究極の好奇心
横になっていても眠れないので、上半身だけを起こした。長く横になっていたせいか、少しだけ頭がくらっとしてしまった。音を立てないように、ゆっくりとベッドから抜け出して、静かにドアを開けた。目が慣れていたおかげで、船内に置いていたものに引っ掛かることもなく甲板に出た。薄い月明かりが空に止まっている船を照らし、下を覆っている雲、”淵”を青く白く輝かせていた。
甲板の縁に腕を置いて、なんとなしに”淵”を覗き込む。特に”淵”を見るのが好きな訳ではない。むしろ吸い込まれそうな恐怖があって、少しだけ苦手だ。だけど今だけは、心の中にあるこのモヤモヤを、跡形もなく吸い込んでくれそうな気がした。
雲が風に靡いて形を変える。そんな訳ないのに、雲の模様に両親の顔を見た。いつも優しく、自分を励ましてくれた母、頼りになって、憧れていた父。その二人は、一緒に過ごしていた家で知らない秘密を抱えていた。そこまでは事実だ。
ただディオブの推測では、島の大人たち全員が、自分の家の秘密を知っていたんじゃないかと言う。ただの推測でしかないのに、自分でも驚くほどの疎外感と寂しさを感じてならない。
「くそっ」
普段中々言わないようなことを、ポツリと呟いてみる。おそらく呟いた言葉は、”淵”に吸い込まれて消えた。
キイ、と金具の軋む音がした。驚いて反射のようなスピードで振り向く。そこにはテリンとエボットが寝巻きのまま立っていた。
「起きたの?」
自分でもやりすぎと感じるほど、らしくないヘラッとした笑顔を浮かべる。二人も苦笑いをしながらこっちに来た。寒がりで暑がりのテリンは、毛布をマントのようにしていた。二人がサグの両隣に立って、それぞれに空を眺める。三人が見つめる月は、冷たい光でこちらを見ている。
「眠れなくてさ……」
テリンが呟いた。表情はわからなかったが、なんとなく無理して笑っている気がした。
「だよなあ、あったまぐちゃぐちゃだしよ」
エボットがケラケラと笑いながら言った。しかし無理していることはなんとなくわかる。産まれて以来の親友だ、当然のことだろう。サグは改めて月を見た、島で見ていた色と形、全く変わらない、太陽だって、星だってそうだ。知っていた、この世界のどこで見たって、空に浮かんでいるものが変わらないってことは。なのに。
「知らなかったんだね、なんにも」
サグがポツリと呟く。二人はサグの方を、少しも見なかった。けれど心は同じだった。知らなかったことを情けないとは思わない、惨めだとも、愚かだとも思わない。けれど少しだけ、寂しいと思う。周りは知っていて自分たちは何も知らなかった、自分たちは子供でみんなは大人、そう言ってしまえばそれだけなのだけれど。
「あの魚屋のおっちゃん、知ってたのかな」
「多分知ってたんじゃない?俺と挨拶した日もさ」
「……私なんかさ、ずっと言ってたんだよオリアークのことが知りたいって」
この時、初めて二人はテリンの顔を見た。下を見ているテリンの顔は、影が濃くてよく見えなかったが、月光に照らされる涙が光って見えた。
「おじいちゃんにも、パパにもママにも……サグのお母さんにだって言ってた……知りたいって……けど帰ってくる答えはいつも同じ……”知らない”……だった」
声が震えていた。手で二の腕を必死に握りしめて、今にも泣きそうなのを必死にこらえている。二人は目線だけで顔を合わせた、同時に自分たちはまだマシだったのだと気づく。テリンにとってオリアーク・ウィストは幼い頃からの憧れだった。その存在のヒントは、いつもそばにあった、恋焦がれるかのように憧れ続けたそれは、ずっと隠されていた。現状確かな事実ではないが、ほぼ事実のそれを前に、テリンの気持ちは計り知れない。
結局涙はこぼれ始めた、鼻水を吸い上げながら、暗いだけの前を見る。
「結局……大人たちが隠してたのは、オリアークのため……”果て”のため」
結局は、あの初めて人を殺した日に辿り着いた謎に行き着く。なぜ?に対して回答はまだ出ない。
「島にゃあ、常識のはずの神軍も、魔法もなかった……神軍は大人も知らなかったようだがな…」
「交流も最低限……本当に……狭い箱庭で生きてたのね……」
「箱庭……か」
サグはテリンの呟きを二、三度ほど脳内で咀嚼した。面白いほどに的確で、わかりやすい表現だった。さらに一つ思いついたことがあった。
「井の中の蛙タイカイを知らず」
「おっ?」
「それ正解」
三人同時に笑い出した。さっきと同じであまりに的確、そして自分たちの愚かさを表現しきれていた。
この言葉は昔母に教えられていた、平たく言うと、狭い世界の中で多くを知らない様子を唄った言葉らしい。”タイカイ”という言葉はよくわからないが、とりあえず広い場所なのだと教えられた。
母もよく知らない様子だった。
ひとしきり笑ってから、三人は同じようにまた月を見た。冷たく感じた明かりは、ほんの数分しか経ってないのに、今度は妙に明るく、そして優しく感じる。
「いるんだな、俺ら、タイカイに」
エボットがニッカリと笑った。そうだ、自分たちは井を飛び出している。何も知らない愚かだった自分たちは、あらゆる物を知ることができる。
「なんていうかさ、”果て”って一つでしかないんだね」
心外なことに、両側にいる二人は、心底不思議そうな顔でサグを見た。
「何言ってんの?」
ついには突っ込まれてしまった。
「いや、”果て”ってさ結局、知らないことの一つでしかないんだな……って」
「神軍……魔法……天空サソリ……知らないことに溢れてた……知らない島だってたくさんあるよ」
「知りたいなあって」
純粋だった。何か、無駄なものを削ぎ落としたような、極めて純粋な言葉だった。
そうだ、強くなりたいのだって、”果て”に行きたいのだって、結局知りたいからだ。魔法に興味があるから、まだ一日だけだけど、修行をした。どこかに身を隠せばいいのに、そうじゃなくて、知りたいから旅をしている。結局、知りたいのだ。
サグの綺麗な目に、テリンとエボットが優しく微笑む。安心していた。
「だな!」
「うん、知りたいね、知らないこと全部」
三人は笑っていた。純粋な少年少女の笑顔で。声に一切の曇りのない澄み切った言葉で。
扉に隠れて、ディオブはほぼ全てを聴いていた。ディオブもまた、安心に笑顔を浮かべていた。しかしすぐに、その笑顔は口角を落とす。
(潰されんじゃねえか……って思ってた……)
鉱山の中で、ディオブは三人に倒せと言った。しかしそれは、ディオブ自身の逃げだった。あの時言った意味は結局”殺せ”という言葉なのだ。それをディオブは、”倒せ”などと言って逃げた。今日の修行中だってそうだ、逃げてしまった。あの年で殺しを乗り越えた年下を前に、自分は大変なことを言ってしまったと、逃げてしまったのだ。戦闘経験も、魔法も、覚悟も上の、大人のふりをして逃げてしまった。
いっそ、心が折れてしまえばいいなんて思ってしまっていた。そうすれば、自分が守る立場になれるから。
(俺も腹括んねえとな……)
ディオブはよく自覚していた。自分こそ、この船の中で、最も臆病な存在なのだと。




