9.比べるべくもなく(天恵7年5月下旬)
騒めきが、歓声に変わる。観客の視線は、一着でゴールラインを割った一人の選手に釘付けだった。グランドタイマーは、十四分八秒五四で止まっている。そのタイムは、篠崎久蓮としては決して驚くべきことではないのだが。その逆転劇、繰り広げられた蒼や東城との勝負、浮かべられた表情――そのすべてが、観る者を捉えて離さなかった。
「――久蓮……さん?」
ふと、不安そうな真平の声が鼓膜を揺らして、裕也は彼の同輩の様子を盗み見た。瞳を揺らした彼の視線の先には、当然、我らが主将。佇む彼の姿からは、真平が思うような不安要素は見つからない。もっとも真平には、裕也などには解らない何かを感じ取っているのかもしれないけれど。
佇む久蓮に、ゴールした蒼が近づいていく。そのまま一言二言交わした後、見開かれた蒼の瞳には、歓喜の色が浮かんでいた。
「流石……」
小さく呟いた。硬く強張っていた空気は、今や蒼からは微塵も感じられない。きらきらと輝く瞳に映るのは、久蓮ただ一人だけ――。
ふ、と。久蓮が観客席を振り仰ぐ。その仕草が、強い陽射しによく映えた。力強い色を湛えた瞳に射抜かれて、裕也は息を呑んだ。
「見たか? これが、お前らの主将だぜ。安心してついてこい!」
「――っ!」
どく、と、心臓が鳴った。馬鹿じゃないの、なんて嗤えなかった。自分にも、行ける気がしてしまった。こんな凡人の自分にも、久蓮についてさえ行けば――。
そう思ったのは、きっと皆、同じなのだろう。未だ興奮冷めやらぬ会場内で、唯一この極大ベンチだけが、息を呑んで静まり返っていた。
*
久蓮達がベンチに戻ってくるよりも前に、裕也たちのレース――男子一万メートルが開始の時を迎えた。蒼と久蓮、そして見学の昴以外の極北大メンバーは、全員この一万メートルに出場する。つまりは、招集所には――紺銀の大所帯、となるわけである。
先ほどの二人の勝負で、何か言いたいことはあれども、迂闊に近づけない。そんな雰囲気を漂わせて遠巻きにこちらを見ている他校の面々に、裕也は居心地悪く首を竦めた。他人は他人、と自分のペースを崩さない真矢が羨ましい。
「なぁ裕也~。君、知ってて極北に行ったの?」
「そんな訳ないだろ。びびったよ」
「それ、なんて強運……。あのシノさんが、篠崎久蓮……か」
「来たいのか?」
「まさか! 知ってるでしょ。僕ら、先輩だ~いすきなの」
「そりゃま、ちょっと残念だけどね。それだけ!」
ストレッチをしようと、少し端に移動した裕也は、極教大の同級生、植田耕平と仲木戸洋に囲まれた。二人とも、高校時代の同期だ。興味津々といった風に詰め寄る彼らに苦笑を返した。サプライズともいうべき現主将の自己紹介は、今も記憶に新しい。そう、今年の新入生二人を笑えるような出会いではなかったのだ、裕也も。
「こーら、耕平、洋! 極北さんにちょっかいかけるな、せめて走り終えてからにしろー」
「まーまー、ええやん健太、今日くらい大目に見てやろや」
「ったく、お前がそんなだからなぁ……」
「「先輩!」」
詰め寄る彼らを引き戻しながら、極教大の副主将・小隈健太が姿を現した。その後ろからひょっこり現れるのは、主将の宮田悠だ。極教大もいつものウチに負けず劣らず騒がしいな、と現実逃避じみた思考をしながら、裕也は二人に頭を下げた。
コールがかかる。レースが、始まる――。
*
情けない、格好悪い――そんなことは解っていた。
第二集団の先頭付近につけながら、裕也は呼吸荒く駆けていた。前を走る極教大の選手は一年生。先を行かれていることに悔しさはあるが、レースはまだ中盤――まだまだ勝機はある。そして、この青年に勝ったとて、そこで満足するわけにはいかない。
「それでも、走るんだろ……!」
ぎり、と歯噛みして、裕也は少しペースを上げた。まだ、行ける。現状をそう判断した結果だ。焦っているわけではない。瞬間流れるスピードが上がった景色は、それでも彼らには及ばない。
そう考えて、それでも今、裕也の心には絶望はなかった。だって、彼らは味方なのだ。そんなに心強いことはないだろう。
「なんだ、裕也。調子上がってきてんじゃん?」
「いつまでも、……グズのままではいられない……!」
いつまでも、怪我に蹲るだけの自分では、いられないのだ。
凡人――その事実は変えようがない。怪我をしやすいのも、変わらない。でも、それでも――。
「あの人に、ついていきたい」
それは、偽らざる想いだった。
久蓮についていけば、裕也独りでは決して見ることのできない景色に辿り着くことができる。それは、確信だった。そしてその景色は、かつて遠い昔に裕也があっさりと諦めた、淡い夢の欠片――なのだ。
*
記録を確認しに来た、アーケード下。そこで久蓮達に出くわした極北大の面々が、平常心でいられるはずもなく。知識として知ってはいたけれど、ホンモノを目にした衝撃は、映像の比ではない。
一度に詰め寄った面々を、久蓮はにこやかに出迎えてくれた。あのレース直後の頼もしさは鳴りを潜めた――いつもの久蓮だ。
「うん。ナイスランだったよ、皆!」
ふにゃりと笑うその顔に目を見開いた一瞬に、ふわりと頭が撫でられる。その瞬間に込み上げる歓喜――自身の予想外の感情に、裕也は目を細めた。これでは、真平のことを笑えないではないか。
裕也はふ、と苦笑した。よくよく考えてみれば、そんなこと、今更だ。久蓮の示す道の先へ――その決意は、固まったのだ。




