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野原に白百合のような少女が咲いていた。
風が吹けば揺らめき、進む足取りは不確か、白く染まっているというよりは無垢と言えそうな顔付きにはどこか緊張が滲み出る。
新雪よりも尚澄んで鮮やかに、深みのある白髪を携え歩く足取りは、灯かりも無しに暗闇を行く様でもあった。
いっそ本当に白百合そのものであれば、地に根を張っていられたのにと思えなくも無い。
彼女が歩む草原は少しだけ丘のようになっており、ふらふらと進んだ先で頂点を越え、一気に視界が開ける。
けれど少女の視線は足元へ向けられた。
遠くの景色より先に、丘を越えた場所で倒れている少年を発見したからだ。
傍らに膝を付き、手を伸ばそうとすると、少年もまた少女を認め、こちらを見てきた。
『姫、様……リリィ、さ、ま』
『っ……』
『助け……て』
少年の顔は半分が赤黒く染まっていて、助けを求める口元から同じ色の霧が漂い出る。
崩れた頬が、眼球が、鉄錆の匂いを漂わせる。その内にある骨もまた赤黒く変色をし始めており、言葉のまま伸ばしてきた手が少女の腕を掴んだ途端、絹のように美しかった白い肌が瞬く間に赤黒く染まっていった。
侵される端から崩れ落ち、肘へ、二の腕へ、肩へ、首元へ、そして、彼女の頬もまた少年と同じ鉄錆の匂いを纏わせて。
開けた景色の向こう側で、漂う赤黒い霧の中、身動きも取れなくなった無数の人々が、呻きながら微かに声をあげていた。
『助けて。姫様。助けて』
美しかった水の都は今や、鉄錆の霧に覆われていた。
※ ※ ※
声を掛けられたことで少女は心を、今居るバルコニーへ戻した。
空は既に暗く、白亜の館には僅かばかりの篝火が掛けられているばかりで、頼りになるのは四つある月の一つ聖アティアのみ。
真円を描き、仄かに青を帯びた月からの明かりは、この世で最も美しく神聖なものとして語られる。
少女はその月へ祈る為、バルコニーへ出ていたことを思い出した。
いけない、そうは思いつつも、ふと気が付くとあの事を思い出さずにはいられなかった。
彼女の故郷を襲った奇病で都は壊滅状態となり、救援が駆けつけるまでは本当に大変だったのだ。
白百合のような、と。
無垢で美しい様を称えてリリィと呼ばれていた少女は、己の腕を抱いて夜風から身を守った。
腕はある。
少年は彼女の腕を掴んだが、奇病を貰うことはなかった。
なのにあんな妄想を思い浮かべてしまうのは、続く日々が凄惨に過ぎた結果だろうか。
救援の者達と共に都の各所で倒れ伏す民を助け出し、治療を行い、あるいはその身を焼いて埋葬した。
赤黒い霧の中、必死に生きてくれと願った少年もまた、少女の手で焼かれ、故郷の地に眠っている。
助けられなかった。
未だ小さな手で、土を掛けた数だけ後悔と自責を積もらせて、自分が無事に生き延びていることにさえ後ろめたさがあった。
年の頃は十二を過ぎた辺りだろうか。
身分ある者ならば婚約者候補の一人も居て当然といった年齢ではあるものの、まだまだ幼さのある少女の顔立ちを残している。ただ、やはり越えてきた日々故か、表情には似合わぬ程の苦悩と決意が滲み出ていた。
「リリアーナ様」
再度の呼び掛けに、ようやく彼女も振り向いた。
呼ばれていたのだ。
ややもすると失礼に当たる振る舞いに、相手は鋼鉄で出来たような表情のまま佇んでいた。
少女からすると祖母とも言えるような歳の離れた女が、主人の正対に改めて恭しく礼をする。
完璧とも言える所作であったが、完璧過ぎる故に温度は無い。
「お身体が冷えます。明日の事もありますので、どうかお早くお休み下さいませ」
「……そうですね。ありがとう、ございます」
肩に掛かった青の長衣も彼女が用意してくれたものだ。
聖アティアと同じ仄かな青は、この土地で邪を寄せ付けぬ清らかなものと言われている。
奇病が流行ってからは特に貴重となった色だ。
力と財ある者が、染めに使われていた花を掻き集めて全て枯らしてしまったから。
挙句下賤とされてきた濃青色の鉱石まで異様な値段で売買され、彼らは自身の住まう館に塗りたくっているのだとか。
これが冬越しを終えた季節で良かったと少女は思う。
奇病によって死んだ者は焼いて浄化しなければならない。
けれど凄まじい数の死者に薪を用意するべく、近隣の森が枯れたとまで言われる状態なのだ。
こんな状態で冬を迎えてしまえば、暖炉へくべる薪が無くなってしまう。それでなくとも高騰する薪を購入する金を持たない者は、遠く見張りの居ない森の中へと分け入り、日々の大半を費やして薪運びをしなければならなかっただろう。
何もかもが崩れ、乱れた世の中で、こうして青の長衣を纏えるだけでもありがたい。
少女が侍従長に従ってバルコニーから室内へ戻ろうとした時だった。
最初それは、無数の獣が押し寄せる音に思えた。
けれど違った。
音は大地からではなく、天からやってきたのだ。
駆け出し、バルコニーの柵に身を乗り出しながら背後を仰ぐ。
逗留する館の背後が日の出を浴びたように強い光を受けている。
太陽は、数刻前に沈んだばかりだ。
しかも沈んだ側から浮かび上がるようにしてこの光はやってきている。
聖アティアが他の三つの月と共に巡るのと同じく、太陽もまた西へ沈めば東から昇ってくる。
ありえないことが起きている、そんな思考を少女は一息で無視した。
そして大地を打ち付けるような轟音が頭上へ達し、正体を見る。
火の玉だ。
あるいは天上より放たれた業火の矢か。
距離は遠く、けれど時折夜空を流れる星よりはずっと近い。
少女は、リリィは夢中でソレを観察していた。
燃え盛る炎が駆けているようにも見えるが、やはり何か核となるモノが燃えている。
ならばアレは火の玉でも、業火の矢でもない。何故燃えているのかは分からなかったが、火を掛けられた何かが遥か上空を飛び、それがこの夜を焼く光となっている。いや、と考えた。館に掛けられた篝火もここまで強烈な光は放たない。ならば、あの炎は凄まじいものであるか、炎以外の何かが光を放っているのではないか。思った時、赤く燃える炎の端に、確かに青白く火花を散らしているのを見て取った。夜闇の中で強烈な光を放つものの直近とはいえ、少なくとも彼女は見たと思った。
光は西から出でて、東へと沈んでいった。
神話に語られるような、地上へ落下すると同時に世界を焼いた裁きの矢とは違う。
ぼんやりとそれを見送っていた少女だが、続く上空からの猛烈な風には驚いた。
咄嗟に掴んでいた柵へ身を寄せて事無きを得るが、何処かで硝子の割れた音がする。
続く悲鳴を聞いて、少しだけ名残惜しげに空を見回していたが、もう何も起きないと察したリリィはバルコニーから身を乗り出して下を確認した。
三日ほど前から汚らわしい視線で少女を嘗め回してきた肥満の神官が倒れていたので、彼女はするりと記憶から追い出して振り返った。
そして、極めて珍しいことながら、鉄面皮と語られる侍従長が冷や汗を流して未だ空を睨み付けていたことに気付いて首を傾げる。
「どうかしたのですか?」
問えば、ようやくこちらを認識したようで、まだ動揺を隠しきれていない様子の彼女は震える声で応じてきた。
「ご覧にならなかったのですか」
「先程の天を焼く光ですねっ。凄かったですね、あんなものが見れるだなんて、これも聖アティアのご加護でしょうか」
ややも興奮して語ると、侍従長は目を剥いて少女を見た。
とはいえ彼女もまた奇病に苦しむ都を見てきた人間だ。珍しくも主人の前で吐息を落とし、その失態一つで己を取り戻した。
「私は生まれて五十年、あのような景色を見たことがありませんでした。本当に、聖アティアのご加護であると?」
「ではとても素晴らしい機会に恵まれましたね。私は先程、聖アティアへ祈りを捧げていました。明日参じることとなる聖域は、彼女の守護する地とも言われていますよね。ですから、もしよろしければお姿を現して下さいませんかと願っていたのですが、まさかあのようなことが起こるとは」
侍従長は表情こそ崩さなかったが、即座の返答はなく、今度は一度瞼を落として切り替えたようだった。
「本当に、聖アティアのご加護を得られたのであればこの上ない導きです。都で眠る者達にも安息が与えられたと、そう思ってもよろしいのでしょうか」
「彼らは浄化の炎によって病から解放されています。安息はその時に与えられていますよ。導きは、先を生きる者達の為にあります」
さて、と少女は青の長衣に手をやって今度こそ室内へ戻っていった。
厳しい表情でその背を見詰める侍従長には気付かず、未だ茫然自失とする者達へと声を掛けていく。
「さあ皆準備を。今の出来事に関して、神殿から何か打診があるかもしれません。お茶の用意を。それまで皆で、今の事を語り合いませんか?」
けれど聖域を管理する神殿側からは何の話も無いまま夜が開けた。
欠伸をかみ殺し、聖アティアが青の帳へ隠れてしまったのを確認して、少女は目覚めの紅茶を所望した。
※ ※ ※
聖域には許可された人物以外の訪問が許されていない。
それはリリィの身の回りを世話する侍従らが彼女の元を離れることを意味しており、同じく入り口の管理を任されているだけの神殿勢力もまた、内部の状態を知りえない、とされている。
また聖域内での出来事は口外無用とされている為、なんとなれば彼女は先へ進んだフリだけして適当な所で戻ることも可能だ。
実際、過去にそういったことを考えた者も多かったようで、少し進んだ先に小奇麗な小屋と花畑が広がっていた。
神殿でも特に許された、十二歳以下の少年少女らはここの維持管理に聖域へ入る事が出来る。
青の衣に身を包んだ彼ら彼女らから歓迎の言葉を受け取ったものの、少女は小屋での休息を断って先へ進むこととした。
ブーツが石畳を鳴らすのさえ楽しむように、風に吹かれて歩いていく。
聖域は深い森だが、太古に築かれた街道がある。
それもしばらく行けば、割れや自然からの侵食が目立つようになり、ふと見た先で突き出た木の根がすっかり道を塞いでしまっていた。
「いよっとっ」
自身の胸元まであるソレへ軽々と飛び乗り、いっそ心地良さげに土の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
昨日までのかったるいドレスも今は無く、膝が出るショートパンツに簡素な白のブラウス。胸元には愛らしい青染めのリボンが揺れていて、かと思えば腰を巻く革のベルトには手指の擦れ跡が付くほどに使い込まれた短剣を帯びている。
自由。
自由だ。
都で奇病を相手に戦った日々を除けば、彼女が監視も無しに外を出歩くことは滅多に無い。
加えて昨日の珍しい現象と、
「ああっ、遺跡だあ……!!」
特別な許可を受けた者でなければ見ることも叶わない、太古の建造物にリリィは歓声をあげた。
本日の目的地であるソレを発見したと同時、放たれた矢のように飛び出して大地を駆ける。
のんびりと木の枝で身体を休めていたリスが耳を揺らし、寝惚け眼のふくろうが首を回した。
すぐ後ろを少女の足が通り抜けても、石畳の割れ目にすっぽり身を収めて休んでいた青羽の小鳥、カワセミは気にも留めなかった。
「ふん、ふふ~んっ、ふっふん、ふふ~ん」
口元から漏れる珍妙な鼻唄に、どこかから囀りが返って来る。
調子に乗って走りながら一回転。
飛んで来たモモンガが伸ばした手の甲に留まったので、その部分を一切動かさぬよう手の位置を中心に大きく回り込み、後ろ向きになった所で近くの小枝へほいっと投げる。綺麗に跳んだその子はぺたりと身を伏せ、しっぽを揺らした。
人の目が無いとはいえ、この気侭な振る舞い。
もしここに侍従長が居たならば、あの鋭い眉をツンと立てて叱り付けたことだろう。
だが自由だ。
最早止める者が誰も居ない環境で、それを謳歌せんとする彼女は風となって駆け抜けていく。
そうして辿り着いた、見上げるほどの巨大遺跡。
黄色を帯びた石を切り出し、無数に積み上げられた建築物は、ここまでの街道と同じく自然に侵食されていた。日陰には苔が生え、日向にも蔦が絡まり、倒れた朽木に押し潰されている場所まである。
遠く遥か過去に打ち捨てられ、人が訪れることを止めた場所、それがこの遺跡だった。
入り口付近を整備していた少年少女らも、ここまで入る許可は与えられていない。
結果として朽ちるままに放置され、深い森の中で静かに崩壊の時を待っている。
そんな場所へ例外的に参じることを許された少女は一目散に遺跡へ駆けつけ、誰もが目を奪われるだろう大階段の手前で綺麗に進路を曲げ、なんてことのない折れて倒れた石柱へ跳び付いた。
「わあっ、古ブランディール語だあっ、こっちのは東スメール語だけどちょっと綴りが独特かな? もう一つのは……なんだろうっ、わかんない!!」
嘗め回すように顔を寄せ、変わりに小さなお尻が突き出るのだが、生憎とここに侍従長は居ない。
「すんすん。うぅんいい匂いですっ。では失礼して裏側を拝見」
円柱状とはいえ、石の柱を軽々と転がし、手が汚れるのも構わず土を払い落として古代言語に齧り付く。
昨夜の光に対する反応といい、遺跡に対するこの振る舞いといい、やや他とズレた所のある少女は今や夢中だった。
堪能な知識を口ずさみながら目的地である大階段の先へは目も向けず、するすると見つけた通路へ飲み込まれていく。
ああいうのは大多数向けの派手さを優先しているので、歴史的価値は認めても通好みではない。そう、古代人の感性だとか、生活様式だとか、朝起きて何を考え、何を食べてどんな事で遊んだか、そういう空気感を感じたいのだ。大きな建築物の目立つ場所などは現在の権力者が思う所と大差は無い。出来ればそれを作った人達のラクガキだとか、何気無い手癖のような痕跡を味わいたい。などと、齢十四にして大衆批判をする老人みたいなことを考える少女は今や、松明も無しに真っ暗な階段を降り始めていた。
だって怪しげな突起物を押したら開いたのだ。
好奇心、もとい、未熟な信徒たる我が身を更なる高みへ至らしめんと欲するなら、古代遺跡というわくわく単語の中で発見した不思議空間へ突撃しない訳にはいかないだろう。
内部の黴臭さに口元を緩ませながら、青の瞳に星空を散らせたリリィは嬉々として進んでいく。
もし目の輝きだけで暗闇を見通せたなら、今の彼女はどんな深淵だって越えていけるだろう。
とはいえ本当に真っ暗なまま道が開けてしまえば戻るしかなかった。
まさか禊ぎへやってきて、好奇心で入り込んだ遺跡の中で迷子となって餓死するなんて、そんな間抜けは許されない。
幸か不幸か、道の先には光が差し込んでいた。
いつの間にかしがみ付いていたリスを背にぶら下げたまま、通路を駆け抜けた少女がそこへ辿り着くと、まず天上が崩れて吹き抜けになっていることに気付いた。
風もある、青空も見えた。
崩落した場所から突き出ているのは木の根だ。
大切な遺跡がっ、と悲しみに暮れた彼女が肩を落とすと、リスが背から飛び降りて瓦礫の上へ登っていった。
重なる床材の上には地上で見たのと同じ草花が咲いていて、けれど周囲には古びてはいても自然からの浸食を受けていない床がそのまま残っている。もしかして最近崩れたものだろうか、などと考えた先で、リスの姿が消えた。
なんとなく追いかけて瓦礫の山を登っていくと、中央が沈み込んでいるらしいことに気付く。
そこに、金属の卵があった。
全くの未知、予想外の物体、そういったものに彼女が惹かれる様はここまでにもあったが、瓦礫の上で立ち尽くした彼女は一度身を強く震わせて息を整えた。
ゆっくりと降りていく。
小石でも蹴飛ばして、万が一でも卵が割れたら大変だ、そんなことを思っているのだろうか。
卵には光沢があり、色は腰の短剣と同じ。だが、異常なほどに磨きこまれている。しかも単色ではなく、なにか継ぎ目のようなものが各所に見て取れ、彼女の感性は人工物のようだと直感していた。
辿り着いた卵を見て、改めてその大きさに驚いた。
少女くらいの小柄さであれば、四人か五人は中に入れるだろう。
恐る恐る触れてみる。
「やっぱり、金属……?」
けれど謎の温かみがある。
表面は艶やかなのに、硬いというより柔らかな印象を受ける。
敢えて言うなら、絹の感触に近い。
金属を編んでいる?
未知の発想を得て流石に少女も首を傾げた。
なのに触るのを止められない。隅々まで、いっそ裏側もとしゃがみ込んだところで、四角く切り取られたような枠を発見した。
押し込んでみるといいことがある、そんなことを最近知った彼女は好奇心のまま押し込み、ある意味で予想通りに枠が沈み込み、けれど僅か浮いて戻り、勝手に横へズレていった。枠は、蓋だったのだ。
しかも蓋の開いた中には更に複数の突起物があり、古ブランディール語とも東スメール語とも、ましてや共用語であるゼルタ語とも違う表記が付属していたことにもう頬も耳も赤く染め上げ興奮していた。
これはなんだ。
金属の卵。
崩れた天井は最近起きたものか。
最近。
いやまて、と。
まだ周辺を十分には観察していないから思い込みかもしれない。
だがここは、あの不思議な突起物を押し込むことで開いた、今まで何十年も、誰も訪れたことのない場所かもしれないのだ。
古代遺跡に封じられていた何か、それでなくとも極めて特別な、何か。
そうは考えつつも頭に浮かんでくるものがある。
昨夜、天を焼いて東へ沈んでいった炎。
あの館から見て東とは、ここ聖域だ。
飛んでいったものが落ちて、天上を崩したとは考えられないか。
何が起きている。
何が起きようとしている。
早く、何か、分からない何かを知りたい。
指は躊躇無く一番大きな突起を押し込んでいた。
同時に卵の内部から音がして、少女が目敏く見つけていた継ぎ目のような箇所が一斉に浮き上がり、組み上げていたパズルを解くようにして卵が開いていく。
胸の高鳴りを抑えきれず、僅かに呼吸を乱しつつ内部を覗き込んだ。
「………………………………からっぽ?」
開いた卵の中には何も無かった。
いや、確かに空間があり、人一人が納まれそうな、いや、納める為に作られたような、椅子状の形になっている。
手を伸ばして触れてみると、今まで感じたことのないような柔らかさと弾力があり、更に内部が先程のものと同じ無数の突起や表記があることに気付いて身を乗り出した。
脚と頭が逆さになるような、淑女にあるまじき姿勢であることなど卵の外へ放り投げ、夢中で少女は内部を漁る。
座席、と最早信じて疑わない彼女が手摺りの側面を押し込んでみると、そこに収容されていた箱の中に包みらしきものが乱雑に放り込まれていた。外は染め方も分からないほどに複雑で、繊細な絵が描かれている。内は、銀一色だ。銀とはいえ高価なものをこんな乱雑に扱っているなんて。少女はそれをゴミ箱だと認識していた。思い込みは大切だ、なので暫定的だがゴミ箱でいい。
更に更に、と最早卵へ乗り込んで出鱈目に突起物を押してみるのだが、残念なことに何も起きず肩を落とす。
椅子は信じられないくらい心地良くて、反対側の手摺りを漁ってみると、ゴミ箱に収納されていたものと同じ包みを発見した。しかも、中身が残っている。とりあえず開ける。とりあえずの精神は重要だ。とりあえず進んでみたらこんな面白そうなものがあったのだ。だから彼女はとりあえず行動する。好奇心が猫をも殺すことを少女は知らないし知るつもりもない。色々と弄ってみると、包みの端がギザギザになっていて開け易いことに気付いた。そして、包み……袋の内部に細長いスティック状のものが十本ほど納められているのを確認した。
伸長に取り出してみて、匂いを嗅ぐ。
摘んでいる部分は茶色く、焼き菓子を思わせるが、指二本分ほど先からは黒い何かで覆われている。匂いは、よくわからなかった。あるようでないような、ひとまずカビている様子も腐っている様子もない。
とりあえず齧ってみた。
猫をも殺す好奇心を存分に振り翳し、咀嚼する彼女にここが最低でも四百年以上前に打ち捨てられた古代遺跡であることなど頭に無い。
そして、
「っ……!?」
甘い。
想像を絶する甘美な味わいに続けてもう一口。
この黒い部分が極めて甘い。けれど土台となっているのはスティック状の焼き菓子だ。なんらかの穀物を焼き固めたものであろうが、黒くて甘いものを上品に受け止めて、甘さが尾を引かない。何本でもいけそうだ。そんなことを思って目を輝かせていた少女は、ふと割れた卵の端にリスが三匹留まっているのに気付いた。
これを教えてくれたのはその一匹。
ならば、差し出さずにはいられまい。
しかしここで彼女は大いに躊躇した。
なぜならこの黒い部分はとても甘いのだ。
普段それほど意地汚くは無いものの、正直言って尾を引こうがなんだろうがもっと欲しい。
モノ欲しそうなリスに見詰められながらくるりを背を向けて黒い部分を食べた後で、残った焼き菓子のみの部分を砕いて手のひらに乗せた。差し出すと一匹が手首に、もう一匹がちょっと回りこんで親指に片手を乗せつつ、最後の一匹は卵の端に後ろ足でぶら下がりながらそれを取る。因みにぶら下がっていた子はすぐ降りてきて少女の胸元で齧り始めた。横転した卵の内部で椅子に座っているので、実質寝転がっている彼女の身は良い足場になるのだろう。
ついでに尾の長い鳥、オナガまで崩落した所から入ってきて、彼女は泣く泣く黒い部分以外を全て差し出すことにしたのだった。
そうして大きな欠伸を一つ。
今更ながら、昨夜を眠らず過ごしたことを身体が思い出してきたらしい。
更に言えばこの座席、とてつもなく心地良かった。
※ ※ ※
日課の見回りを終えて戻ってきた男は、ポットが開かれていることに気付いて壁に身を寄せた。
到着して以来、遺跡内部を探索してみても出口が見付からず困り果てていたのだが、明らかな人の気配に僅かばかりの安堵を覚える。
男の所持する専用の鍵か、緊急時用の開閉ボタンでも押さなければ開かないポット。侵入者への警戒はあるものの、少なくともここへの侵入経路があるという事実は確認できた。あるいは、登り様もなかった崩落した天上から落っこちてきたか。
何にせよ現地人とのファーストコンタクトとなる。
可能ならば友好的に接触し、情報収集といきたい所なのだが。
腰元の銃を抜き、安全装置を解除する。
指紋、体温、血流や掌からの汗など、複雑な生体認証を得て起動した武器を手に、音を立てない様ゆっくりと瓦礫の山を登っていく。
が、
「子ども……? と、なんでこんなに動物が……」
ポットは落ち窪んだ場所にあるので、瓦礫の上から内部で白髪の少女が眠っているのはすぐ分かった。
けれど一緒にリスかネズミかが十匹ほど胸元で丸くなっていて、色とりどりの鳥類が三種、ポットの脇へ撒かれた菓子くずをつついている。キツネ、タヌキ、小ぶりなイノシシまで集まってきており、到着してこの方、生物らしきものと言えば蜘蛛か蝿しか見たことの無かった男は大いに驚いた。
まるで御伽噺に語られる眠り姫の如く動物に囲まれて、まさか死んでやいないだろうなと眉を寄せる。
男が一歩降りていくと、まず驚いた小鳥達が一斉に羽ばたいて逃げ出した。
続いて音に気付いた小動物が飛び起き、四方八方へ散っていく。
彼では登ることのできなかった崩落した壁面の上で、振り返ったキツネがじっとこちらを見てくる。
「大丈夫だ。別に怖がらせたりしないよ」
黒髪を掻きつつ言い訳をし、改めて瓦礫を降りた。
「んん……もっと食べられますぅ……」
なんてベタなようでいて意地汚い寝言にため息が出る。
どうにもこの少女、勝手にポットを開いてしまったのみならず、保存食を平らげてしまったようだ。
冗談半分に収容させておいた菓子なので、そこまで重要とは言わないが。
「というか、チョコを他の連中にあげてないだろうな……確か小動物にとっては毒だぞ」
診察でもしてやれたらいいのだが、それ様のキットも無く、捕まえるのも困難そうだ。
無事生きてくれ、そう願いつつ苦笑い。
ポットで眠る少女は、おそらく十二かそこら。
顔立ちは整っているが頬がふっくらとしており、だらしなく眠っているのもあって非常に幼く見える。
「まあ子どもなんてこんな位がちょうど良いだろ」
肝心なのは衣服だ。
多少裾に汚れがあるものの、劣化の類は認められず、何より美しい光沢を放つ白のブラウスに目がいった。
この艶やかで高級感のある光沢は絹によるものだ。化学繊維など望めない時代で、ここまでの生地は他に無い。
一見して簡素な造りに思えるが、近くで観察すると糸を二重にすることで編まれた地紋が薄っすらと浮かび上がっていて、とても手の込んだ品であるのが分かる。文明レベルを考慮すればこのようなものを着ている者がそこらの貧民である筈もない。
知識層を期待するには若すぎるものの、繋ぎ役にはなってくれるかもしれない。
そんな算段をしつつ、悪いとは思いながらも肩を揺らした。
そもそもここは彼の寝床だ。
勝手に占拠されてなけなしの食料まで食べられたのだから、起こすくらいは許して欲しい。
「おい、起きてくれ。お嬢ちゃん、起きてくれ」
けれど揺らせど呼び掛けど少女は起きない。
口元に残ったチョコをぺロリと舐めては身を回して丸くなる。
「駄目か。せめてポットが動いてくれればなぁ……データが破損してるんだろうけど、圧縮睡眠とか、強制起床とか、そういう機能くらいは動かないのか、コイツ」
諦めて内部の操作を試みるが、散々試した時と結果は変わらず。
開閉は奇跡的に可能だったものの、それ以外は死んでいた。
食料も無くなってしまったので、などと思いつつ空いた天井を見やり、ふとこちらを見るタヌキに目が留まる。いや、と、壁を登れなかったイノシシを見て、奥の通路に流れ込んでいる水と、後何か過熱に耐える器があれば牡丹鍋が……と思考を巡らせていたら、また新しい気配がやってきた。
「っ!?」
最初、またこの少女に集まる動物が増えたのかと思ったのだが、群れを成した三匹の狼が顔を出した途端に他の動物達が一斉に逃げ出した。
一匹が上で見張り、残る二匹が躊躇無く飛び降りてくる。
慣れた動きだ。
出口の見当たらないこの大穴、迷い込んだ得物を狙う狩場の一つだったのかもしれない。
だが狼はすぐ襲い掛かっては来ない。
人間に慣れているのかは不明だが、警戒しつつ左右へ広がって回り込んでくる。
近くで見て、改めて男とそう変わらぬ体躯に圧迫感を覚えた。
多少荒事に慣れていようと、人が人に向ける殺意と、獣が向けてくる捕食者の目はまるで違う。
喰われる、というのは、生物が平等にもつ強烈な恐怖の一つだろう。
既に銃の安全装置は解除してある。カートリッジは限られているものの、肉の方から寄ってきてくれたのであれば躊躇は要らない。問題は三対一であることだが、まずは威嚇で動きを止めて他を狙う。そんなことを考えつづ、まずはと端末を操作して、
「ふわぁ……あれ、どなた――――」
ポットを閉じた。
「…………ん?」
声が聞こえたような気がして振り返るも、閉じた内部のことは分からない。
ともあれ少女の安全は確保出来た。
最悪内部からも開けられるので、ここで男が食われたとしても出られるだろう。流石にその先までは保証出来ないが。
「あのすみません、こちらの卵の中に居られた方でしょうか!?」
「開けるんじゃないっ」
ところが予想以上に早くポットが開いてしまい、反射的に叫んで閉じさせる。
が、一度開閉ボタンが発見されている以上、待てと言って待つ筈も無く、
「こっ、これっ、勝手に動くんですねっ。凄いですっ。あのよろしければお話を――――」
男はもう一度ポットを閉じてから大きなため息をついた。
なんだか状況が忙しくて一気に疲れた。
ここしばらく暇を持て余していたのもあるだろうか。
これ以上言っても無駄だと思うので、今度はこちらから再度操作して開けさせる。せめてロック機能さえあればと思うものの、内部からの操作すら無視するならコレはもう棺桶でしかなくなるので仕方無い。
「わあ……!! 凄いっ、もしかしてその手に持っているもので操っているのでしょうかっ。ちょ、ちょっとだけ貸してみて頂けないでしょうか」
「君、周り見て。狼、わかる? 狼。襲われてるの」
何故か片言になりつつ言うと、ようやく状況を理解したらしい少女が身を乗り出してきた。
随分と動物に好かれていた少女だ。彼女が姿を現したからかは不明だが。
森の奥から、重ねたガラスを無理矢理押し潰したみたいな不快音が叩き付けられ、取り囲んでいた狼があっという間に壁を登って消えていった。
遅れて、今のが生物による鳴き声だと気付く。
一体どんな喉になれば今のような音が出るのかは不明だが、響きには僅かに湿っぽさが混じっていた。
森の主と言われてしまえば信じてしまいそうな、聞くだけで怖気を覚える咆哮だ。
少しだけ様子を見て身構えていたが、大穴の端にリスが顔を出した所で警戒を解いた。
「あ、あのお!?」
「うおっ!?」
「あ、すみませんっ」
油断した所へ大声での呼び掛け、流石に驚いて振り向くと、先程までポットの中で眠っていた少女がそこから抜け出し後ろに立っていた。
緊張しているのか、表情には固さも見て取れるが、好奇心を浮かべる青の瞳が随分と眩しい。
身長差もあって見下ろす形になっていたので、彼は一歩引いてから膝を付く。
やや見上げる位置にある少女の顔を見、不躾にならないよう気を付けつつ問い掛けた。
「君はこの辺りの子なのか?」
「いえ。こちらには今日初めて参りました」
受け答えはしっかりしており、やはり教育を受けた子なのだと分かる。
彼女自身の利発さもあるかもしれない。
「そうか。あぁぁ……実はここから出られなくなって困っていたんだ。上から落ちたので無ければ、道案内を頼めるかな?」
「はい。ええと、あっ」
と、少女は何かに気付いて少し離れる。
警戒されたか、などと思っていた男の前で、彼女はすらりと背筋を伸ばし、スカートを摘み上げるような動作を交えて腰を落とした。
頭を下げず、自身を美しく魅せる為の所作。
もし穿いているのがショートパンツでなかったなら、スカートを美しく広げられたことだろう。
「ぁ……………………っ、んんっ。名乗りが遅れて申し訳ございません。私はリリアーナ=フォン=サーフィラス。親しい者からはリリィと呼ばれています」
彼女も自分で気付いたのだろう、空振りした手をどうにか維持しつつ、挨拶をやりきった。
少し抜けた印象を受けたが、やはり所作には品がある。
礼には礼を。
少女リリィほどの作法は持たないが、男は銃をホルスターへ仕舞い、胸元へ手を当てる。
こちらは腰を僅かに折り、頭を下げる作法で。
「フェイネル=オコーネルです、レディリリアーナ。こちらこそ礼を失していた、許して欲しい」
「とんでもございません。先ほどのお話ですが、私は隠し通路を発見し、ここまで降りてきました。喜んでご案内致しますが、もしよろしければ」
返答に顔をあげた男フェイネルは、自分を見るリリィの目が尋常ならざる好奇を湛えていることに気付いた。
そう、この少女、先程から随分と興奮状態にあったのだが、礼を失すまいと振舞う間にも我慢を重ね、そろそろ限界に達しつつあった。
教養があり、このような遺跡へ単身乗り込んでくる行動力があり、またポットの開閉ボタンを的確に発見し操作していたことなども考慮して、果たして今の自分が何者に見えるだろうかとフェイネルは思う。
はは、と苦笑いをしつつ、
「こちらの鉄の卵や、お腰に収めていたものとか、あのっ、不躾かとは思うのですがお召し物も見たことの無い布でっ、そ、染めはどのようになっているんでしょうか!? あとっ、刻印術でもないのに遠隔で物体を動かしたのはどういう方法で――――」
言い張った。
「ははは、すまないが何も思い出せない。これは困った、記憶喪失という奴だな」
少女は一時固まる。
けれど、笑顔は崩さないままじぃぃぃぃっと男を見詰め。
「……………………………………………………………………………………嘘ですよね」
少女とはいえ女は女、やや迫力を増した雰囲気を放つのだが、男もまた堂々たるもの。
罪悪感など何処吹く風と朗らかに笑う。
「いいや、思い出せないんだ」
「秘密だったりします? 内緒にしますよ?」
「あー困った、何も分からないやー」
「私、これでも義理堅いのです」
「うーん、なんだったかなぁ」
「ちょっとだけでもいいんですけど」
「やー、どうしよう。この先どうすればいいんだー」
結果、少女は戻ってきて肩に乗ったリスみたいに頬を膨らませてしまったのだった。