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神殿勢力が未教化の民と出会った時、この過酷な世界にあって神の導きを知らぬとはなんと憐れなことだろうかと嘆くという。
仮に土着の信仰を持っていたとしても、絶対的な神を信奉する彼らからすれば、悪しき化生に騙されているか、自身の神々が扮した姿に過ぎず、それに気付かずに居ることが可哀想なのだ。
故に神殿は異教徒を温かく迎え入れることもある。
彼らが最も忌み嫌うのは、神の導きを知りながら背を向ける異端者だ。
少女リリアーナ=フォン=サーフィラスは、おそらくその名で呼ばれるに十分なほどの不信を心に抱いている。
物心付く前より教え込まれていた生活習慣や、周囲の者達と共有する感謝と畏敬の念は持ち合わせていても、いざ信仰となった場合、彼女にとってソレはやれねばならない仕事か義務の類だった。
とはいえ、殊更に嫌っているのでもない。
自身は教義それらを客観的に捉え、どういう効果があるか、何故そう説かれたのかを分解し、悪く言えば利用もする。
そんな少女が病に侵された国を背負わされた時、自国の力では問題解決に至れないと冷静に判断し、大国の力を借りるべく行動を起こすのは自然なことだった。
禊ぎはあくまで前段階。
建国より続く継承の儀式にて、彼女は失敗することが決まっている。
血統こそ証明されているが、継承するに足る器ではないと、建国王へ並び立てぬ矮小な王に過ぎないと人々へ見せ付けることで、神殿勢力を擁する大法国セヴィアへその権限を譲り渡す。病に苦しむ国民が、自身の王を見限って、新たな、より大きな力を頼るに十分過ぎる口実を与える。
自己犠牲と呼ぶほど悲痛なものではない。
あわよくばセヴィアの書庫を読み漁ったり、誰にも邪魔されず歴史探求をしたりと、案外悠々自適な生活も望めるかもしれないのだ。
元より背景も乏しく、最も力が無いからこそ、この窮地の責任者として祀り上げられたに過ぎない身。
権力など望んだことはないし、男達のような野心も持たない。
廃墟同然の貧民窟で、落ちてくる生ごみを拾って食い繋ぐような生活をしていた者に比べれば、あまりにも過ぎた生活だ。
信じてくれた人々は皆、錆となって故国へ散った。
身の回りの世話をする侍従長も、法国から派遣されてきた監視役だ。
故にどこか投げやりだった面も否めない。
叡智を授かりたくてやってきたが、それを授けてくれるという巨狼まで奇病に侵されていると知った時、驚きの後には納得が来た。
やはり、と。
やはり神は居ない。
絶望の中で必死に祈りを捧げて、何一つ救いを齎してくれなかった聖アティア。
彼女への不信と共に感情すら抜け落ちて、けれど、そうして見えた景色の中で苦しみ続けている一匹の獣を見付けたのだ。
絶望など立ち止まる理由にはならない。
国を背負うと決めたなら、世の形が如何様になろうとも続けていかねばならない。
世に救いが無いのであれば、救いの無い世であることを前提に、王国を導いていく。
最早女神の化身とされる巨狼すら、彼女にとっては慈しむべき獣の一匹にしか見えなかった。
だからこそ錆化病に侵される様を憐れんだ。
助けたい、と当たり前に思えたのだ。
やってみようと思った。
きっと神への反抗じみた想いで。
ここまで来たら、どうせここで終わりなら、神など絶対に居ないと証明してやる。
何も起きなかった祭壇の前で泣き叫んで、世の無情を思う存分呪ってやろう。
そんなことを考えていた。
けれど、
「その懸け、乗らせて貰おう」
少女の投げ捨てたものを拾い上げる者が居た。
「そうさ、こんな景色を見たくて俺はやってきた。この世界は、続けていく価値があるんだって。君達は人間だ。その事実を心の底から誇らしいと思う」
言っていることの意味は分からない。
記憶喪失を名乗り、その癖平然と未知を見せ付けてくる人物。
未だ多くを語ったとは言えない関係で、今まで誰にも話したことの無かった神への不信すら打ち明けた。
きっと彼がこの地の人間ではなかったから、少女の名前にすら反応しない人物だったから、心が軽かったのだろうと思う。
あるいは、自分はこんなにも思い詰めているんだぞと訴えたかったのかもしれない。
彼には不思議と言葉を引き出されてしまう、そんな感覚もあった。
「フェイ、でも」
戸惑う。
そんなつもりでは無かったのだ。
これは八つ当たり。
幼稚な怒りを無意味にぶつけて、諦め笑う為の儀式に過ぎない。
彼が語ったような価値なんてどこにも無かった。
「いいのさ。やらせてくれ。君ほどじゃないけど、俺ももう背を向ける気にならないんだ。だってさ」
なのに彼は言い放つ。
嘘で固めた少女の望みを、まるで本物の宝物みたいに。
最初の想いを。
「こいつが苦しんでる」
笑いながら、口にする。
「遠く険しい道を行くのなら、見える景色を楽しもう。そこにはきっと、歩み始めた時の理由があるもんだ」
錆化病の治療に明け暮れて、神への絶望と共に僅か十四歳で己の人生を投げ捨てた。
どれほど彼女が楽天的であったとしても、真に苦しんでいる者からすれば笑ってしまうような不幸であっても、ここに至るまでの道程はとても、大変だった。
忘れていないつもりだった。
けれど思考は思い出の表面を撫でるばかりで、確かに在った胸を突くような想いをようやく思い出した。
そうだ。
彼女は皆を助けたかった。
死んでしまうのが、失われてしまうのが辛かった。
もうあんな悲劇が起きないように、自分に出来る精一杯を望んだ。
法国へ継承の儀を打診する手紙を書いた時、三度も涙に濡れて書き直したのを思い出せ。
そして今、あの獣を見た時に浮かんだ感情は何だ。
苦しそうで、憐れで、だから助けたいと思った。
ならば諦めから踏み出すようなことは止めろ。
偽悪も偽善も、行動の前には等しく戯言だ。
赤錆の霧の向こう側で、患者はいつも救いを求めている。
「行こう、リリィ」
決意を。
中身が足りないのであれば、今ここで注ぎ込め。
大きな声で。
「っ、はい!! お願いしますっ、フェイ!!」
かつて望んだ道の先、そこに、名を呼んだ男が立っているような気がした。
※ ※ ※
やるべきことは決まっている。
今も赤錆に身体中を侵されている巨狼を迂回し、無事に残っている祭壇で祈りを捧げる。
意味があるかは分からない。
けれどやる。
心から信じ、この、とても月に近い場所で、精一杯の訴えを天へ放つ。
青の帳に隠れてしまったとしても、聖アティアはそこに在る。
ところが駆け出そうとしたリリィの背後から、二匹の狼が霧の中ヘ飛び込んで来た。
「行け!!」
フェイネルが手にした何らかの道具を狼へ向けている。
慌てて叫んだ。
「いけませんっ、その子達はきっと!!」
「分かっている!!」
言葉に反して遺跡の床から轟音と共に火柱が上がり、一匹が大きく下がり、一匹が警戒して身を強張らせた。
「威嚇だ!! 殺すつもりはない!!」
「っ、お願いします!!」
一体どんな技術なのか、見た目と音だけは派手だったが、確かに殺傷目的の炎とは動きが違う。
狼は非常に頭の良い生き物だ。
繰り返し使っていればそれにも気付くだろう。
巨狼の子か孫か、ならば会話が可能だろうか、そんなことを考えつつも、まずはとリリィは祭壇を目指した。
フェイネルならば同じことを思いつく、何故かそう思えた。
二匹は彼へ任せ、自分は出来る事をやる。
一度は失われたと思えた感覚に、少しだけ笑みを浮かべながら、白百合のような少女は赤錆の霧の中を疾走した。
咄嗟に反応して襲い掛かろうとしてきた巨狼にさえ意識は向けなかった。
※ ※ ※
非殺傷用の設定へ切り替えて巨狼を威嚇し、続けて回り込もうとしていた一匹の足元へもう一発。
「そうだ。俺だけ見てな」
一体はまともに動けないようだが、それでも三対一は厄介だった。
なにせ狼は集団での狩りに長けている。
本来はもっと大勢で囲み、隙を伺って攻撃を仕掛けてくるものだが、今回は親か仲間が襲われているとあって積極的だ。
襲っているつもりはないのだが、と思いかけた所で言葉を作った。
「あー、お前ら、俺の言葉って分かってくれる? おっきいのを治療したいんだ、それまで待っててくれるとありがたいんだけど」
駄目なようだった。
興奮しているからか、言葉が違うのか、少なくともフェイネルの発言それ自体に反応した様子が無い。
「と……本当に油断ならないな」
牽制を加えつつ、すぐもう一匹へ視線を送る。
どちらかに目を向ければもう片方が広がって視野外へ逃げようとするし、阻まれても距離を詰めてくる。
厄介極まりない相手だ。
せめて意識を奪うなり、拘束するなり出来ればいいのだが、傷を付けない前提となれば難しい。
特に昏倒させる系は脳障害を引き起こす危険がある為、彼の持っているような一般的に所持が可能な武器には搭載が禁止されている。
跡形も無く吹き飛ばすのは良くて、障害が残るのは駄目というのは実に不合理なものだが、法は基本的に生存している者の為にあるので仕方無い。
「問題はコレ、無駄に出力食うんだけど」
言いつつカートリッジを交換して、フェイネルは顔を引き攣らせた。
「くそっ、装填済みのもの以外は全部駄目か!!」
カートリッジに満タンを示すサインは出ているのに、銃がそれを認識しない。
何度か差し抜きを試すも反応しなかった。
動き出した狼へ咄嗟に銃口を向けると、流石に学んだらしい連中も警戒して身を引く。
嘘で塗り固めた膠着状態、それも、極めて不利を孕んだものに、フェイネルは冷や汗を垂らしつつ笑みを作った。
「全く、頼むよ、ほんと」
巨狼が咆哮を放ち、あの不快感を催す響きが背を押した。
※ ※ ※
背後から叩き付けられた叫びを聞きながらリリィは祭壇の前へ駆け込み、跪いて手を組んだ。
足元は赤錆で赤黒く染まっている。
それがあの巨狼の肉体からこぼれ落ちたものと思えば、否応無く胸が痛んだ。
だからこそ、強く祈れる。
難しいことは何も無い。
ただ真っ直ぐに祈ること。
それこそが信仰の始まりだ。
今でこそ法国と強く結び付き、政治力を振るうようにはなっているが、神殿の教えはそもそも民衆のものだったとされている。
故にか、祈りの作法は結構大雑把で、地域による違いすら大らかに認められている面もある。
細かい文言などもなく、大体が手を組み合わせて祈るのみ。
簡素で、気楽で、隣人に対するような扱いこそ、本来この地の民と神々の距離感だったのかもしれない。
血だまりのように染まった遺跡の屋上で、いつもより空に近い場所で、リリアーナ=フォン=サーフィラスは祈る。
今日までの日々、一年半にも及ぶ錆化病との闘い、そして敗北。
フェイネルの言うような偶然かもしれないが、病に罹らず、また流行の地にて長く治療に努めていたことが広まり、権力を持たなかった少女は祀り上げられた。
彼女が儀式へ挑むと公表された時、真実を知る権力者は別としても、民衆は大いに歓迎し、希望を持ったことだろう。
やがてくる儀式の日にそれが打ち砕かれると知りながらここまで来た。
ただ、罪悪感に顔を俯けることなくやってこれたのは、もしかしたらという希望があったからだ。
誰もが失敗してきた継承の儀、それを自分がやれるとは思わないながらも、結果の出ていないことには期待が付き纏う。
何もかも、やってみるまでは分からない。
賢者はやるまでもなく学ぶと言うが、やりもせず結果を語るのは、果たして賢さと言えるだろうか。
失敗するからと何もせず立ち止まるのは、本当に正しいことなのか。
ならば始めから失敗へ向かっている少女は。
継承の儀、だけではない。
錆化病からの回復者は一人とて確認されていない。
致死率十割。
病の進行を抑えて延命出来たとして、そこまでが限界なのだ。
ならば苦しみを先延ばしにする行為もまた、失敗へ向けた行いと言える。
偽りの希望、嘘への期待、それらを背負って今また祈る。
叡智を望み、神の救いを信じ。
「どうかっ」
その想いが届いたのかどうかは分からない。
遺跡の屋上を吹き抜ける、階段を登っている最中にもあった、高所故の強風。
煽られ身を崩したすぐ足元の錆を風が押し流した。
頭を垂れた視線の端でそれを捉える。
「っ、これは!?」
※ ※ ※
結局一分も持たない内に見抜かれて狼が接近してきた。
未だに襲い掛かってこないのは、やはり警戒心が強い生き物だからこそか。
集団で獲物を狩る動物は、基本的に仲間の犠牲を厭う。
所詮は今日の空腹を満たす為でしかない狩りで平然と犠牲を出し続けていれば、そんな群れは瞬く間に壊滅するだろう。
狼は特に知恵が回り、慎重で、その上とても鼻が効く。
焦りや緊張には独特な脳内物質が分泌されるが、この錆臭い霧の中でさえフェイネルのそれを嗅ぎ取ったのだろうか、徐々に動きが大胆なものに変化していった。威嚇を発し、決して息の根を止めには来ないが、細かく細かく仕掛けては傷を残し、血を流させようとしてくるのだ。
左腕に残る爪痕から血が滴り落ち、小突かれた右足首が少々痛む。
他はかすり傷と呼べる程度のものだったが、傷よりも、慣れない緊張に体力を奪われた。
気を抜けば呼吸が乱れ、目眩に姿勢を崩してしまいそうになる。
「っ、くそ、調子乗って……!!」
敢えて見せた隙に狼が襲い掛かってきた。
素早く振り向いて右拳を見舞う。
鼻先へ綺麗に入った。
「っしゃあ!! っはは!! と、っ、お前も来んのかよ!! 痛っ!?」
殴り飛ばせはしたが、偶然か抵抗の結果か、爪がまた腕を裂いていった。
加えてもう一匹が脚へ噛み付き、殴られた一匹も身を起こして詰めてくる。とりあえず噛み付いてる方へと腕を振れば、あっさり口を離して逃げていった。服こそ裂けなかったが、噛まれた骨身は実に痛む。迫ってきていた方も、味方が離れたのを見て身を返し、距離を取った。
呼吸を整える。
命を狙われた経験ならあるものの、流石に人間相手と獣相手では勝手が違った。
生物的な恐怖感は拭い切れず、笑みも次第に苦笑いへと変わっていく。
けれど相手側にもそこまで積極的に殺そうとする動きが無い。ならば、と思った所で同時に来た。
「っ、ちぃ!!」
片側へ詰め、蹴りを放つ。避けられ、足元へ潜り込まれた。腕を払うが届かない。それはいい。単に銃を投げ付けただけだ。流石に予想外だったのだろう、頭に衝撃を受けたことで離れていくが、もう一匹への対処が遅れた。
「リア」
一人と一匹の間に火柱があがる。
フェイネルが銃でやって見せたものに似ているが、光は弱く、音は僅か。
けれど粘度を持つように蠢き舞い上がる炎を見て、二匹ともが明らかに警戒して距離を大きく取った。
「お待たせしました!!」
「おうっ、祈りは届いたかっ」
言いつつ走ってきたリリィの、右手に持つ短剣へ目をやった。
使い込んだ様子のあるソレは、表面の一部、何らかの彫刻部分が光を放っていた。
刻印術、という単語がフェイネルの思考を掠める。
何度か会話に出てきたものだ。
流れで質問出来ずにきたが、そういうものだと受け入れるのにも時間が掛かる。
あれが神への祈りの結果だとすれば、焼いて殺せとの思し召しだっただろうが。
「貴方達の親が祭壇へ叡智を残してくれていました!! 今からそれを唱えますっ、どうか離れていて下さい!!」
強風が吹き抜ける。
先程から続くソレで、一時的にだが霧が晴れつつあった。
遅れてフェイネルはある事に気付く。
「リリィ、腕が」
「他に刻める場所が無かったので。大丈夫です、後で癒せます」
少女の瑞々しい肌へ、おそらくは短剣で付けたのだろう傷痕があった。
血の色が刻むのは、彼女の短剣にあるものと似た印。
刻印術。
特殊な文字を物体へ刻むことで力を発揮する術か。
困惑しつつも自分の目で見た火柱を思い、今は疑問を押さえ込む。
せめてハンカチを差し出せる余裕があればいいのにと思う。
脂汗の滲む額には真っ白な髪が張り付いていて、目が赤くなっているのが痛々しい。
自傷行為は本能的にも強い忌避感を覚える筈だ。それをこんなに小さな少女がやってみせた。
怒りへかまけてもいられず、ぐっと拳を握り込んで周囲の警戒を続けた。
幸いにも二匹の狼は近寄ってこない。
動物から好かれる少女の訴えが届いたとでも言うのだろうか。
「イル」
伸ばした指先から血が滴り落ちる。
それが遺跡の床へ触れた途端、石の表面に緑が広がった。
だけでは終わらない。
「メイ ヤハト 」
たった一言で火柱を起こした刻印術で、三つを連ねて唱えあげる。
基準を持たないフェイネルなりに、光を強めるリリィの傷痕を見て相当に大きな変化が起きようとしているのが分かった。
土壌すら無いまま広がる草原が既に異様だが、今の言葉で更に勢いを増していく。
「オーフ」
締めくくりの言葉と共に、小さな妖精が身を起こすようにして、草原から白の花弁が広がった。
美しくも澄んだその花の名は白百合。
無垢を顕し、如何様にも染まる花。
まさにその刻印術を顕す少女のように可憐で儚げな花弁が、咲いたその場で赤黒く染まって枯れ落ちた。
錆だ。
生物を錆び付かせるソレが、無垢な白百合さえも錆び付かせ、枯らし、粉となって砕け散る。
巨狼へ巻き付く様に伸びた茎の先で、例外なく同じ現象が繰り返し行われた。
咲いては枯れて、咲いては枯れて、散っていくその様は草原を血で染め上げるようで。
「っ、……っ!?」
一際強く悲鳴があがった。
今まで辛うじて身を起こしていた巨狼が、巻き付く草花へ押し潰されるようにして身を崩したのだ。
「続けるんだ。錆が引いてる」
「はい!!」
徐々に、本当に微々たる変化であったが、全身が赤黒く染まっていた巨狼の身に僅かながら本来の銀色が目立つようになってきた。
咲いては枯れ、錆び付いて崩れ落ちる白百合へ、錆そのものが移っていっているように見える。
あれだけフェイネルを警戒していた二匹の狼が、倒れた巨狼の鼻先へ駆け寄ってか細く鳴いた。
たったその一事で両腕の痛みも足の痛みも許せた気がした。
奇跡は起きた。あるいは、現実的な手段の一つであろう刻印術で以って、確かに死の病であった錆化病は癒えている。
ただ、唱えて、それで全てを現象任せに出来るものではなかったのだろう、脂汗の滲む少女の疲弊は著しかった。
元々の白い肌は血の気が失せつつあり、咄嗟に駆け寄って身を支えなければ倒れてしまっていたかもしれない。
「すみませ、っ、ん……、はぁ……っ」
「一気にやらずとも、段階を踏む手もあるぞ」
「いえ、あの子は疲弊しています。弱った身で僅かでも病を残せば、そのまま死んでしまうかもしれませんっ。やらせて下さい!!」
任せる他無かった。
刻印術の使えないフェイネルは、この場で誰よりも無能で、無力だ。
「なら息を整えるんだ。そのままでは窒息しかねない」
「っ、はっ、ぁ、っっ、は……っ、い」
「返事はいい。ゆっくりやれ」
頷く少女の背中に手を当てて、呼吸に合わせてさすってやる。
手が落ちてきたので、隣で膝を付いてそれを支えた。
フェイネルの腕に傷があると気付いたリリィが何かを言おうとしたが、彼女の苦しみとは比べるべくも無い。
いっそ勲章だよと笑みを浮かべると、背中を軽く叩き、行為を続けた。
「やったな。これで国を救えるかもしれんぞ」
長い時間が必要だった。
生物の奥深くまで入り込んだ病を完全に取り除こうというのだ、瞬き一つとはいかないのだろう。
「俺はさ、いろんな所を見て回りたいと思ってるんだ」
不意に世間話のようなことを言い始めたフェイネルに、リリィは僅かに眉をあげる。
励ましは、頑張れ、と言葉を掛けることだけではない。
何気無い会話や、明日を語る、それだけで気持ちが楽になる場合もある。
「出来れば君の国を見せて欲しい。だから、錆化病が無くなってくれると大いに助かる」
枯れ落ちた花が巨狼を包むように折り重なり、ようやく鼻先の色が変わってきた。
こぽりと口から漏れ落ちるのは、血なのか錆なのか。
「刻印術ってのにも興味あるな。こんなのは見たことがない。いや、それっぽいのはあるけど、俺の銃と比べても随分と違うだろ? 分からない事、未知ってのはいつもちょっとだけ怖いが、それ以上に面白い。君もそう想う方だと思うけど、どうかな?」
笑みが返ってきた。
顔色は悪くなる一方でも、夢見るように目が細められる。
「いい、ですね。ご案内したい、です。とても、綺麗な、国なの、です」
「お姫様直々にエスコートして貰えるなら大歓迎だ。元通りになるのに、出来る限り手伝いたいとも思う。あいや、記憶が無いから色々と限界はあるんだけどさ」
「もう、嘘、ばっかり」
「ははっ。世の中には良い嘘と悪い嘘がある。俺のは大抵……う~ん、大抵は悪い方になることもなくはないけど、最後は良い嘘になることもあるから、まあそこそこ信じてくれれば丁度良いよ」
では良い嘘と悪い嘘について講釈でも、などと考えていた所へ、階段を駆け上がってくる足音を聞いた。
遺跡の地下では三匹と遭遇した。ここに居るのは二匹のみ。
ならばと警戒を向けたフェイネルだったが、飛び出した銀色の背に、人の子が乗っているのを見て眉をあげる。
「ユラハ様!!」
おそらくは、それが巨狼の名前なのだろう。
少女とそう変わらないように見える少年は、狼の背から飛び降りるとフェイネルを見て身体を強張らせ、次にリリィを見て首を傾げた。
立ち入り禁止の聖域に見知らぬ男、それを今日聖域へ入った筈の王女が引き連れている。
生まれる誤解について考えるのは後にしたかった。
「今、そのユラハ様ってのが教えてくれた刻印術を使って治療を試みてる。狼を遠ざけて見ていてくれないか」
掛かる質問を先読みして話し掛けると、少年は身を強張らせて視線を彷徨わせた。
どうすればいいのか分からないのだろう。
加えて、話によれば生贄という名分で聖域入りをしているのだろう少年は、ここまで来ること自体が許されていない筈だ。
けれど身元の不確かなフェイネルでは信用されなかったらしく、また経緯を見ていない彼を乗せてきた一匹が好戦的に喉を唸らせている。
『お止め、お前達』
不意に響いた声に一番大きな反応を見せたのは少年だった。
ユラハと呼ばれていた巨狼、それが口を利いたのだ。
「ユラハ様……申し訳ありません、奥へ行くのを止められず」
『いいんだよ。おかげで久方ぶりに言葉を思い出せた』
「ですが」
『今日まで助かったよ。後はそこで見ていなさい。お前達も』
口元からまた赤黒い液体をこぼしながら、巨狼ユラハは口を動かす。
もうかなりの部分が錆を抜かれているものの、斑の模様はいっそ不吉な印象を与えてくる。
『すまないね、お嬢さん。背負わせてしまった』
どういう。
問い掛けより早く、狼の前脚が崩れ落ちた。
息を飲むフェイネルと、静かに眉を寄せるリリィ。
次第に、状況は掴めて来た。
「遅かったのか」
『いや、十分早かった。あのまま狂って死ぬのは御免だったからね』
病は致命的なほどに巨狼を侵してしまっていたのだ。
仮に快癒したとしても、失った血も体力も取り戻すことは出来ない。
しかも、咲いた白百合は錆を引き受け、枯れているようにも見える。それによって身体中の錆が除去されているということは、錆によって辛うじて繋がっていた体組織が穴だらけとなって崩壊していくことに繋がる。浮いた錆に包まれていた無事な部分は元通りになっても、肉体を穴埋めしていく再生力を与えてはくれない。
どこかでフェイネルより早くその事に気付いたリリィは、それでも治療を止めず、ユラハの苦痛を取り除こうとしている。
例え自ら殺めることになろうとも、見殺しにだけはすまいと。
『あぁ、懐かしい匂いだ。見送ったあの日を思い出す』
「聞きたい。この刻印術で、錆化病は完全に治療出来るのか」
『……錆は移るだけで、残り続ける。この小さな一粒一粒が消えない限り、いずれは世界に降り積もるだろうね』
「この粒が感染源なのか」
『分からないね。すまない。ただ、霧を出入りしていたその子達が無事だから、もしかしたら違うのかも知れない」
なんとも曖昧だが、感染症に対する先進的な技術や知識を狼へ期待するというのも無茶という話。
けれど続く言葉は意味深でありつつも、確かな思索の轍を残していた。
『ただ……この世界は壊れ逝こうとしている。生き物が錆び付き、その錆を花が吸う。刻印術というもの事態、自然の流れとは異なる力だ。そんなものを成立させ続けるのに、世界は疲れてしまったのかも知れないね。僅かな歪みも、時を掛ければ崩壊へ繋がる要因たり得る。この錆は、そうして生じた歪みそのものにも思えるよ。これで少しは答えになるかい』
「あぁ、ありがとう。そして、すまない」
巨狼は鼻を鳴らした。
赤黒く染まる白百合に包まれながら、弱々しく息を吐きつつ。
『いいのさ。そろそろ、待ち続けるのにも飽きていた所だ。どれだけ待っても来る筈の無い、遠い日の、約束……』
崩れ落ちてきたリリィの身を受け止め、それでも腕を伸ばそうとするので、フェイネルは抱えるようにして支えた。
少女の祈りはまだ終わっていない。
絶望的であろうと、分かりきった終わりへ向けて全力を投げ打つ。
『あぁそうだね。最後にこんな優しさを貰っただけでも、待っていた甲斐がある。ありがとうね、お嬢さん、ありがとう』
「聖、アティアの、お導きは……」
『…………、いつだって求め続けられる者が、そう言われてきたのさ』
最後の吐息は、白百合の花弁を揺らし、宙へ舞わせた。