12.たとえ一方通行でも(天恵7年6月上旬)
「疲労骨折、全治二ヶ月半」
翌日。久蓮が告げた言葉に、裕也の胸はずきずきと痛んだ。全治二ヶ月半。その意味するところは、真平は北海道大学駅伝に出場できないということだ。あんなに努力をしてきた真平が走れない――その事実に、裕也はなんと声をかけたらよいかわからなかった。
*
衝撃の事実判明から、一週間近くが経った。
毎週、午後一番――つまり三限目は空きコマである裕也は、常であればこの時間を自習のために充てている。だが今日はなんとなく、時間を浪費したい気持ちになったのだ。差し迫った課題がないことも、そんな気持ちを後押しする一要因だっただろう。
そんなわけで裕也は、自身の在籍する歯学部からふらりと歩き出し、気が付くと構内南側――文系棟の正面にある、食堂横の池を訪れていた。昼休みは大勢の人でにぎわっている印象のあるそこだが、こうして講義時間内には人の影もまばらであった。
「あれ、」
ふと、見知った姿を見つけた裕也は立ち止まった。畔に設置されたベンチに座り、ぼんやりと池を眺めているのは、己の同期――真平だった。魂が抜けたように黄昏ている真平は、時折携帯に何事か文字を打ち込んでいる。
その姿があまりにも危うく見えて、裕也は急ぎ彼の元へと近づいた。
「おい――」
「ごめん……紫吹。――僕、やっちゃったよ……」
「――っ、」
声をかけようとして、裕也は慌ててその声を飲み込んだ。通話を始めたらしい真平の口から、聞き知った名前が聞こえたから。
紫吹――奥村紫吹は、箱根駅伝の常連校・駒河大学の二年生だ。そして同時に、真平の高校時代のチームメイトでもある。それが今、真平が電話をしている相手だ。それもこんな――聞いたこともないほどに、弱気な声色を前面に押し出して。
このタイミングだ。その内容はおのずと窺い知れる。
「……怪我、しちゃった」
「……」
真平は、裕也が近付いたことに気付かない。真平の吐き出した本音は、裕也にも突き刺さるようだ。その言葉に奥村がなんと答えるのか気になって、裕也は息を潜めた。
『久蓮さんは何て言ってるんだ?』
「予選は外す……って」
『そうか。――なら、こうも言ったろ? "本戦ではお前の力が必要だ "……って』
「なんで……」
『事実だからだよ。なあ、真平。何を迷ってんだ? まだ何も始まっていないのに。お前、そんな程度の覚悟で久蓮さんについていったのか?』
「――違う!」
『なら。解ってんだろ』
端末から漏れ聞こえてくる奥村の声は淡々としていて、そのことが逆に嘘偽りでない事実のみを伝えているように思えた。奥村が告げる言葉は、真平の事情をよく知っているからこそのものに思える。いや、それは言い訳だと解っていた。
『……言ったろ? ――まだ、時間はある』
「ごめん。……ありがとう」
『ああ』
諭すように告げる奥村は、真平がこのまま終わってしまうとは微塵も思っていないのだろう。冷静に現実を見つめるその言葉はどうだ――よく「冷静」などといわれる自分はどうだ。
「……情けない」
小さく自嘲の言葉を吐いた。
「何で俺じゃないんだ」なんて言えやしない。真平が電話をかけたとき、確かに奥村に嫉妬を感じたけれど――今の自分と彼とでは、天と地ほどの差がある。陸上の実力だけではない。事実、真平が彼を頼ったことが答えだろう。
*
通話を終えた真平が顔を上げたので、ばちりと目が合った。今更ながらに裕也は慌てる。これは完全に盗み聞きをした格好だ。
「悪い……偶然見かけて……」
盗み聞きするつもりはなかったんだ、ときまり悪く誤魔化した裕也に、真平はぱちりを目を瞬かせて苦笑した。真平が少し横にずれてくれたので、それを滞在の許可と取った裕也は小さく礼を告げてベンチに腰を下ろした。
「ごめん。裕也は止めてくれてたのに……」
「……俺には、お前の想いとかきっと全然汲めてないんだろうけどさ。まだたった二年だけど、お前のこと、ずっと隣で見てきたから」
罪悪感に塗れた言葉を聞くのが辛くて、裕也は言葉を紡ぎ始めた。面と向かって話すには照れくさい言葉だ。横並びに座っているのをいいことに、裕也は真っ直ぐ前を――池を見つめて話を続けた。
「俺が怪我したときも、励ましてくれて、助けてくれて、補強にもウエイトにも付き合ってくれてさ」
「当然だよ、そんなの」
「そう。お前はそういう奴だ。――だからさ」
「うん」
「たまには、俺たちにも――俺にも助けさせろよ」
「――!」
裕也は、真平よりもよっぽど実力もなく、きっと熱意も劣るだろう。それでも、同期を思う気持ちは負けていないし、真平ほどでないにしろ、久蓮の助けになりたいと思っている。
裕也の言葉に、真平は言葉を失ってただ目を見開いている。裕也から唐突にこんなことを言われても、信じられないのかもしれないが、それでも――。
「俺が信じられなくてもいい。俺はお前みたいな実力はないからな。でも、久蓮さんを信じてさ――」
「違う! ……違うんだ、皆を……君を信じてない訳じゃない……。ただ、自分が情けなくて、不甲斐なくて……それだけなんだ」
不甲斐ないことなど、何もない。そう思ったが、この同期はそれを告げたところで、自分を許せないだろう。だから裕也はこれからのことを告げる。
「そんなの。でも、その分全日では今より凄い走りを見せてくれるんだろ?」
「――っ、当然だよ……っ!」
「なら、それでいいじゃんかよ。怪我のことなら俺の方が先輩だからな。今度も一緒に乗り越えようぜ」
「裕也……」
理解している。けれど踏ん切りがつかない。それは、偏に自信の不甲斐なさ故だ。そう言った真平に、裕也は笑った。それは、真平がそれだけ真剣に考えているからだ。久蓮のためになりたいと思っているからだ。その意志で今まで目覚ましいほどに実力を伸ばしてきた彼は、きっとこれからもそうしていく――そうできる。
いつしか、真平の表情から、迷いが消えていた。
「そうだね。ありがとう!」
真平は、裕也に笑顔を向けた。その顔が頼もしく輝いているのを見て、もう、大丈夫だと――そう感じた。




