8.頂を望む(天恵7年5月下旬)
土曜日。空は気持ち良く晴れている。
今日の日――久蓮と蒼の勝負の時を楽しみにしていたのは、何も当事者だけではない。ここ最近不調に沈んでいるとはいえ、インハイ覇者という鳴り物入りで入部した蒼。その相手は、四年ぶりに公式レースに復帰する、かつて「無敗の帝王」という二つ名を恣にしていた天才――篠崎久蓮その人なのだから。
「いってらっしゃい、蒼!」
「ああ」
エールを送る翔太に答える蒼の雰囲気は、今までよりもよっぽどいいものだ。その姿に安堵するのは、裕也ばかりではなかった。隣に座る大介がほっと息を吐くのを感じ、裕也も頬を緩めた。
「よし!」
力強く気合いを入れてアップへと向かう蒼。
一方の久蓮はと言えば、範昭に何やら声をかけている。用事が済んだらしい彼は、緩く伸びをすると、パラパラとプログラムを捲り始めた。何の気負いもない、いつも通りの穏やかな久蓮だった。
「じゃ、そろそろ行くね」
ひらひらと軽く手を振り、久蓮がアップに向かったのは、蒼が発ってから三十分近く後のことだった。ふらりと気軽に出かける姿に、裕也は思わず真平を窺った。何の驚きもないその様子に、昔からあれが久蓮の「いつも通り」なのだと悟る。
蒼と、久蓮。今、ここにいない部員はその二人だけだった。今日は、彼らが五千メートルの勝負。そして、残りの部員たちは皆一万メートルのレースに出場するからだ。
「いよいよだな」
「うん……!」
あれだけ久蓮の復帰を喜んでいた真平だったが、意外なことに、希望したのは一万メートルだった。それを問えば、「レースをしっかりと見たいから」――苦笑しながらも瞳を輝かせてそう答える真平に、裕也は「そんなものか」と思った。そこまでの熱量は、自分には解らないものだ。
それでも、胸が踊らないはずがない。二百メートル地点――五千メートルのスタートラインに並んだ選手たちを目にした裕也は小さく呟いた。
*
「固いなー。どうしちゃったんだろう?」
レースが始まり、走り出した彼らを見て、真矢が首を捻って言った。真矢の言う通り、蒼の動きは酷く固い。それは、先日の北海道インカレの時のようで――ここ最近調子を戻していたのが錯覚かと思えるほどの惨状だ。強張った顔で、苦しそうに前を追う蒼の姿に、裕也は目を細めた。一体蒼は、どうしたというのだろうか。
「どうして蒼は、極北に来たんでしょうか……」
「うーん……」
「このままで、終わるはずがない……!」
「――え?」
裕也は思わず、ぽつりと呟いていた。蒼は、「インハイ覇者」という、とんでもない経歴の持ち主だ。望むまでもなく、複数の箱根常連校からのスカウトがあったはずだ。それでも、ここにいるのは、もしかして――そう考えたその時、真平が鋭く声を発した。
蒼の様子を窺いながらに後ろにつけている久蓮は、まだまだ余裕そうな脚運びだ。それでも前に出ないのは、今日のレースは蒼との勝負だと位置づけているからか。――ならば、あの抜かりのない主将が無策でいるはずがない。些か妄信的にも思えるその考えは、けれども決して間違ってはいないのだろう。きらり、と久蓮の瞳が光った――その、瞬間だった。
「え、」
突如、久蓮の動きが変わった。それは、今まで見たことのない走り――いや。反射的に追い縋った蒼の走りを見て、裕也は自分の考えが間違いであったことに気付いた。「見たことのない走り」ではない。ただ、久蓮の走りではないだけだ。蒼を導くように走る久蓮の走りは、目を疑うほどに、蒼だった――。
ベンチで見ていた部員たちは、一様に声を失ってその光景に魅入っていた。「魔法のよう」――そんな表現がぴったりと嵌るそれ。ぽつりと落ちた翔太の呟きが、静まり返った場の空気を、いやに大きく揺らした。
「あおがふたり?」
*
レースはまたすぐに、その状況を変えた。久蓮が蒼に笑いかけた――遠目からでもそうと判った。次の瞬間――久蓮は、常の走りに戻っていた。
先ほどまで独りでレースを作っていたのは、久蓮だった。しかし、今やその舞台は二人のもの――全身で楽しいという感情を爆発させ先頭へと迫っていく彼らは、きっと今、眼中には互いの存在だけがあるのだろう。そしてそのペースは、まるで異次元。まさに「天才」のそれだ。
「完全に遊んでますね」
「あーあ。御愁傷様」
「……」
ぽつりと呟く昴の言葉には、特段の感慨もなく。冷静に現状を告げていた。それに呼応するように落とされたのは、範昭の憐みの呟きだ。恐らくは、今まさに異次元のレースを展開する後輩に向けられたそれ。その真意は――裕也にも解る気がした。
「無駄なのかな。おれなんかが、努力しても……」
「馬鹿かてめぇ。……無駄なら今、ここにはいねーよ。俺は」
聞いたこともないほどに弱気な翔太の声だった。裕也は驚いた。それは、元気なはずの後輩の常にない姿に――というだけではなく。この光景を見て、まだそこを目指そうとする翔太の意思の強さに。
不安に震える後輩に、範昭のかける言葉は優しい。酷く複雑な感情の入り乱れたその言葉。翔太が目指す先を、範昭は見ていない。範昭は、こちら側だ。この三年間誰よりも傍で「天才」を見続けて、それでも未だ走り続けている――そのことが、どれだけ凄い事か。
「どっちもどっち……か」
小さく呟いた言葉に、ちらりと大介がこちらを見る気配がした。なんでもないです、とゆるりと首を振る。
恐ろしいほどの才能を見せつけられても尚同じ高みを目指すことも、自身はそこに辿り着けないと知りながらも、彼らを支えて自身の路を進むと決意することも――等しく険しい道だろう。
――――では、俺の路は――?




