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 愛らしいリスが一匹と一人、男の前で膨れていた。

 男の名はフェイネル=オコーネル。

 長身故に痩せて見られる事もあるが、若い頃に格闘技を嗜んでおり、今でも時折汗を流しにトレーニングセンターへ通うこともある肉体は相応に鍛えられたものだ。ここ三年ほどで受けた訓練もあって、荒事への立ち回りには一定の慣れもある。

 また一般的に見ても整った顔立ちをしている。

 本人としては髭を伸ばしてダンディズムを演出したいと考えているものの、過去挑戦しては同僚に大笑いされた経験が数度あり、加えてあまり毛深くなれない顎元がいつも気になっているのだ。


「ははは、残念な俺の頭にそう怒らないでくれ。思い出したら話すからさ」


 などと平気で言い放つ様をもし同僚が見たなら、お前またやったのかと白い目を向けてきたことだろう。

 記憶にございません、それはとても便利な逃げ口上だ。

 経験全てを他者へ恥じる事無く打ち明けられるのは聖人だけ。

 困った事にソレは生きた人間が成れるものではないので、彼は都合の悪い全てに笑顔で蓋をする。


「地上へ案内するのは止めにします」

「おや、それは困ったな。なら君が出たくなるまで待たせて貰おう。その後を付いて行けばいいだろうからね」


 ますます膨らむほっぺに笑みを濃くして、あぁいっそ摘んでみたいとささやかな願望を抱く。

 とはいえ会ったばかりの、自分の半分も生きていないような少女を相手に、気軽に手を触れるのはよろしくない。


「一つ言っておきますけど、ここは誰でも入れる場所ではないのです。地上へ出るだけならまだしも、外へ行くなら私の協力は不可欠ですよ」

「そういえば、俺が取っておいた貴重な食料が無くなっているんだ。一体誰が食べてしまったんだろう? 困ったな、せめて力を貸してくれたなら問わないつもりなんだけど」

「っ、そ、それは、そのっ、リスさん達が食べてしまったので……」

「へぇ。とてもその子達に開けられるような梱包じゃなかった筈なのに、不思議だね」

「~~~~っっ、っ!! すみません、私が勝手に食べました」

「おっと」


 あっさり認められ、男も男で印象を上方修正させた。

 咄嗟に誤魔化すしたたかさは持っているものの、根は素直で正直なのだろう。

 こういうのは勢いがある。流れに乗せて嘘をつかせてしまったのは彼の方だ。


 あまり苛めるのは良くないな、そうは思いつつも、全てを話す訳にも行かないのもまた事実。


「しかし、一般人立ち入り禁止の場所だったのか。ここってそんなに特別な場所なの? まあ、遺跡なんて勝手に入って荒らされたら困るだろうけど」


 出入り口が見当たらなかった事からも、普段は封鎖されている可能性もある。

 ともあれ、とフェイネルは端末を操作してポットを閉じた。

 端末からしか操作を受け付けないようにしたので、もう勝手に開けられることはない。内側に誰か居たなら別であるが。


 自動的に閉じたポットを興味深そうに見詰めるリリィを置いて、瓦礫を登って振り返る。

 どこかに行かれるとでも思ったのだろう、彼女は少し慌てて駆け上ってくる。

 動きが軽い。

 お嬢様のようで、それだけではない。

 遺跡へ乗り込み探索をしているような子なので、やはり少々お転婆なのだろう。


「ここは聖域と呼ばれています。神殿勢力も、十二歳以下の子どもでなければ入ることが許されず、この遺跡まで来る者は更に稀です」

「ほう」


 追いついたのを確認して瓦礫を降りる。

 続く少女の足取りを確認しつつ、また少し降りた。


「貴方はどうしてここに居るんでしょうねええ」

「あー、頭が痛いー。何も思い出せないー」


 白々しく言うと、流石に諦めたのかリリィが大きなため息を付く。


「悪いな」

「いいですよぅ。話したくなったら教えて下さい」

「あぁ、そうするよ」


 降り切った所で彼女に先を譲ると、暗い通路へ平然と入っていった。

 足元にはリスの群れ。

 どうにもこの少女、余程動物に好かれる性質らしい。

 彼女は慣れているのか、払い除けもせず、足元をうろつく小動物を器用に避けて進んでいく。


 フェイネルは端末を操作して照明を付けた。


 がばりと振り返った少女がこちらの手元へ手を伸ばしたから、ではないのだが、彼は端末を伏せて光を足元へ向けた。


「直接光源を見るんじゃありません。目が悪くなるぞ」

「あぁ……太陽を見るようなものですね。いえ、いきなり明るくなったので驚いたんです」


 驚いた結果が即調査、なのがある意味凄い所だとフェイネルは苦笑いする。

 ちょっと驚かせてみよう、程度の悪戯心だったのだが、彼女の場合は持ち前の好奇心が強過ぎるのか油断していると何もかも暴かれそうになる。


 好ましい厄介さだった。


 挑戦、困難、障害は面白い。

 好感を抱ける者が相手であれば、それは一つの奇跡とさえ言って良い。


「さっき十二歳以下でないと入れないって話だったけど、君もその一人なの?」

「……………………私十四です」

「おや」


 これは失礼、とフェイネルは苦笑い。


「じゃあ君は特別な許可を受けてここに居るんだね。一体、どうやってそんな許可を貰ったのかな」

「私は…………事情がありましたので」

「なるほど。一般人には話せない内容なのかな?」

「いえ、そういう訳では」


 と、先を歩いていた少女が歩みを緩めたので、男も一歩を踏み留まる。

 そして階段を上がり、外の明かりが見え始めた所で、再び彼女が口を開いた。


「フェイネル様は、この地で何を為さろうとしているのですか」

「様はいいよ。フェイでいい。そうだな、とりあえずいろんなものを見て回りたい。この遺跡も興味あるけど、どちらかというと人の多い場所がいい」

「では、フェイ。貴方の目的は観光、でしょうか」

「そう言われると道楽っぽいけどね。一応、人の命が懸かっていると俺は思ってるよ」

「失礼しました」

「いや、まあ、すぐにどうこうって話じゃないから、気侭な観光希望なのは変わらないよ」


 壁を打つ声の響きが変わっていく。

 狭い通路から、開けた屋内へ、そして、外へと達した。


「ほう……っ」


 外の景色ならば崩落箇所から見えていたものの、自分の脚で踏むとまた違ってくる。

 達成感と呼ぶにはあまりにも小さな冒険だ。

 それでも、広がる景色と共に感嘆が漏れた。


 ここまでの壁面同様、やや黄色を帯びた岩石を切り分け、糊代わりにモルタルを塗りつつ積み重ねていった巨大構造物。

 自然の浸食を受けているのは、少女から聞いた話とも符合する。

 機械制御で維持管理をしているのならともかく、こんな開けた野晒し状態で文明が元の形を維持出来る筈もない。

 打ち捨てられ、朽ちていく様には物悲しさというよりはロマンを感じた。


 フェイネルは少し出た所で振り返り、高く積み上げられた構造物の屋上へ続くと見られる大階段に満足げな吐息を漏らす。

 とかく男というのはデカいものが好きだ。

 多少誤差は生じるものの、力の行き着く先はデカさと重さだと思っている節がある。


「この先に聖域の祭壇があります。見て行きますか」

「いいのか?」

「もう入ってしまっているのですから、構わないと思いますよ」


 彼女にその権限があるかはさておき、見て良いと言われただけで心は軽くなる。

 何十、いや、百はありそうな階段を見上げ、並んだリリィの様子を伺いつつ登って行った。


    ※   ※   ※


 「私は、ここへ禊ぎを行いに来たのです」


 森の背を越え、木々を見下ろすようになった頃、リリィは呟くように言った。

 風に煽られ、その内にある感情は全てが届かない。

 同じような歩調で階段をあがるのでは、表情すらフェイネルには伺えなかった。


「この国に奇病が蔓延している事をフェイはご存知ですか」

「……伝染病が? どういった」

「詳しくは分かっていません。私も大流行した地に居たのですが、幸いにも……病を貰うことはありませんでした。フェイが諸国を見て回りたいと思うのなら、この国からは早めに出た方が良いでしょう。何年か、十年か、二十年か、もっとか。風の噂でも奇病が収まったと聞いた時に、改めて来て頂ければと思います」


 症状について詳しく聞いてみたい気持ちもあったが、彼女の語る口調は淡々としているようで響きが重く、迂闊に問い詰めるのは憚られた。


 奇病の流行した地に居た。


 この一言だけで、どれだけ悲惨な光景を、この幼い少女が見てきたのかが分かるというもの。


「禊ぎというのは、伝染病が止むのを……願掛けに来たってことかな?」


 気を回した言い方に、むしろ少女が首を振って苦笑した。


「祈ったところで神は救いをお与え下さりませんよ。祈りは安らぎを得る為のもの。自らを正し、真っ直ぐ前を向く為にあるのです」


 未だ文明の詳細について見えてこない状況であるものの、彼女の様子を見るに一般的な思考でないのは明らかだった。

 当人も口走ったことに気付いてこちらを見上げたが、フェイネルが先を促すように首を傾げると分かり易く安堵した。


 神殿勢力、と呼ばれていた集団が居ることからも、ここが聖域と呼ばれ、彼らに管理されていることからも、社会的に大きな力を持っているのは明らかだ。


 神への不信など批難の対象だろう。


「安心してくれ、俺も神へ祈るのは世界平和だけと決めてるんだ。あっちこっちで祈られて、勝手に結果を決められちゃ堪らない。とりあえず平和なら、後はこっちで好きにやるからってさ」

「っ、んんっ。そうですか。失礼しました」


 何への謝罪かは置いておくとして、続く言葉は、やはり彼女を時代相応、あるいは歳相応の少女と見るには不釣合いなものだった。


「祈るだけでは駄目だから、私はここへ来ました。祈って病が治らずとも、祈ることで得られるものはあるんです。心の満足などというものではなく、もっと現実的で、確かなものが。自身の立場と、これからと……そういったものを秤にかけて、これが一番マシなのだと、私は信じています」


「そうか……、教えてくれてありがとう」


「いえ。国民ならば誰もが遠からず知ることです。先程は、咄嗟に答えられるほど私の覚悟が足りなかった証拠でしょう」

「いや」


 安易に聞いた自分が悪かったのだとフェイネルは思う。

 この、リリィと呼んでいる少女は、相当な覚悟を抱いてここに居る。


 風に散らされて尚も感じる深い決意が、彼の元にまで届いていた。


「なんとなく、君が動物に慕われる理由が分かってきたよ」


 心地良い風が来た。

 嘘を重ねているのが申し訳なくなるほどに、彼女の真っ直ぐな想いが胸の内を掃いてくれる。


「あぁ……昔から、何故か集まってきちゃいまして……。危ない場面もあるので、常に気を付けてないといけないのですが」

「さっきから一匹も踏まずに器用なもんだと思ってた」

「ふふ。この子達も私の歩調を読んで合わせてくれてるんですよ」


 それだって大したものだと思う。

 フェイネルならば一匹だけでも蹴飛ばしそうになる。

 彼女の場合は、その上で整った歩みを続けていることが更に凄い。


 一応気になってはいたのだが、腰元の短剣も伊達ではない、ということだろうか。


「とはいえ、です。もっと即物的な理由もあります」

「遺跡に興味があった」


 中々に自信のあった回答も、彼女はあっさりと笑顔で流した。

 頂上へ目を向け、ようやく辿り着きつつある場所へと心を向ける。


「それは本当についでです。いえ、とても興味深いとは思いますし、出来れば日がな一日歴史探求を続けたいと常々思ってはいるのですが……おほん。そうではなく、禊ぎを行うここの祭壇には、刻印術の――――」


 言葉が止まった。

 躊躇った足取りが辛うじてリスを避けたものの、目を見開く彼女が尋常ならざる驚きの中に居るのが読み取れた。


 傍らにばかり意識を向けていたフェイネルは、その視線が向かう先へと改めて目を向ける。


「っ、なんだ!?」


 遺跡の頂上まであと少し。

 そこまで至って、初めて気付けた。


 上り切った階段口から漂い出る赤黒い霧のようなもの。


 僅かに吹いた風へ乗せられて、それが頭上へ覆い被さって来た。


 少女の口元から震える声が漏れる。


「錆化病。でも、どうして……っ」


 答えはすぐに来た。


 あの、遺跡の地下で聞いた、森の奥から聞こえてきたガラスを無理矢理押し潰すような咆哮、それが遺跡の頂上から放たれたのだ。

 ささくれ立った、どころじゃない。音に触れるだけで切り刻まれそうな、怖気を催す悲鳴にも似た鳴き声。


「っ!!」

「おい!? 待てっ、危険だ!!」


 駆け上がっていくリリィを追う。

 動物達は今の鳴き声を聞いて即座に逃げ出している。


 錆化病、そう彼女は言っていた。


 聞きそびれていた奇病の名がそうなのだろう。


 錆。


 確かにそうだ。

 あの赤黒い霧は、錆びた金属を思わせる。

 加えて近寄るほどに漂ってくる匂いも鉄錆そのもの。

 けれどこんな石ばかりの遺跡に、ここまでの錆を撒き散らすものがあるのだろうか。


「待てって!! 明らかに何か拙いのが居る!! 迂闊に顔を出すんじゃない!!」


「離して下さい!! こんなの、違いますっ、そんな筈ないんです!!」

「うお!?」


 捕まえて、抑えようとしたフェイネルの身体が浮いた。

 信じ難いことに、十四にも見えないような少女が成人した彼の肉体を引き摺って前進したのだ。


 妙に達観した思想を持っていたり、単独で遺跡を探索して回るような所や、異様に動物から好かれているのもあったが、ある意味でこれが一番驚かされた。


 小さな身体に、途轍もない怪力。

 長い階段を会話しながら平然と登っていける体力だけではない。


 自分が言えた口ではないが、改めて何者なんだと疑問を抱く。


 そうしてなんとか落ち着かせつつ一緒に階段を登り切り、広がり続ける鉄錆の正体を見た。


    ※   ※   ※


 深い森を更に上空から見下ろすような遺跡の屋上で、フェイネルは()()と出会った。

 周囲に漂う赤黒い霧、鉄錆の匂いを放つその中に、大きな影がある。


「こいつぁ………………っ」


 続く言葉がすぐには出てこなかった。


 正体。


 それは見上げるほどに巨大な狼だった。

 おそらくだが、元の毛皮は銀色。それが一見して分からないほどに全身が錆び付き、剥落し、肉も骨もどす黒い赤に染め上げられている。

 目も片方は錆落ち、残る片方も血走って真っ赤に染まっていた。強張らせた口元から垂れているのは、血なのか錆なのかも判別出来ない。身体を僅かに揺らすだけでギシギシと無数の細かい金属が擦れ合うような不快音を発し、落ちた破片は粉となって周囲へ漂い始める。


「生物が、っ、錆びてるのか……!?」


 咄嗟に口元を抑えた。

 この霧は、舞い飛ぶ錆は、全てこの狼の破片だ。

 病と聞いた。錆化病がどんなものであれ、流行り病であれば霧は感染源そのものである可能性が高い。

 既に吸い込んでしまっているが、やらないよりはマシだろう。


「逃げるぞ」


 改めて、フェイネルはリリィへ言った。

 彼女にどんな想いがあるにせよ、ここに居るのは二つの意味で自殺行為だ。


 病と狼、どちらも命を刈り取るに余りある。

 病床にあるのであれば、二人は飢えを満たす恰好の餌とも言える。


 なのに彼女はじっとその姿を見詰めていて、口元で僅かに霧を散らしてから、そっと眉を落とした。


「いえ」


 やんわりと手を解かれ、困ったように笑う。

 何を考えたのか、何を考えているのか、少女は更に巨狼へ一歩を踏み出し、胸に手を当てて呼吸を整えた。


 止めてくれと言いたかった。


 未だ具体的な所は不明なままだったが、リリィには成し遂げたい想いがある。

 ならば安易に危険へ身を晒すべきではない。

 ささやかながら彼女に共感したからこそ余計にそう思う。

 最悪、脅しつけてでも引き戻そう。


 思って踏み込もうとした所へ、リリィはとても穏やかな表情で振り返った。


「フェイ。どうか貴方は逃げて下さい」

「囮にでもなる気か。子どもを見捨てて逃げるつもりはない」


 腰元の銃を抜き、巨狼へ向ける。

 そうだ。

 狼自体は脅威ではない。

 そう広さも無いこの屋上で、しかも病に侵された獣一匹、倒すのは難しくなかった。

 問題はこの霧だ。

 有機物が錆びるなんて現象を彼も見たことが無い。

 銃を最大火力で放ったとして、拡散した霧すべてを焼却するのはカートリッジが持たないだろう。

 だから一度下がろうと言っている。

 幸いにもかなりの高度がある。

 近寄らなければ、地上へ戻ればそこまで問題にはならない筈だ。

 鉄錆の霧にどれだけ感染力があるかは不明で、最悪禊ぎとやらを諦めて貰う必要もあるかもしれないが、死んでしまっては意味が無い。


「お忘れですか、フェイ。私は感染しなかったのです」

「抗体があるって言いたいのか。確かにその可能性はあるが、精密検査を受けたのでもないなら絶対じゃない。単に人より感染し辛いか、偶然そうならなかったというだけって線もある」

「そうですか」


 なのに彼女はあっさりと受け入れて、尚も留まろうとする。


「フェイ。貴方は本当に、この地の人間ではないのですね」

「今はそんな話をしている場合じゃ」

「いいえ。この地の者であれば、このお姿を見て、ただ逃げるなどとは言えない筈です。四つある月の内、最も美しく輝く聖アティア――――彼女が地上を見て回る時、巨大な狼の姿になると言われています」

「土着の信仰か。そもそも君は無神論者じゃなかったのか」


 巨狼を背後に、小さく首を傾げる。

 まるで危機感を失ったその様に焦りと共に苛立ちすら覚えた。


「無神……いえ、あの方だけは特別なのです。彼女はこの地が打ち捨てられたとされる四百年より昔から、ずっとここに住み着いている聖域の主。十二歳までの子どものみ聖域へ入れるという話をしましたね。あの子達は生贄です。実際に喰われたかという記録はありませんが、そういう言い訳の元で聖域へ踏み入り、ここの遥か手前で訪問者を歓迎する役を負っています。そして、フェイ、あの方こそ、私が本当の意味で禊ぎを授かる相手だったのですよ」


 咆哮が来る。


 重ね合わせたガラスを捻じ切るような響きを伴い、濃密な鉄錆の霧が押し寄せてきた。

 咄嗟に庇い、彼女を抱えるようにして狼から背を向けた。


 そうして改めて向き合ったリリィが困ったような顔をしているのを見て、ようやく気付く。


「君が生贄になりにきた、という話じゃないんだな」

「はい。あの方から、錆化病へ抗する刻印術を授かれないかと、そう思っていたのですが」

「狼にそんなことが?」

「可能、と言われています。以前ここへ入った者がこっそり残した記録によれば、会話も可能だったとか」


 その記録を見て彼女は聖域へ挑むことを決めたのだろう。


 では、とまた疑問が浮かんでくる。

 希望が断たれたのであれば、どうして彼女はこんなにも落ち着いている。


 最初はとても取り乱していた。

 信仰心が薄いとはいえ、神か何かの化身が奇病に侵されていたのを見たのだから当然だ。


 何かある。


 まだ。


 彼女を立たせている意思が、この場に繋がっている。


「叡智を与えてくれる狼は正気を失ってる。ここにもう君の望むものは無い筈だ」


「はい。ですが同時に試してみようと思ったのです」


 言って、ようやくといった様子で彼女は苦笑した。

 自分のやろうとしていることが馬鹿げていると思ったのだろう。


「叡智は得られない。ですが、ほら、祭壇は残っています」


 彼女の示した先には、濃い霧に包まれてよく見えなかったが、確かに建造物らしい影が見えた。

 それは本来、見せ掛けのものなのだろう。

 この聖域へ訪れる者の本命は、喋る狼から授かる知識や知恵だ。


 神へ祈っても何も起こらない。

 そう言えるのは、心の底から祈り続けたことがある者だけ。

 奇病が蔓延する場所で、次々とあんなおぞましい姿に変貌していく人間を見てきて、この少女は神へ絶望したのかもしれない。


 なのに今、そこを目指そうとしている。


 希望が断たれ、信仰の対象である巨狼もまた病に侵されているという現実を目の当たりにし、それでもと求めた。


 不合理だ。

 判断を誤っている。

 意味の無い、自己満足の自殺志願者と変わりが無い。

 神との別離などとうの昔に果たしてきたフェイネルにとって、ましてやこの世界で、それがどれほど無価値な思想かを知っている。


 だが、切り捨てられない。


 この少女が、己が命運を懸けて挑もうとしている事実。

 それこそが人間の証明ではないだろうか。


 人の命が懸かっているとフェイネルは言った。

 諸国を見て回り、その中で、何を得ようとしているのか、はっきりとしたものを彼もまだ持っていない。

 ただ彼女の決意を前に、それが例え失敗に終わるのだとしても、見届けるべきだと思えた事で。

 求める答えには程遠い、けれど、そこへ至る為に必要なものが確かに宿った。


 胸の内に熱がある。


 少女と話している内に、知らず育っていたものなのか。


「錆化病の蔓延が続けばこの国は滅びます。ならば最後に、この、とても月に近い場所で、もう一度祈ってみたいのです。青の帳に隠れているとはいえ、聖アティアは今も私達の頭上に輝いています。祈りが届けば救われる。届かなかったとしても」


 もう何一つ神への期待を持たずに生きていける。


「フェイ。貴方がこの国の人間ではない、それだけでなく、この近辺の国々すら知らないことが分かる理由がもう一つあるのです」


 庇おうとするフェイネルからまた一歩離れて、あの綺麗な礼をして見せる。


「私はリリアーナ=フォン=サーフィラス。この国、サーフィラス王国の次期女王となる者です。ご存知無かったでしょう?」


 ちょっとだけ得意気に笑い、けれどすぐ穏やかな表情に戻る。

 このまま錆化病が続けば滅ぶと言っていた事、それを背負う王になろうとしている事、求めていた叡智を失い、今また神へ縋ろうとしている事。


 小さな身体にはあまりにも重過ぎるものを背負った少女は、それでも誇らしげに笑う。


 だから。


「この禊ぎの果てで、私は王国の無能を証明し、大法国セヴィアの庇護を受けるべく頭を垂れ、おそらくは一生涯を取るに足らない政治の道具として軟禁され続けるでしょう。叡智は最後の望みではありましたが、正直言ってあまり期待もしていませんでしたから、最初で最後の遊興と思って……ちょっとはしゃぎ過ぎてしまいましたね」


 だから。


「ありがとう、フェイ。貴方が何者なのかは分かりませんが、最後にこんなにも心躍る時間を過ごせた事、心から感謝致します。ですから、どうかお逃げ下さい。最悪私が死んだとしても、代わりの王が擁立されるでしょうから。なら、出来る限りのことはしたいと思うのです」


 だから。


 そう。


 だから、だ。


「その賭け、乗らせて貰おう」


 言った。

 成功するとは思っていない。

 神など居ない。

 けれど、それを信じて前を向くこと、その為に信仰はあるのだと彼女自身が言っていた。

 ならば何一つ間違っていない。


 右手に銃を、左手に姫君を。


 かつて少年であった男として、こんなにも心躍る展開があるだろうか。

「そうさ、こんな景色を見たくて俺はやってきた。この世界は、続けていく価値があるんだって。君達は人間だ。その事実を心の底から誇らしいと思う」

「フェイ、でも」

「いいのさ。やらせてくれ。君ほどじゃないけど、俺ももう背を向ける気にならないんだ。だってさ」


 心は切り替わった。

 故に景色は変わる。


「こいつが苦しんでる」


 目の前に立つのはおぞましい化け物狼なんかじゃない。


 だってそうだろう。

 ここまでの会話の中、彼女は襲いかかってなんか来なかった。

 全身が錆に侵され、満足に動けないというのもあるだろう。けれど、威嚇はすれど襲ってこないというのは何故だ。正気を失っているように見えた、たった一つ残された瞳が、何故かしっかりと二人を捉えているのは。

 苦しみ、喘ぎ、自らを奮い立たせて踏み止まっているその理由はなんだ。


 言葉すら解するという太古の獣、もしかすると彼女は、とても誇り高く、優しい性格なのではないか。


 肺腑や骨、肉という肉が錆び付くというのはどんな感触だろうか。

 崩れ落ちる肉体に恐怖はあって当然だ。

 絶え間無く流れ落ちる鉄錆は、刻一刻とこの巨狼の命と正気を削っている。


 ならばこの様相、最早嫌悪すらなく、憐れみすら感じてくるものではないだろうか。


 錆化病の治療を祈るとリリィは言った。

 彼女は最初からこの巨狼を助ける為に行動している。

 足を引っ張っていたのはフェイネルの方だ。


「っはは!!」


 さあ笑え。

 幼い頃、彼に語りかけた祖父のように。


「遠く険しい道を行くのなら、見える景色を楽しもう。そこにはきっと、歩み始めた時の理由があるもんだ」


 雄叫びが降りかかる。

 どす黒い赤錆の霧を噴出させながら、巨狼が己を軋ませ警告してくる。


 離れろ。

 離れろ、遠くへ。


 痩せ細った身体で、確かにフェイネル達を見詰めながら咆哮する。


「行こう、リリィ」

「っ、はい!! お願いしますっ、フェイ!!」


 その響きはもう、泣きじゃくる声にしか聞こえなかった。





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