6.未だ闇の中(天恵7年5月中旬)
昨日の強い雨が嘘のような快晴。極北大の面々は北海道インカレの二日目を迎えた。裕也は男子八百メートルのスタートを控え、召集所――スタート地点で大介、翔太と共に待機していた。
「翔太、大丈夫?」
「……、……はい」
――――全っ然、大丈夫じゃないな!?
自身も緊張してるものの、あまりにも固いこの後輩の様子に、見かねた裕也はそう声をかけた。沈黙の末に返された、あまりにも強がりなその声に、裕也は言葉を失った。ガチガチに固まる翔太に、何と声を掛けたら良いものか。
思い悩んでいると、この場にそぐわない、明るくそしてふわふわとした声がその緊張を切り裂いた。
「よー、皆サン、元気してる?」
「久蓮さん……!」
「――!」
「主将!」
我等が主将の登場に――そして彼があまりにもいつも通りだったから、裕也は安心して息を吐いた。大介に声をかけ終わったらしい久蓮が、こちらを向いた。
「裕也。――大丈夫だから。思い切りいきな」
「……はい」
また怪我をするのが怖いのだ。久蓮は、こんな裕也の不安さえもよく理解しているようだ。大丈夫、と頭を撫でる手は優しい。
「モモ」
続いて、翔太にアドバイスを授けている主将の悪巧み顔をぼんやりと眺めながら、裕也は拳を握り締めた。やってやる。いつまでもこのままでいられるか――と。
そんな裕也の背に、コールがかかった。
*
パァン。
号砲が鳴り響き、レースが始まった。一斉に走り出す選手たち。裕也も負けじとスタートラインを飛び出した。我ながら、良い飛び出しだったと思う。いつもの自分なら、思い切れずに中途半端な位置につけて不完全燃焼していただろうから。それにしても、先のT.T.で恐ろしいまでの突っ込みを見せていた翔太が、いないとは。つまりは、現状自分よりも後ろにいるということなのだが――違和感しかない。恐らくは、久蓮が何か言ったのだろうけれど。
たった二周のレースは、あっという間に前半戦を終えることなる。ラスト一周の鐘が鳴り響き、集団のペースにもぐっと力が入る。
「――っ!」
裕也も、集団の波に乗り、腕を振る。隣の選手の息遣いすらも振り払い、先を目指す。バックストレートを抜けた時、一陣の風が、裕也の頬を撫でた。
「……え?」
風の正体は、翔太だった。見慣れた紺銀のユニフォームが、視界の端から勢いよくフレームインしてきた。一瞬で置き去りにされた。この春、陸上を始めたばかりの彼に。自分とて、全力でスパートをかけているというのに、だ。その痛快さは、いっそ清々しい程だ。
ぐんぐんと順位を上げ、そして並みいる強者を差し置いて三着でゴールした己の後輩を唖然と見つめながら、裕也は自身も必死でゴールラインを割った。
*
号砲が辺りに響く。トラックでは男子一万メートルが始まった。
「しーんぺいせんぱーーい、ファイトー!!」
「真矢ーーーッ! ついてけッ!」
ここ――極北ベンチでは、範昭や翔太たちが声を上げて応援をしている。走るのは真矢、そして真平だ。そんな彼らを見ながら、裕也は複雑に絡まった自身の心と、独り格闘していた。
――――俺は、俺なりに努力してきたつもりだった、のに――。
そんな裕也の努力を、翔太は軽々と飛び越えていった。その瞳は、ひたすらに前を見て、此方を振り返ることもなく――。
「……羨ましい……」
裕也は、小さく小さく、呟いた。誰にも拾われることがないように。自分がこうやって悩んでいるその上を、簡単に飛び越えていける翔太が羨ましくて仕方がない。もし翔太のような力が自分にあれば、もっともっと真平の力になれたのだろうか。そして、あの天才に、少しでも近づくことが出来ていたのだろうか……?
ダメだ。裕也は諦めと共に首を振った。この感情の出所を、裕也は痛い程知っている。これは、嫉妬だ。つまり、皆への劣等感。質の悪い嫉妬――この感情の行きつく先が、まともである筈がないのだ。
「彼は調子が悪いのですか?」
「えっ」
「そんな事ない、と思いますけど……」
聞き馴染みのない声に、困惑した翔太と範昭の声。裕也は沈んでいた思考の渦から浮上し、声のする方を見た。ベンチに居る来訪者――やはり、見覚えはない。
五千メートルを過ぎ、レースは終盤に差し掛かっている。先頭は東城と、続いて那須、宮田、そして真平と続いている。裕也は意識をレースに戻し、応援を再開した。レースは帝北大の二人に続き、宮田に僅かに競り勝った真平が三位でゴールした。
――――凄い……!!
今までずっと勝てていなかった、極教の宮田悠に、怪我明けとはいえ競り勝ったのだ。真平は、努力の数だけ、着実に強くなっている。
「気を付けてあげたほうが良いかもしれません」
「どういうこと、ですか?」
そんな裕也の感動に、来訪者の青年は不穏な言葉で水を差した。範昭が訝し気に問うたそのとき、ベンチに久蓮が戻ってきた。その表情はどこか固く、裕也は嫌な予感に包まれた。久蓮は普段、自身の不安を滅多に見せない人だから。
ベンチへ辿り着き顔を上げると、久蓮は件の青年をその視界に映して固まった。久蓮は一瞬目を瞠り、そして即座に訝しげな表情を浮かべた。
「どうしてアンタがここにいるの? ――六連、昴――サン」
――――え?
「ホー。やっぱり君にはバレますか、篠崎久蓮、さん」
「なにその口調キモチワルイ」
「酷いな」
久蓮の言葉に、裕也は驚愕した。自身の聞いた言葉を、信じたくない――そんな気持ちだ。だって、その、名前は――。けれど、あまりに気安い二人の遣り取り。これは、もう、信じざるを得ない。
「はじめまして、極北大学大学院生命科学院一年。六連昴、です。よろしくお願いしますね」
柔和な笑みを浮かべ、此方を見回してそう言い放った彼は、かつての姿とは似ても似つかない。けれど、その名前は――箱根の"王者" 青谷学園で、四年連続区間賞を獲得した、あの天才の名前なのだから。
――――こんなことがあるのか? こんな、偶然が――?
もしかしたら、これは偶然ではなく――必然なのかもしれない。裕也たちが巻き込まれた大きなうねりは、こんな奇跡さえも引き寄せているのかもしれない。そんな夢想をしてしまうほどに、この現実は――。




