11.暗流横たわる前途(天恵7年6月上旬)
やっぱり、人間じゃないんじゃないか――そんなしょうもない夢想をするほどには、久蓮は超人的な走りをしてみせた。先日の記録会での蒼との勝負で十二分に驚いたというのに、今日の彼は、さらにその上を行ったのだ。
範昭と昴のいざこざがあった次の練習日。もともと予定されていた翔太の「特別メニュー」のほか、昴との真剣勝負をもこなしてみせた。
「……!」
「凄かった、ですね。主将……昴さんも」
辺りが薄暗くなってきた、帰り道。隣を歩いている大介がきらきらと瞳を輝かせていたので、裕也もしみじみと呟いた。その言葉に勢いよく頷いている大介。久蓮の、そして昴の姿は、間違いなく部員たちを勇気づけた。
「驚きましたよ。……昴さんに、あんな事情があったとは」
ぽつりと零したのは、今日知った、衝撃の事実だ。昴は、運動誘発性喘息を患っていたというのだ。二人の勝負の後――その様子を見る限り、それが嘘であるとは思わないわけだが。そんな事情があるからこそ、実業団選手ではなく院生なのだとすると、それはなんだか淋しいことだと思ってしまう。
久蓮の指摘する通り、「テレビで見た姿とは違う」のだ。テレビで見ていた超人じみた姿は崩れ、今共に走っているのは、確かに同じ「人間」――そう思える出来事でもあった。頼れる先輩で、ものすごい戦力だということは変わらないということも、解った。
「……あるんですね。こんなことって」
「……?」
「本当に偶然、なんでしょうか?」
「……」
思わず零した疑問は、ずっと考えてきたことだ。本来あり得ないのだ。久蓮、昴、蒼はいずれも世代ナンバーワンの実力を持つランナーだ。三人とも、本来あえて極北大に進学する理由などないはずだ。それでも、彼らはここにいる――。
「……」
小さく眉を下げていた大介が、「わからない」というように首を振った。そして、ぽん、と肩に手を置かれる。恐らくは、「気にするな」だろう。
「そう……ですよね。偶然だろうと必然だろうと……俺は久蓮さんの言葉と走りに夢を見た。その事実は変わらないです」
「――!」
もう、認めるしかない事実を口にすると、大介はふわりと笑った。
*
雲一つなくからりと晴れた土曜日。アップを終え、メニュー開始前の集合が始まったその場で、常にない久蓮の声が響いた。
「……真平、お前。今日は、帰れ」
険しく眉を寄せた久蓮は、硬い声色で真平に帰宅を命じたのだ。呼ばれた真平は、びくりと肩を揺らした。
ああ、と裕也は天を仰ぎたい気持ちになった。今のこのやり取りだけで、嫌な予感がびりびりと巡る。久蓮がこんな風に真平を呼ばう理由など、一つしかない。そう――。
「脚。痛むんだろ? 直ぐに病院行ってきな」
「嫌です」
「……真平」
「なんとも、ありません。走れます」
「それは、脚庇うのをやめてから言いな。お前、オレに隠れて練習してたろ」
裕也の嫌な予感は的中した。裕也が真平に忠告したのは、一か月半前のことだ。高校時代の後悔を胸に今ここにいるこの同期に、裕也の軽い忠告が意味を成すとは思えなかったけれど――こうして、皆の前で指摘しなければならないほどに、真平の脚の状態は悪いということだ。例えその足取りに、部員たちの殆どは違和感を覚えていないとしても。
「……のに?」
「え?」
「四年前、あなたは走ったのに? 蒼と昴さんがいるから、もう僕はいらないの?!」
「お前がそう思うなら、――そうかも」
「久蓮!?」
裕也が聞いていても、久蓮に分があるだろうと思われた二人の攻防。久蓮に軍配が上がりかけたそのとき、真平が悲痛な声で反撃した。
二人の間の事情など、裕也は知る由もない。それでも、その真平の言葉は、禁句なのだと容易く察することができた。瞬間目を見開いた久蓮の瞳には痛みが走り――そして温度のない言葉がばっさりと真平を切り捨てた。何を言い出すのかと驚愕に満ちた範昭の悲鳴じみた声が響く。
「お前、何の為に、ここまでのしあがってきたのさ。予選会の先に、何もないとでも?」
固まった空気の中、僅かに怒りを含んで尖った声色で溜息混じりに久蓮が言葉を続けた。その言葉の意味が頭に染み込んできたとき、裕也は漸く息を吐くことができた。
久蓮は、真平を見限ってなどいない――我らが主将がそんなことをする人であるはずがないことは、これまでの一年間でもよく解っているのだが。
「それくらいにしましょう、主将。――僕は今から病院なのですが……真平さん、ご一緒してもいいですか?」
硬直した場に、柔らかい昴の声が割って入り、久蓮の硬い空気が瓦解した。久蓮に「事の落としどころ」という助け舟を出すように微笑む昴は、確かに年長者の姿だ。謝罪と共に去っていく二人を見送りながら、先ほどまでの雰囲気が尾を引くこの空気に、裕也も皆も動くことができない。
「――ありゃ? わい等、タイミング悪かった?」
「や、べりーぐっど。――知ってて出てきたでしょ」
そんな空気をぶち壊すように、のほほんとした聞きなれない声が響いて、裕也はぎょっとして声の出どころを振り返った。目を疑う。そこには、極教大の主将・宮田悠と、その弟・同じく極教大一年生の宮田晃が立っていたのだ。極北大の練習に、突然極教大の宮田兄弟がやってきた。皆の理解が追い付くだけの間のあと、ざわざわと動揺が広がった。
ただ一人訳知り顔で笑む久蓮を見て、裕也は眩暈を覚えた。もしかして。久蓮は、こんな状況でさえも、意図して作り出したとでもいうのだろうか――?




