18.一触即発(天恵7年7月中旬)
久蓮に宣戦布告をしたその日からの蒼は、今まで以上にハードに練習を重ねていた。まるで何かに取り憑かれているかのようなその様子に、裕也は目を細めた。
天才とは、皆「こう」いうものなのだろうか? こうまでして情熱と意欲を持って取り組めるからこそ、天才は天才として在ることができるのだろうか。そうなのかもしれない。後先考えぬほどの努力――それは確かに、蒼にあって裕也にはないものだ。
それでも、さすがに限界だろう。裕也が蒼のことを放っておけなくなったのは、勝負の時が翌日に迫った土曜日のこと。明日の勝負は二十キロという長丁場だというのに――それも、「久蓮」との真剣勝負だというのに、蒼はいつも以上に練習を続けようとしていたのだ。
「お前、そろそろホントに怪我するぞ」
裕也は堪らず、蒼に声をかけた。
無理をしなければならないときがあるのは、解るつもりだ。それでも、オーバーワークを続けて、良いことはない。怪我をしてしまえば、積み上げてきたものは崩れ落ちてしまう。それが、どれだけ悔しく辛いことか――。
そんな想いを、蒼にして欲しくはなかった。真平のときは止められなかったのだから、尚更。
「ほっといてください。僕は、どうしても勝たなくちゃいけないんです!」
「お前……何で、そこまで」
「むしろ、なんであなたは、そんなに冷静でいられるんです? 裕也先輩! もっとがむしゃらになってくださいよ」
叫ぶように裕也の言葉を拒否した蒼は、周りに集まってきた面々を強く睨み付けていた。鈍藍の瞳が鋭く光っている。感情的になった今の蒼には、裕也の言葉も、皆の心配も届いていないのだろう。
蒼が、がしりと裕也の肩を掴んで捲し立てた。その言葉は、裕也の心を鋭く刺し貫いた。
「蒼?!」
「落ち着けって!」
「別に、俺だって真剣だよ」
蒼の勢いに驚いたらしい真平と真矢が蒼を制止する。裕也は、そんな二人をてで制して口を開いた。これだけは、言っておかなければ、ならない。
「何も考えずに突っ走ることだけが、成長の道じゃないだろ。ただがむしゃらに頑張れば、速くなる? ――そんなの俺は御免だね。……言っただろ? 皆がお前と同じだと思うなよ、蒼」
思ったよりずっと、突き放すような冷たい声が出た。それはきっと、ずっと拭い去れない劣等感からだ。
蒼の言い分は解る。けれどそれは、「出来る側」だから言えることだ。裕也だって、できることなら、そんな風に走りたかった。蒼や久蓮や、昴のように、皆の先頭をどこまでも。
退けない。視線を逸らさずに蒼と火花を散らす。高まる緊張感に、裕也は息をすることも忘れた。
「やめろって、お前ら!」
鋭く止めに入った真矢に合わせて止めようとした翔太を、振り払った蒼の手が突き飛ばしてしまった。
「――っ」
「あ……」
「蒼!」
「お前、いい加減にしなよ!」
それが、引き金だった。蒼の行動に、真矢が怒る。まるで殴り合いにまで発展しそうな険悪な雰囲気が漂って、場は紛糾の様相を呈した。そんなとき――。
ぱんっ! と全ての空気を冷やす、乾いた音が鳴り響いた。反射的に振り向けば、その出所は昴。いつもと同じ柔和な笑顔で佇むその姿は、けれど、どこか異質だ。
「ヒートアップしすぎですよ、皆さん。今日はここまで。――全員、頭を冷やしなさい」
いつもどおりのはずの声色。だが、その言葉には有無を言わせぬ強さがあった。毅然とした態度は、この場を収めるためのものだ。まさに鶴の一声。皆が煮え切らない思いを抱えながらも、解散していく。
裕也も、複雑な感情を呑み込んで、サークル棟へと踵を返した。
*
「蒼の奴、何をそんなに焦ってるんです?」
「つい最近まで、本当にイキイキしてたのに……」
部室に着いた途端、裕也は口を開いた。真矢もそれに続く。
一連の騒動の間、静観を決め込んでいた範昭は、裕也たちと共に部室へと戻ってきていた。何かしらの事情を知っている――そんな素振りを見せていた範昭に、答えを求めた形だ。
逡巡したのち、範昭は裕也たちの目を見据えて、「答え」を紡ぎはじめた。
「あいつ、割と冗談じゃなく命かけてもいいっていうくらいには、本気で帝北に勝ちたいって思ってるんだと」
「でも……だって、それって俺らの目標ですよね?」
「ああ。でも、そんなレベルじゃなく、な」
「どうしてそこまで……」
「さあな」
範昭の口から語られたのは、蒼の熱心な献身と、
「それこそあいつ、久蓮大好きだし。……それに帝北には、あいつの元チームメイトがいるんだとよ」
「チームメイト?」
「ああ。色々あったらしいぜ。――詳しくは聞いてないけどな」
「だから、どうしても勝ちたいと?」
「多分な? 俺は、そうじゃねえかと思ってる。まぁそれだけじゃねえとは思うが」
彼が抱えているらしい「事情」だった。
「直接聞いたわけじゃねーから、合ってるかは知らんがな」
あくまで想像だ、という範昭だけれど、それはとても確からしかった。入部してすぐの蒼は、裕也たち部員と壁を作って、辛そうに走っていた。それは、その「色々」が関係しているのだろうか。
「……何それ」
裕也は、低く呟いた。
範昭の言が正解だったとして。蒼は、それを一人でなんとかしようとしていた、ということだ。そんなの――。
「え、水臭くない? そうならそうって言えばいいのに」
「だよね」
「僕らエスパーじゃないんだからちゃんと言ってくれなきゃわかんないんだけど」
「まあ、可愛い後輩のためにも、もっと頑張らなきゃいかんね」
気づけなかったのはこちらだ。けれど、こうして事情を知った以上、放って置くつもりなど微塵もない。明日は、蒼が久蓮に「答え」を示すのだろう。まずはそれを、見届けるのだ。
裕也は頷きひとつ、いつものケアを始めることにした。




