心を解かし
それは一瞬だった。
イリエルの腕の中から、意識が無いと思っていた褐色肌の少女が飛び出した。そして布袋を掴み、こちらを警戒しながら睨んでいる。
少女の瞳には、見てわかるほどの恐怖が混じり、少女の心をありありと映し出している。
流石のディオブもこの状況でどう動いていいか分からない。相手はもしかしたらボリジウスを殺したかもしれない相手だ、しかも食べられながら。
あまり傷つけたくは無いが、ここは船の上、暴れられ船が傷付けば、航行にも支障をきたすかもしれない。故に、こちらも最大限の警戒をしなくてはならない。
だがまずは、相手の警戒心を解く所からだ。
「すまない、怖がらせたな、俺たちに君を傷つけるつもりは無いんだ」
だが少女は怯え、こちらに来ようとはしない。
当然だ、警戒心を示す相手に、誰だって警戒心を解こうとはしない。
ディオブは今までの経験上、ほぼあらゆる物に対し、警戒心を抱けるようになってしまった。自己防衛という観点からは素晴らしいことだが、それが目の前の少女にも向けられてしまったのは不味かった。
イリエルは未だ苦しみから回復しきれていない。うまく言葉を出せないのに、この場に口を出すわけにもいかなかった。
なまぬるい沈黙が場を支配する。どちらもこの場を変える鍵を持っていなかった。それを持っているのは、盤外の同乗人たちだ。
「イリエル! お湯の準備……」
サグが荒々しく扉を開けて甲板に出る。
焦りに任せた大声で伝えるつもりだったが、出た瞬間に事態を察し、出すつもりだった大声は徐々にフェードアウトした。
少女に恐怖と警戒の視線を向けられながら、サグはゆっくり二人の元へ向かう。まるで動物を刺激しないようにする動きだ。
サグから見て、まずイリエルを心配した。元々座っていたが、今は何故か倒れているからだ。
「大丈夫? イリエル」
「うぅっ、くっ、だぁ、大丈夫」
時間はかかったが、しっかりサグに大丈夫と伝えてきた。
様子を見るにおそらく大丈夫では無いが、一旦その疑問を呑み込み、目の前の問題の解決に集中することにした。
前に何歩か進み、少女に近づくと同時にディオブの隣に立った。
「どういう状況?」
「目覚めた少女、警戒心マックス、以上」
「なるほど納得」
ディオブの簡潔な説明を受けて、サグは状況を浅く正確に理解する。これ以上は後からでもいい。
一歩、サグはさらに前に出た。対照的に少女は一歩後ろに下がった。また一歩進む、そしてまた一歩下がられる。このままいけばサグは少女に到達できる、しかしその前に少女は船から落ちてしまうか、大胆な行動に出てしまうかの二択だ。
どちらにせよ、まずいことに変わりは無い。落ちられても問題だが、大胆な行動、つまりは攻撃されても問題だ。ここは空中、この少女がどこまでの力を持っているかはわからないが、仮に魔法を高いレベルで使えて、それが船の飛行に関わる部分を破壊すれば、確実に全員が”淵”に飛び込むことになる。それだけは避けなくてはならない。
とはいっても、サグも警戒する相手に対し効果的な行動を知らない。手探りもいいとこだ。
「大丈夫だよ、俺たちは君を傷付けない、君が心配なだけなんだ」
言いながらまた一歩踏み出す。だが少女はまた一歩下がった。
「そう言って……僕を利用するんでしょ……」
恐怖に満ちた声が小さく聞こえた。そしてサグは察してしまう。
何があったのかまでは知らないが、おそらく少女は何者かに騙されたのだ。そして何らかの経緯で逃げ出したということだろう。出なければこの異常な事態に説明がつかない。
同情心だったのか、サグ自身にもわからなかったが、無意識に一歩踏み出していた。踏み出したのとほぼ同時に、初動を確認した少女が手を合わせた。
その瞬間、少女の手から放たれた一筋の水がサグの頬を掠めた。掠った場所は転んだ時のような擦り傷になった。
その後船に当たりそうになる水を、ディオブが硬化させた体で受け止める。
「サグ!!」
(水属性の魔法! だが威力が低い、まだ荒削りだな……だが)
体の感覚とサグのダメージから、相手の状況を正確に把握するが、”ブラフかもしれない”という疑念が、ディオブの警戒心を解かせない。
サグの背中でディオブには見えていなかったが、少女はこの世の終わりのような顔をしていた。
「君じゃ俺は殺せない」
「うるさい!!」
少女が手から水を乱射する、さっきとは違い、何本もの水の線が発射されていた。
サグはそれに対し、雷の魔力を腕に纏い電流を発生させた。そして自らに飛んでくる水に対し拳を当てる。
本来人を傷つけられる程度の威力を持った水は、ただの水流と変わらず、手に弾かれて辺りに散った。
(魔力を纏い、相手の魔法に対抗する、基本だが、確実に成長してるな)
サグの無事と成長に、ディオブの口角は無意識の内に上がっていた。
「君じゃ俺は殺せない」
サグが繰り返す。わかりやすいほどの事実とともに。
少女の絶望はより深くなった、もはや手も合わせていない。魔法を使うも無くなったのだろう。
サグが一歩踏み出した、少女はもう後ろに下がらない。無駄だとわかったからだ。
近づき、サグの影が少女を覆った。近づいたからこそ、少女の綺麗なパープルカラーの瞳に宿る、色濃い絶望がよくわかった。
目の前の幼くすらある少女の瞳に、その色が宿る。なんて痛ましい事実だろうか。
膝を降り、こちらを見つめる少女に顔を近づける。そして、抵抗を許さず、一気に抱きしめた。
少女はあっという間の事で反応できなかった。
「大丈夫、このリエロス号に乗っている仲間たちは、決して君を傷付けない」
抱きしめる腕には大した力は込めない。けれど安心感を与えられるように、しっかり力を入れる。難しい所だ。
少女は何も言わない、何も動かない。ただ、腕に感じる、熱い雫が答えだろう。信頼されないまでも、安心感は与えられたはずだ。
一連を見つめていたディオブは、途中から警戒すらもやめていた。
「すごいね……サグは」
横から声がした。いつの間にかイリエルが立ち上がっていたのだ。
「大丈夫か?」
「ええ、だいぶ回復したわ」
意外にもイリエルは自分の足だけでしっかり立っていた。
最初に受けたダメージは大きかったようだが、一応立てる程度には回復したらしい。
「……すごいねってのは?」
「言うまでも無いわ……私たちは警戒の必要性と、疑いを持つことの大事さを知っている、もちろんサグたちもわかってきているだろうけど……彼らは未だ純粋な優しさを持ち合わせている……」
ようやくイリエルの言わんとしていることがわかった。
すでに自分たち二人は、多くの経験をしている。人の黒さだって見てきた。
だが閉ざされた世界にいた三人は違う。あれだけの体験をしてもなお、心に純真な部分が残っている。人を殺したことのある人間に”純真”というのもおかしな話だが、事実そうだ。
呆れてしまうようで、少しだけ羨ましくもある甘さだ。
「イリエル! 服と食料……ってどういう状況?」
部屋から飛び出したテリンが、訳のわからない状況でぽかんとしてしまった。




