22.秀才の懸念(天恵7年7月中旬)
わいわいと騒いでいた皆の話が一段落して、一瞬の沈黙ができた。その一瞬を待っていたかのように、真剣な表情を浮かべた真平が口を開いた。その真摯な声色に、自然皆の雰囲気も引き締まった。
「楽しまなきゃダメだ。義務感と使命感だけじゃ。――結局、それが一番強いんだって、教えてくれたのは、蒼……他でもない、久蓮さんなんだ。皆に、走ることを……レースを、心の底から楽しんで欲しい。それが久蓮さんの心からの願いで、僕も同じ気持ちです。……でも、僕には僕の目的もある」
「目的?」
「ええ。僕は、久蓮さんにあんな顔をさせないために、此処に居る。僕は自分の目的のために、久蓮さんが絶対に言わないことを言います」
真平の語る「事情」は、きっと高校時代からずっと久蓮を見てきたからこその言葉だと思った。事実、あんなに楽しそうにレースを走る久蓮を見て、裕也も確かに心を揺さぶられたのだから。どうして久蓮が「全日出場」を今シーズンの目標に据えたのかは、今でも裕也には解らないけれど、いつの間にか自分も、皆と一緒に初めての「全国」の舞台に立ってみたいと思ったのだ。
次いで真平が告げたのは、裕也と真平が入部したあの年の初めに、自己紹介の場で語られた彼の「目的」だ。そんなことを考えていた裕也は、続いた真平の言葉に驚いて目を瞠った。
「今の極北は、帝北にそう負けてるとも思わない。……けど、それでも。このままでは勝てない。――絶対に」
「お前、それ……いつか言ってたことと矛盾してるじゃねぇか」
「ええ。まあ、……正確には、このままだと久蓮さんの負担が大きすぎる、ですかね。……勝つか否かは久蓮さんの脚次第。――天才だって、壊れない保証はない。……蒼が恐れる通りだ」
今シーズン最初の記録会で、思いつめたように「絶対に勝てる」と言い切ったその口で、真平は「絶対に勝てない」と言ったのだ。
久蓮に「おんぶにだっこ」の勝利。確かに、そんなに苦いものはないかもしれない。ましてや、自分たちが不甲斐ないばかりに久蓮が無理をして、その結果怪我などした日には、裕也はきっと自分を許せないだろう。
もしかして、蒼は「久蓮が無理をすること」を肌で感じていたからこそ、ああして行動を起こしたのだろうか。
それでも、裕也にとってみたら、久蓮は常に楽々と何もかもをこなしていく天才だ。その久蓮が「無理をする」という姿が、どうしても思いつかない。とはいえ、研究が忙しくて寝不足……という姿は時々目にするのだから、久蓮が人並に怪我をするという未来も全くあり得ないことはないのかもしれない。
「このレースは、蒼にとってそうであるように――いや、それ以上に。久蓮さんにとっても、重要な……意味のあるレースなんです」
でも、どうして久蓮が無理をしてしまうかもしれないのか。部員たちのため、という以外にも理由があることを、真平は根拠として挙げてきた。その言葉の意味を知るために思い当たる原因を――「それは、帝北が篠崎監督を擁してることと関係があるのか?」と裕也が問うと、真平は「そゆこと」とあっさりと頷いた。
「『あの人』は久蓮さんにとって、越えなければいけない壁だ。久蓮さんは、絶対『助けて』なんて言わなかった。けど。僕は――僕らはもっと求めて欲しかった」
悔しそうに拳を握りしめながら告げる真平の気持ちは、結局のところ解らない。「僕ら」――当時の深雪ヶ原高校の部員たちにしか解らない苦悩なのだろう。久蓮と監督の間にどんな事情があるのかは分からないが、もしも部員たちが助けを求めてほしいと思うような苦境に、久蓮が立っているとしたら――裕也だって、持てる力の全てで、力になりたいと切に思う。
「けど、独りで焦って……結局、このザマだ。……僕はまた、久蓮さんにあんな顔をさせてしまった」
――――なんて表情するんだよ。
今にも泣きだしそうなほどに後悔に歪んだ表情で、絞り出すように言葉を紡ぐ真平を見て、裕也は思わず顔を顰めた。押しつぶされそうな後悔は、今なお変わらないということか。
「情けないけど、ダメなんだ。独りじゃ……ダメなんだ……!」
「真平……」
そんなこの同期を見ていられなくて、裕也はその名を小さく呟いた。なんと声をかけるべきか逡巡していると、範昭が真平の背をどん、と叩いていった。
「そんな顔するなって。俺だって、勝ちたいからな。予選会は俺達に任せて、どっしり構えてろ」
「俺だってやれるってこと、見せつけてやる!」
「やってやろうぜ! 全日出場!!」
流石は範昭、だった。ぱっと見荒めの口調とぶっきらぼうな態度が目立つけれど、とても部員想いの彼のこと。それでも、こうして真平を勇気づける言葉がスラスラ出てくるあたりが凄いのだ。
とにかくこれで、一致団結だ。久蓮の掲げた目標まで、残すところ一か月弱。皆でできる限り記録を縮めて、この手に勝利を掴むのだ。熱意に燃える場の空気に浸りながら、裕也もまた決意を新たにした。




