19.落とされた火蓋(天恵7年7月中旬)
蒼とのいざこざの翌日、日曜日。遂にやってきた勝負の時は、生憎の悪天候だった。けれど、そんなものは些細なことだと思えるほどに、集合の場は冷え切っていた。
「蒼。……申し開き、ある?」
「……」
「そうか」
場の空気を絶対零度に冷やしているのは、我らが主将の張り詰めた雰囲気だった。表情の抜け落ちた顔で問いかけた久蓮の声は冷たい。ぴりりと緊張が走る中、久蓮は無言を貫く蒼をじっと見詰め、そしてもう一度溜息を吐いた。
裕也は思わず息を呑んだ。きっと蒼は、正しいのだ。だからこそ久蓮は「価値観を押し付けるな」と諭すのだろうが……。皆が真摯ではないとは言わないが、おそらくこの一ヶ月、一番記録に真摯だったのは、――蒼だ。
「そんなことのために、オレは君と話をしたんじゃない」
「久蓮さん……。それでも……。僕は、これが間違ってると思わない!」
「……そ」
自身の考えが全て間違っているとは思わない。それでも――そこに「甘さ」があったからこそ、蒼と部員たちは衝突することになったのだ。
そんなに責めないでくれ、と言いたいが、喉がひりついて言葉は出なかった。冷気と怒りを纏った久蓮に、けれども蒼は毅然と立ち向かっている。
「それでキミ、今、楽しいの?」
続いた久蓮の言葉に、裕也は目を見開いた。久蓮は、勝利の先になお、楽しむことを求めている。「そんなことを言っている場合か、」と詰る蒼に、裕也も心情的には同意だ。「楽しむ」が「甘さ」と同義ではないことは解る、けれど――それは些か欲張りすぎにも感じる。久蓮ならば、それすらも叶えてしまいそうで、背筋が粟立った。
僅かに後悔を滲ませて、久蓮は溜息と共に口を開いた。
「つまり、そう簡単に揺らぐ決意じゃないワケだ。――方針変更。今日オレ、お前潰すわ」
「久蓮!!」
「主将!?」
「センパイ!?」
――――っ!
久蓮の不穏な発言に、場が凍りついたのを感じた――次の瞬間、部員たちが慌てだす。
「見せてやるから、死ぬ気で来い。――簡単に、ヘバんなよ」
部員たちの様子が目に入っているのか否か。静かな怒りを纏わせた久蓮が、解散を告げてサークル棟の奥へと去っていった。慌ててそれを追う範昭を立ち尽くしたまま見送って、裕也は息を呑んだ。
こんなことは、初めてだった。こんなにも、負の感情を前面に押し出した久蓮を見るのは。昴と範昭のいざこざの後もたいがい怖かったが、今回の「これ」は、その比ではなかった。
ざあざあと、激しい雨が降っている。とんでもないことが、始まる予感がした。
*
サークル棟から一キロ弱――いつものメンストのスタートラインにて、部員たちは久蓮と蒼を迎えた。準備を終えて、ただ二人だけが並んだスタートラインは、異様な緊張感が漂っている。
「そのまま走るつもりですか」
「ますます負けられないね、蒼?」
「……ハンデのつもりですか?」
「さあ? どうだろうね」
スタート直前にも関わらず、久蓮は厚着だ。上下ジャージに身を包んだ久蓮に蒼が問いかける。挑発的な笑みが返る――そんな裕也の予想はあっさりと外れた。いつもより口数の少ない久蓮からは、相変わらず冷気が漂ってくる。
だが、一体久蓮はどういうつもりなのだろうか。アスファルトを叩きつける激しい大雨のなか、二十キロだ。時が経つほどに濡れていく服は、相当な重さになるだろうに。久蓮が、みすみす勝ちを譲るような生易しい性格ではないのはよく理解しているが、一体――。
「用意はいいか?」
二人の勝負の行く末が心配なのは、当然裕也だけではない。範昭は心配そうに眉を寄せながらも、レースを始めようとしている。もう、後には引けない。そんな思いだろうか。
隠しきれない苛立ちを滲ませながら、蒼は静かに頷いた。久蓮は、泰然とそこに立ったまま、静かに目を細めた――次の瞬間、範昭が合図を出した。
――――!!
裕也は驚きに息を呑んだ。合図を認識した次の瞬間、久蓮は驚きのスピードで飛び出した。即座に追いかけた蒼に、久蓮はまたすぐにペースを上げたのだ。そのペースは、裕也からしたら、五キロを走りきることすら不安になるほどのもの。いくら全国区の実力の二人とはいえ、これで二十キロなど、とても想像がつかない。
もしかして。ふと、不安に襲われて裕也は眉を寄せた。
「もしかして、主将は、本気で――」
久蓮は、本気で蒼を「潰す」つもりなのだろうか? そんなことはない、と心は叫ぶ。だって、あの久蓮なのだ。勝利の先に尚、部員たち一人ひとりが楽しむことを望むような主将が、よもや己の部員を――ましてや輝く才能をもつ蒼を潰そうと考えるはずがない。
そう信じたかった裕也の鼓膜に、範昭と真矢の声が飛び込んできた。
「速ぇ……。あいつ、本気じゃねぇか……!」
「二十キロですよね……このレース……」
驚きに塗れた範昭の言葉に続いて、不安に震えた真矢の言葉。この展開に、異常を感じているのは、裕也だけではないということだ。
久蓮と蒼の姿は、瞬く間に小さくなっていく。誰も二の句を告げないままのスタート地点には、豪雨の音だけが響いていた。




