14.酔いのまにまに(天恵7年6月中旬)
我らが主将は、一体どこを目指しているのだろうか? その才能が多岐に渡りすぎていて、裕也は思わずそんなことを考えてしまった。本当に何でもできる――それをひけらかさず、それでいて惜しげもなく発揮する久蓮に、裕也はただ感嘆することしかできない。
と、そんな風に大袈裟な考えを抱いたのは、食事も入浴も済ませた大部屋、皆が再び集まった時のことだ。簡単に今日の総評を口にした久蓮が、続けて「本題」と告げたのが、このアプリだった。
「オレがパソコンで使ってる記録ソフトのスマホ版。セキュリティは完璧、安心して」
「え、まさか、作ったんすか?」
久蓮からのメールに添付されたリンクをタップすると、即座に始まるダウンロード。そうして表示されたアプリの画面は、想像以上のクオリティーだった。そして同時に、見覚えのある画面――まさか、自作だったとは。
早速今日の結果も表示された画面を、驚きと共に眺める。練習日誌のアプリ版、ということだが――忙しい身のどこに開発の時間があるのか。「作ってみた」と笑う久蓮は、どうも超人すぎる。
「皆には、たくさん練習させてるし、しっかり強くなってほしいでしょ。だから、いつも頑張っている、オレの大切な部員達に、いつもありがとう! ――ってやつな」
「……ちょっと待て、久蓮」
柔らかい口調でほわほわと笑む久蓮。裕也が珍しいな、と眺めていると、険しい表情の範昭が久蓮に待ったをかけた。
「なあに」
「……。だっ、れだ!? コイツに酒飲ませた奴!?」
「あ、僕ですね」
「え、……」
「……なにかまずいんですか?」
どこか様子の違う久蓮を覗き込んで顔を青くした範昭が、ぐるりと面々を見渡す。そんな様子を見て笑みを浮かべながら挙手した野々口に、続けるべき言葉を失った範昭は黙り込む。
なるほど、水だと思ったあのグラスの中身は酒なのだ。そう思い至って、裕也は停止した。水と見紛う酒に、度数の低いものがあっただろうか? そして久蓮とて、いくらなんでも、そんな度数の酒に気付かぬはずがない。ちらりと野々口を見た。笑顔で頷かれ、裕也は口をつぐむ。――口は災いのもと、だ。
*
状況が把握できていない蒼に、範昭が解説をする――その言葉に被せるように、久蓮が範昭を褒め千切った。その言葉に真っ赤になって撃沈した範昭に裕也は同情を込めて苦笑した。
久蓮がこんなふうに酔っぱらう様を、裕也は以前にも見たことがある。それは昨年度末、先輩たちの追いコンの席でのことだ。当時の主将はじめ先輩たちにしこたま酒を飲まされた久蓮は、ふらふらになりながら先輩と部員たちへの愛を口にしていた――まさに、今のように。
「真平」
「――っ」
「お前、ほんと、強くなったよなぁ。前は紫吹の奴と比べられてヘコんでばかりだったのにさ。今じゃ十三分台目前だもんな。ねえ、ほんとはオレ、お前には、オレなんか忘れて、のびのび走って欲しかったんだよ。でも、そうだな、――やっぱりお前とまた走れて嬉しいよ。舞台は、オレ等に任せとけ」
「――っ、っ!」
久蓮の言葉を聞いて、裕也も嬉しくなってしまった。真平には、これ以上ない「ご褒美」だろう。真平の頑張りが、間違いなく久蓮に認められていることが嬉しくてたまらない。まあ、久蓮に限ってそこを見誤ることはないのだろうが。
久蓮は酒に弱いが、他人に大きな迷惑をかけることはない。こうして他人を褒め千切るほかは、静かに眠りに落ちるばかりなのだ。
「裕也」
「――っ! 、はい」
思考に飛んでいた裕也の鼓膜を揺らしたのは、無表情に似合わぬ、柔らかく溶けた久蓮の声だった。思わず過剰な反応をしてしまった。
「よく耐えて、よく戻ってきたね。今日の走りはいっとう良かった。お前の走りが戻ってくるのを見るのは嬉しい。真剣なんだ、当然悩むこともあるだろうけどさ。お前もまた、間違ってない――進め」
「――!!」
息を、呑んだ。久蓮ほどになれば、裕也の悩みなどお見通しということなのだろうが――それにしても、その言葉に嬉しさが馬鹿みたいに込み上げてくるのは、結局自分も単純だということだろうか。視線を泳がせているうちにどんどんと熱が湧き上がってきて、裕也もちゃぶ台に突っ伏した。
*
「昴さん」
「俺はいい」
「なんで」
中身は酒と知っているだろうに、また手元のグラスを口にして、久蓮は昴に声をかけた。そんな彼に待ったをかけた久蓮に、昴は小さく溜息を吐いている。
「大体お前、まだ正気だろう」
「なんで」
「言葉が、通じるだろう」
「ん。……や、ちょっと、そろそろ」
冷静に指摘する昴に、久蓮はあっさり頷くも、瞬間空けて、ぐらりとその身体が傾いた。慌てて支えた蒼にぐったりと沈んだ久蓮は、いつの間にか本格的に酔いの世界に引き摺り込まれていたらしい。
「昴さん」
「なんだ」
「……Спасибо」
「……、……お前な」
紡がれた言葉に、昴はわずかに眉を寄せ、机の上の瓶へちらりと視線を流した。わずかな間を空け、呟いた昴が片手で顔を覆って溜息を吐いた。ミルクティー色の柔らかい髪の隙間から、除く耳が朱に染まっている。蒼は久蓮を布団へと抱えていった。
そんな様子を眺めているうちに、裕也にも幾分余裕が戻ってきた。
「言葉が通じる、というのは?」
「ああ、それはですね。……彼、頭が良いでしょう?」
自身の問いに、皆が興味をもって耳を澄ましているのが伝わってくる。いつもの調子を取り戻した昴が、咳払い一つ、解説を始める。
「普段、物凄い速さで回転する思考の中から、僕たちに解るように言葉を紡いでいるのですよ」
「酔うと思考がとっ散らかったままってことだな」
「気を遣う余裕がなくなるわけですね」
昴の説明も、範昭の補足も、なかなかにえげつないことを言っている気もするが、正直、一年間あの主将の姿を見てきて、裕也に驚きはなかった。つまり、なんだかとても――納得できてしまう。
それじゃあ、先程の外国語は何だったのかと、翔太が問えば、昴は机の上の瓶を指した。彼が先ほど視線をやっていた、あの瓶だ。
「ロシア語です。言語を切り替えた意識もなかったでしょうが……。教授の、ウォッカの瓶が目に入ったのでしょう」
「……」
納得できるとはいえ――その瞳に映る世界は、一体どんなものなのだろうか。ふと小さな不安が過ったのだった。




