7.皆の想いは(天恵7年5月下旬)
彼の天才も人間なのだ。先の不調に引き続きそんなことを思い知ったのは、北海道インカレから一週間以上が経ったころのことだ。
何があったのか裕也は知らないが、あのインカレの日以降、蒼は酷く苛立ちを見せるようになった。それは、もちろん自身の走りへ。ということもあるのだろうが、――専ら我らが主将・久蓮に向いていた。蒼の苛立ちを一身に受ける当の久蓮はにやにやとしたり顔であるからして、この状況は久蓮の思惑通りなのだろう。
「っても……いいのか、これ?」
苛立ちを逃がすようにガシガシと地面を蹴っている蒼を眺めて、裕也は溜息を吐いた。どう声をかけたらよいものか。いっそのこと、触れないほうがよいのか。それを判じるには、裕也は蒼のことを知らなすぎた。そしてそれは、他の部員たちも同じようだった。
広がる困惑の空気の中で、久蓮だけが笑みを湛えている。人間らしい感情を見せている蒼と対照的に、こちらは本当に人でない何かのようだ。そんな夢想をして、裕也は首を振る。馬鹿らしい考えをしている場合ではない。
*
「あおー! レポート教えてー」
「あ? っ、……何のレポートだよ?」
「ドイツ語!」
「他所へ行け――僕はフランス語選択だぞ! 同じクラスの奴はどうした?!」
ダウンを終えて、サークル棟で補強をしていた裕也の耳に、物怖じしない新入生――翔太の声が響いた。その声が向かうのは、絶賛苛立ちオーラを垂れ流し中の蒼だ。凄むように呼びかけに反応した蒼は、けれども思い直したように声を和らげた。それは八つ当たりだと思ったのだろうか?
わいわいと言い合う二人を見ながら、裕也は思わずくすりと笑った。どうやらこの後輩――尖ってはいるけれど、根は素直らしかった。
「……はぁ。……で? いつまでなんだよ?」
「明日の朝イチ」
「はぁ? バカか!? ……バカだったわ……」
「ひどいー。あお助けてー」
翔太の粘りに結局折れてやる蒼。そうして始まったのは即席の勉強会だ。一つの問題を覗き込んで唸るその姿はなんだか微笑ましい。
そんな彼らを見守るのは、裕也だけではなく。にやにやと嬉しそうな久蓮に、呆れたような範昭。この部活のツートップ二人の会話をBGMに聞きながら、真平と真矢と視線を交わした裕也は、彼らに声をかけるタイミングをそっと窺った。
*
暫く悩んだ末に集中力の切れた二人。そんな彼らに皆で声をかければ、「救世主!」とばかりにきらきらした瞳で見上げる後輩がかわいくないはずもなく。流れるように開催が決まった勉強会。ここに久蓮と範昭が居ないのは残念だが、彼らに面倒ばかりかけるわけにはいかないだろう。
皆で食事を終えて、大学図書館にてそれぞれの課題に取り組む現在だ。当初の目的であった翔太の課題を終えて、皆の課題にもきりが付きつつある。やや疲れが見え始めた蒼や翔太を見遣って、裕也は真平と視線を交わした。
「やっぱ久蓮さんのご飯がいい~」
「そろそろお開きにしますか」
そうして頷きひとつ、声を上げた真平の言葉に、裕也は思わずずっこけそうになるのを堪えた。話題はなんでもいいのだけれど――それにしたって真平らしい。そんな真平の言に乗っかった真矢の言葉で、勉強会はお開きとなった。
「てゆか、久蓮さんが居れば一発だったんだけどなー」
「頭良いっていう次元じゃないですよね」
「だからじゃん? 俺等に交流して欲しかったんでしょ」
街灯に照らされた帰り道。思い出したようにぽつりと真矢が呟いた。すかさず同意するのは真平だ。今日の久蓮の様子を見るに、彼がここにいないのはおそらくわざとだ。そんな感想を述べれば、頷く大介の気配。
「まあ、久蓮さん、研究室めっちゃ忙しいらしいし……」
そう言って肩を竦める真矢に、裕也はいつも忙しそうにする久蓮を思い浮かべた。怪我をした裕也の自主練に付き合ってくれた久蓮だが、片手間に研究のプログラムを動かしていた。
学部四年生にして研究者顔負けの内容を、弱音も吐かずにこなすのだ。学外の共同研究先ともたくさんのテーマを動かしているという。要求する教授も中々だが、求められた以上の役割をきっちりとこなす久蓮も大概だ。
「でも今日、めっちゃ助かりましたよ!!」
「僕も……かなり捗りました。ご飯も奢ってもらって……すみません」
「そういう時は、"ありがとう"でいいよ」
「こちらこそ! またやろうな」
先輩方と勉強できてよかった、と、明るく告げる翔太に、眩しそうに目を細めながらも本心であろう想いを口にしている蒼。どちらももうかわいい裕也たちの後輩だ。彼らの四年間が、明るく楽しいものであるといい。そう願っているのは、裕也だけではない。この部の誰もが、そんな未来を願っている。そのことに、この淋しい目をした後輩が気付くのも時間の問題だろう。
けれどきっと、そのことについて裕也が案ずるべきことはないのだろう。にやりと笑んでいた我らが主将を思うに、彼はきっと「策」を用意している。そしてそれは、裕也が思いもかけないものなのだろう。――いつだってそうなのだ。
それぞれの家に向け道を分かれていく彼らの背を見送って、裕也はひっそりと口角を上げた。




