20.豪雨の結末(天恵7年7月中旬)
引き離そうとする久蓮と、追い縋る蒼。二人の姿は、あっという間に小さくなり、豪雨の向こう側へと消えていった。やがて、白く霞んだ並木道だけがあとに残された頃、昴が小さく呟いた。
「……そういうことか……。これは……なかなかエグいことを考えましたね、久蓮さん……」
「え?」
苦く呟いた昴の言葉に、翔太が首を傾げている。何が「そういうこと」なのか、裕也には見当もつかなかった。ただ、酷く苦々しげなその響きが、裕也の不安を煽ったのだった。
メンストは、片道一.四キロ弱だ。裕也が正体不明の不安に苛まれている僅かな間に、あっという間に道の反対側に戻ってきた二人のレースは、相変わらず久蓮が蒼を引っ張る展開。容赦なく乱高下するそのペース作りは、久蓮にしては珍しい気がした。
「実戦は最大の練習……ですか。こんな質、下手なレースなんかよりよっぽど練習になりますよ」
「れん、しゅう……」
「ええ。それに、恐らく――」
険しい顔をした昴はさらに言葉を続け、そして眉を寄せて黙り込んでしまった。眉を寄せて小さく俯いた彼は、何事かを思案するように視線を彷徨わせている。
昴の「練習」という言葉に、翔太は一瞬眉を寄せた。同じ想いかはわからないが、「練習」という言葉は、あまりにも蒼の想いを無下にしているような気がして、裕也もひっそりと目を細めた。
「……そういうことかよ」
続きを紡ぐことなく考え込んでいる昴へと視線を流した範昭が、小さく納得の音を発した。「どういうこと」だろうか? 得心した範昭もまた、苦く二人の背を見つめるだけだった。
昴と範昭は、裕也には――おそらく他の部員たちにも解らない何かを、久蓮の走りから感じ取っている。それが何かを知る由もないが――久蓮の目指す結末は、果たして――。
*
レースが五キロを過ぎる頃には、早くも蒼の上体がブレ始めた。足並みも乱れており、とてもきつそうだ。それも当然だ。いくらロードとはいえ、この二周のペースを五キロに換算すると、十四分を切ろうかというところ。蒼の大学ベストに迫る超ハイペースだ。とても二十キロを走り通すペースではない。
スタートしたときと何も変わりないフォームで走り続ける久蓮が、異常なのだ。目の前を通り抜ける瞬間、視界に飛び込んできた久蓮の表情は、雨に濡れそぼって尚、涼しげに前を見つめていた。ずっと着込んだままのジャージが重そうに張り付いているのに。
――――こんな、の。いるのか……? この天才に勝てる、人間が、この世の中に……。
裕也は言葉を失って、彼らの姿を呆然と眺めた。自分と、彼らとの間には、この激しい雨よりも分厚い隔たりがある。それなのに、蒼と久蓮の間にさえも――。
「主将の言う通りだ」と、裕也は小さく呟いた。久蓮が八区を走ること――それこそが、選手層に圧倒的な差がある帝北大に打ち勝つ、たった一つの方法なのではないだろうか。久蓮が誰かに負ける――そんな未来が、全く見えないから。
――――っていうか、蒼も蒼だよ。こんな――。
久蓮の激走に、苦しみながらも喰らいついていくその必死さは、裕也にはどうも眩しすぎていけない。これが、陸上に真摯に向き合う、ということならば、裕也はとっくに失格だ。まるで、走ることでようやく息ができる、というような――いきいきとしたその姿に、裕也は唇を噛み締めた。湧き上がる感情は――「羨ましい」。
裕也の仄暗い嫉妬を吹き飛ばすように事態が急変したのは、七キロ過ぎのことだった。苦しそうに、けれども必死に喰らい付いていた蒼が、突然バランスを崩した。それはまるで、怪我でもしたような――。
「――あお!!」
「ふくらはぎ、か」
「え!?」
事態を見逃さなかった翔太が、鋭く叫んだ。その声に冷静に、けれども苦々しく呟くのは、昴だ。今にも飛び出さんとしている翔太を制する昴の、あまりに冷静なその様子に訝しさを覚える間もなく。呻くような昴の声が、裕也の鼓膜を揺らした。
「止められない。……無駄にはできない」
昴のその言葉は、久蓮と蒼、どちらに対してだろうか。どちらともとれるその呟きはあまりにも苦く、この事態を静観することが昴の本意ではないことが覗えた。
「蒼……」
道の向こう側。必死に喰らい付いていた蒼が、じりじりと減速していくのが分かって、裕也はその名を小さく呟いた。ほんの僅かずつ、けれど確実に久蓮との差が開いていく――。ちらりと久蓮の瞳が蒼を射抜いて、何事か声をかけたのが見えた。次の瞬間――蒼は瞳に焔を燃やして必死に久蓮に喰らい付いた。久蓮は、無表情の中僅かに笑みをのせ、また一段とペースを上げる。
同じ学生の走りとは思えない。それほどに、燃え滾る高温の鍔迫り合いは熾烈を極めていた。蒼は、それはもう酷いフォームだった。それでもなんとかペースだけを維持している。それでも、「負けない」と。蒼の意地が、伝わってきた。
――――馬鹿だ、俺は。
蒼は、何も裕也たちにだけ無理難題を押し付けていた訳ではない――そんなこと、解っていたはずなのに。蒼が一番に追い込んでいたのは、他ならぬ蒼自身なのだ。
そして、その瞬間は唐突に訪れた。久蓮がぐ、とペースを上げ、それについていこうとした蒼が。
電池が切れたかのようにアスファルトの上に倒れ込んだのだ――。




