じ、そんなことを言っていたノアは平然としていたが、ここまでの距離を歩くのに慣れていなかったリリィとフェイネルが、揃って足が痛い痛いと訴えて、なのに馬車へ引っ込もうとせずわーきゃーと騒ぐものだから、最後には異端審問官によるキツいお説教を受けることと相成った。

 リリィには優しく、フェイネルには手荒く、貴重な薬を足裏へ塗りたくり、一日の大休止を挟んでの移動が続き、それと遭遇した。


「あれは……?」


 行程は七割ほどを終えていた。

 後二日も歩けば目的地へ辿り着けるだろう、そんな頃になって、窪地に澱む霧の姿を見て取った。


 それなりに大きな村落が赤い濃霧に覆われていて、大きな火の手が見て取れる。

 なんらかの襲撃や略奪か、そう思って警戒したフェイネルだったが、周囲の反応は落ち着いていた。


「錆化病ですね」


 道の端へと進み出たリリィの肩から、カワセミが飛び立った。

 足元を右へ左へと回りこんでいた狐も鼻先をひく付かせて反対側へ逃げていく。


「霧散した錆は、何故かその方の死んだ場所に留まります。霧を払う為に火を起こし、浄化しようとしているのでしょう」

「燃やせば、飛散した錆は消えるのか?」

「幾らかは薄まります。ただ、火を起こすとその場所へ留まらなくなる為、生活を取り戻そうとするのなら、ああして大きな火を焚くのです」


 しかし民間がそれぞれの判断で火を起こすのなら、火災へ発展することもあるだろう。

 どれだけの火があれば十分なのか、規模さえ分かっていないという。

 病への不安はどんな時代だって同じだ。

 その痕跡を追い払う為なら、家ごと焼いても構わないとする者も少なくはない。


「――――先を急ぎましょう」


 やや、固さのあるノアの声に、中々リリィの足は動かなかった。


 彼女には錆化病の治療法がある。検証不足ではあるものの、初期状態の者ならば比較的安全に錆を取り除くことが出来たのだ。今ここで飛び込んでいけば、何人かの命を救える筈だ。あるいは病への不安に脅える人々の心を慰撫することも。


 胸元でグッと両手を握り、歩き続ける痛みを知った脚で己を支え、歌うように会話へ花を咲かせていた口は、今ぐっと引き結ばれたまま言葉を裏に押し込んでいる。


 ここまでの時間で、ノアもフェイネルも、このリリィという少女が懸命であることは察している。

 ならば残り三日の行程を進み、治療法を法国へ差し出した上で広めていく方が遥かに多くの人を救えると、きっと考えているのだろう、と。

 一方で、今日見捨てたあの村の人々は、病の苦痛と恐怖を抱えたまま死んでいく。

 賢狼ユラハを見殺しにするのではなく、苦痛からの開放を願って治療を続けた彼女にとって、この決断はどれほど重いことだろうか。


「よし」


 フェイネルは進み出た。


「馬鹿なことは止めて下さい」

「分かってるよ」


 ノアの引き留めに軽く応じて、彼は片腕を広げて霧へ沈む村落を示す。


「リリィ、ここは俺に任せて貰えないか。元々少し先の、領主の館で休息を取る予定だっただろ? そこで待っててくれ。俺は、余った物資をあそこへ持っていく。大した量じゃないけど、あんな状況じゃ助かるはずだ。それに、俺も錆化病の現場を見ておきたい」


「……病を貰う危険もありますよ」


 不安そうに言うリリィへ笑ってみせる。


「そうなったらリリィの広めた治療法で助けてくれるんだろ?」


 彼とて全く不安が無いでもない。

 目的があってここへ来た。その言葉通り、ここで死を待つ病人にはなれない。


 不合理な判断だ。


 何故そんなことをするのだろうと思えば、答えは目の前に居る。


 白百合のような少女が、あの聖域で男の背を押したように、今もこうして望んでいる。


 いくらか力の抜けた少女の後ろから、ノアの冷たい声がやってきた。


「病を貰ったら、戻ってこないで下さいね」


 返事はせず、後ろの荷馬車を引き連れてフェイネルは窪地へ降りていった。

 少しも行かない内に、空気には鉄錆の匂いが混じり始めた。





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