10.不協和音(天恵7年5月下旬)
あのレースを機に、蒼はあっさりと復調した。それどころか、今まで部員たちとの間に作っていた壁をあっさりと取り払い、しっかりと部員として振舞おうとしていた。その変化をもたらしたのは、正しく我らが主将――なのだ。
久蓮との勝負一本で、態度をがらりと変えた蒼を「単純だ」と笑うことは、裕也にはできなかった。傍から見ただけで、あれほど衝撃的で鮮烈な光景だったのだ。あの勝負の最中に身を置いていた蒼には、一体どんな景色が見えていたのか。
――――俺らでさえ、こうなんだからな。
裕也は苦笑した。今、不在の主将のしたり顔が目に浮かぶようだ。それでも、この身の内に燃えるやる気を無視することは出来ない。
窓の外、降りしきる雨を視界に映し、裕也は苦笑した。この豪雨の中「体調が万全でない奴はやめておけ」と範昭に言われても、今日のメインメニューを辞退する部員は一人もいないのだから。先の久蓮の姿は、皆に大きな影響を与えたのは、間違いなかった。
*
雲行きが怪しくなったのは、練習後のことだった。
「いい加減にしろよ、あんた」
練習を終えた皆が思い思いにケアや補強をしている、穏やかなサークル棟。その空気を、ただ怒りと冷たさを含んだ、そんな低く鋭い範昭の声が切り裂いた。もう一年以上の時を共にする裕也とて、目の当たりにしたことのない我らが副主将の本気の圧に、息を吸い込むことも忘れて視線を投げた。
「何が、ですか?」
「それ、だよ。いつもスカした面しやがって、気に食わねぇ」
「ほー」
「俺等をおちょくって楽しいか? あんた程の才能があれば、練習なんて要らねえってか?」
範昭の怒りの向かう先――それは、昴だった。当人は、その怒りをものともせずにけろりと言葉を返している。その温度差に、思わず身震いをした。
「真面目に走りもしないで冷やかしなら失せろよ」
「三年間彼の隣に居た貴方にしては、視野の狭い事を言いますねぇ」
「あぁ?」
「抱える事情など、誰しも同じではないでしょうに。――ああ、」
そこに他の部員たちがいることなど、忘れてしまっているのかもしれない。怒りのままに言い募る範昭に、あくまで冷静に、飄々と言葉を返す昴。場の空気は氷点下まで下がってしまっている。
ふと言葉を切った昴は、範昭の瞳を覗き込んで、再び笑った。その瞬間、嫌な予感が駆け巡る。
「心配ですか? ――彼の事が」
ガッ!!!
昴がそう口にした瞬間、範昭がその胸倉を掴んでひねりあげた。その勢いは、本気の怒りを孕んだそれだった。
「それなら、僕なんかに突っかかってないで、"彼"にそう言ってあげなさい」
「ちょっと!! そういうの! よくない、と……思い、……ます……」
「……悪ぃ」
「お騒がせしてすみません、皆さん」
まさに一触即発――そんな雰囲気を壊したのは、予想外の刺客だった。掴みかかる範昭と掴まれる昴の間に強引に割り込んで、二人を引き剥がした蒼は、次第に尻窄みながらも、仲裁の声を上げた。
後輩の健気な行動は、最年長の二人の毒気を抜くには十分だったらしい。言葉少なな謝罪を残してその場を後にする彼らを見送って、面々は漸く息を吐いたのだった。
「っはーーー」
「怖かったー」
「ノリ先輩怖すぎでしょ!」
「蒼よく頑張った!」
止めていた息を吐き出すように、面々が口々に呟く。憐れ蒼はバシバシと肩を叩かれ、もみくちゃにされている。
「でも。ノリ先輩の言い分、解る」
「あー、確かに。昴さんが凄いのは充分知ってるけどさ。不安にもなるよね」
「ノリ先輩、久蓮さんのこと大好きだもんなー」
張りつめていた分の明るさを取り戻すようにひとしきり騒いだ後、真平がぽつりと零した。真平のその言葉に、真矢も同意を返す。それは裕也とて同意だ。あの二人の絆は、たとえ真平とて入り込めないものがあるだろう。まあ、久蓮と真平の間にも、等しく他人には入り込めない絆があるのだけれど。
そう、結局のところ、そういうことなのだ。
「人それぞれでしょ」
考え方も、研鑽の仕方も、人それぞれなのだ。だって、範昭は「真面目に走りもしないで」、と詰っていたけれど。昴は別に、手を抜いていたわけではないだろう。それに、昴のような走り方――練習への取り組み方をする人間を、自分たちはずっと見てきたはずだ。そしてその人物は、先日蒼との勝負で驚異的な実力を見せつけたばかりだ。
確かに、「王者」と謳われたかつての片鱗は見えないけれど――必要なレースは外さない。そんな確信がある。
「うーん、何かあると思います。何か、理由が」
「何か、っていうと?」
「それは……おれの勘違いかもしれないけど、昴さん、たまに走ったあと、苦しそうにしてる気がするんです」
「練習がキツかったからじゃなく?」
「今日のペース、キツいです?」
何か事情がある、と主張するのは翔太だ。いつもの明るさを削ぎ落したような真剣な瞳には、確かにその通りだと信じさせるだけの力がある。
なるほど、確かにその通りなのだろう。だが、それでも。裕也は自分の考えが間違っているとは思わなかった。昴ほどの人物が、こうして自分から姿を現したのだ。当然「王者」としての「六連昴」を期待されることも折り込み済なのだ。それでも、昴はここにいるのだ。たとえ事情を抱えていたとして、それでも走れると――走ることを決意しているのだから。その覚悟がどれほどのものか、裕也には解らないけれど。




