16.天に弓引くが如く(天恵7年7月中旬)
久々に、穏やかな練習だ――情けなくもそんな感想を抱いてしまったのは、蒼との諍いの翌日のことだ。
今日は、蒼、範昭、昴、翔太、真平の五人はキョクノウDCが開催される網走市へと行っている。蒼がキョクノウDCの五千メートルに参加するためだ。だから今、ここ、極大グラウンドにいるのは、真矢、大介、裕也の三人と、マネージャーとしての久蓮だけだ。いつもと比べると、些か淋しい、小さな集合の輪。
「久蓮さん、もう風邪はいいんですか?」
クロカン合宿以降、風邪と多忙でかなりの期間休んでいた久蓮が、ようやく部活に顔を出した。心なしか痩せたような気がする久蓮に、裕也はそんな声をかけた。隣に立つ大介と真矢も、心配そうに頷いている。
「ん、もう大丈夫。長いこと休んで悪かったね」
「そんなのは、良いんです。それはもちろん、主将が居てくれた方が嬉しいですけど」
「嬉しいコト言ってくれるね」
くすりと笑った久蓮に、裕也は目を瞬かせた。ともかく、久々に目にした久蓮は、相変わらずいつも通りの主将然とした彼だった。
「蒼がやらかしたらしいね?」
「あー……」
なんとも、耳が早い。昨日のいざこざを思い出した裕也は、気まずさから目を反らして言い淀む。蒼の言葉に過剰に反応してしまった自分を思い出す。今思えばあれは、愚直に努力できる蒼への嫉妬だった。
「蒼、なんか凄く焦ってるみたいなんですよ」
「あー……」
「主将?」
「ソレ、オレのせいだわ。きっと」
真矢の言葉に、呻くように頭を抱えた久蓮が心配になり、裕也はその顔を覗き込んだ。苦々しげな顔で、久蓮は言葉を続けた。それは、彼にしてはとても珍しい表情で、裕也は目を見開く。この状況は、久蓮にとっても不本意なようだった。
「なんとかする。嫌わないでやって欲しい。――オレが悪いんだ」
苦々しく告げた久蓮。けれど、裕也は確かに見た。「なんとかする」と告げた久蓮の瞳が、見たこともない色に煌めくのを。
大丈夫だ。久蓮には、策がある。今まで燻っていたいわれのない不安は霧散した。果たして、自分たちはどんな表情をしていたのだろうか? 三人の後輩たちの顔を見回した久蓮は、小さく目を見開いて苦笑した。
「ま、気にかけといてやって」
是非もなかった。
*
蒼が、ついに五千メートル十三分台に突入した。キョクノウDCの喜ばしいリザルトが送られてきたのはすでに昨日のこと。
裕也は、真平と共に、サークル棟横のトレーニングセンターを訪れていた。今日は部活の練習自体はオフなのだが、ウエイトトレーニングをしよう、ということになったのだ。怪我をしている真平ができる練習は限られているし、メニューに復帰したとはいえ、裕也もまだまだ怪我は怖い。とりあえず、とベンチプレスを始めながら、裕也は口を開いた。
「記録、見たよ。蒼、調子は悪くなさそうだな」
「うん。本人はあんまり納得できてないみたいだけど、大学ベストだしねぇ……」
リザルトとして、そのタイムは確認していたものの、実際にどんな走りだったかは、裕也は知らない。蒼の五千メートル高校ベストが十三分四十二秒だったはずだから、かなりそのころの実力を戻しつつあるということは判る。
そんな裕也に、真平は昨日のレースの状況を話しつつ、レースの動画を見せてくれた。
「極教の晃君も、青谷の監督さんも、高校の頃より『良い表情をしている』――って言うんだ」
真平は、やや複雑そうな顔で、そんな言葉を告げた。裕也は目を瞬かせる。外から見た蒼は、そんな風に見えているのか。
「なるほどな。まあ確かに俺たちは、高校時代の蒼についてなんて、記録とかくらいしか知らないからな」
「そうなんだよね。でもほんと、怪我だけはさせちゃいけない……」
「そうだな」
蒼も、変わろうとして藻掻いている、ということだろうか。蒼がこれ以上「何」を変えたいのかは、裕也には想像つかないけれど。蒼が変わりたいというのなら、裕也に出来ることは、蒼がそれをし続けることができるように見守ることだけだ。
真平と裕也は顔を見合せて頷くと、ウエイトトレーニングに邁進し始めた。
*
今日も極大陸上部員たちはグラウンドで練習に精を出していた。再び雲行きが怪しくなったのは、練習終わりの集合の場でのことだ――。
「久蓮さん。……あんた甘すぎですよ」
「うん? ――どうしてそう思う」
久蓮からの講評も終え、もうすぐ解散。そんないつも通りの集合の場に、唐突に響いた蒼の声。冷たい響きを孕んだその声色に、皆が息を呑んで凍り付いた。張り詰めた雰囲気の中、ぱちりと目を瞬かせた久蓮は、慈愛に満ちた笑みを緩く浮かべて問うた。
ブリザードが吹き荒れるかのようなこの場で、久蓮だけが余裕の笑みだ。そんな久蓮を真っすぐに射抜いて、蒼が口を開く。
「もう七月も半ばです。あと一ヶ月……。今のままで、帝北に勝てっこない」
「本当にそう思う?」
「火を見るより明らかでしょ。……あんたも解ってるんじゃないですか? このままじゃダメだって」
「さあね。――君くらいかもよ? そんな弱気なのは」
久蓮は、蒼の言葉にただゆるりと口の端を吊り上げた。本心の読めないそれは、底知れぬ深淵のようだと、裕也は身を竦めた。真っ向から喰らいつく蒼が信じられない。
久蓮はといえば、食って掛かる蒼の様子を、楽しみと共に見つめている。
「なんであんた、そんなに余裕なんですか……!」
「逆にさ、慌てたとして。一朝一夕でどうにかなるものなの?」
「それは……。……でもっ!」
「ばぁか、蒼。このチームには、オレがいるだろ」
「――!」




