4.表と裏とは大違い(天恵7年4月下旬)
「おい、真平。お前。なに焦ってる」
裕也が真平にそんな声をかけたのは、あのミーティングの翌日のことだった。練習終了後、日が落ちてきた薄暗いグラウンドで独り居残って走り続けていた同期の姿が、あまりにも危うく見えたから。誰も居なくなったグラウンドで、ただ独り走っている、その姿が――。
「別に、いつも通りだよ?」
「嘘だね。お前、気付いてないのか? いつもよりフォームが荒いよ」
「……」
誤魔化したような作り笑顔を浮かべる同期の言葉をバッサリと切り捨てて指摘する。途端に目を丸くした彼は、そんな自身の変化にも気付いていなかったということだ。普段の真平は、そんな奴ではないのに。
真平がそれほどまでに焦る理由など、一つしかない。ましてや、このタイミングではなおのことだ。
「『久蓮さん』か――」
「……」
図星を突かれて黙り込んだ真平に、裕也は心がざわざわと騒めくのを感じた。これは、良くない傾向だ。「一生懸命」と「焦ること」は、紙一重のようで大違いだ。もたらす結果は、真逆にもなり得るほどに。
「やめとけ、とは言わんけどさ。だが、あまり入れ込み過ぎるなよ。……こんな無茶続けてたら、いくらお前でも怪我するよ」
今まで見てきた、この同期の久蓮への想いを思い返せば、言うだけ無駄だとも思う言葉。けれど、裕也は言わずには居られなかった。
「そんなの、……」
「無理、――ってか」
「……」
ぽつりと口を開いて、けれども結局黙り込んだ真平に、裕也は諦めた。今言い募っても、真平の心には届かないと解ったから。それ程までに、この同期の心には、久蓮が棲み付いている。
それでも、そんなお前が心配なんだよ。そんな思いは、口には出さずに。軽く溜息を吐いて、裕也は真平の練習を強引に中断した。
「ま、良いけどさ。とりあえず、今日は終わり。――ダウン行ってこい。見てるからな」
「う、ん」
その言葉に頷いてのろのろとダウンを始めた真平を見送りながら、裕也はもう一度溜息を吐いた。
*
一足先に戻ってきたサークル棟は薄暗く、既に人の気配は無かった。既にだいぶ遅い時間なわけだが、もし裕也が止めなければ、あの秀才はいつまで走り続けていたのだろうか。――そこまで考えて、栓無いことだと首を振る。やめよう。
先程まで自身が使っていたストレッチマットの隣にもう一枚並べ、氷嚢に氷を補充し終えたところで、真平の気配が室内の静寂を揺らした。
「ほら、冷やせよ」
「……ありがと」
裕也は氷を差し出して、準備していたストレッチマットに誘導した。少しでも早く、きっちりとケアを始めさせるためだ。
自身は隣に敷いたマットで補強を始めながら、裕也は口を開いた。
「俺は、嫌だよ。お前が怪我で躓いてる所なんか見んのは」
「ごめん……」
裕也は、怪我の怖さを、嫌と言うほど知っている。去年一年間だけでも、三回も怪我で練習の中断を余儀なくされた。苦い記憶だ。漸く記録が伸びてきたと思った瞬間の、練習中断。皆の走りをただ見ているだけしか出来ない悔しさ。そして何より、身体に走る痛みの恐怖。どれもこれも、脳裏に焼き付いて離れないのだ。
だからと言って、それは裕也がいつもレースで冒険できないことへの言い訳にはならないのだけれど。
――――でも、怖い。
長かった怪我の療養期間、裕也は補強や筋トレを徹底した。同じ過ちを繰り返さないように。それが功を奏してか、最近は怪我なく練習が積めつつある。けれどそれでも、身体に染み付いた恐怖はなかなかに消えてくれないのだ。そんな想いを、この同期にして欲しいとは思えない。
真平は、裕也の憧れだ。久蓮のような鮮烈な才能の煌めきはないけれど。必死に努力して、その天才達に追い縋る、裕也の希望の星なのだ。
「……ありがと」
なんとも殊勝な真平の言葉に、裕也は片眉を跳ね上げた。
*
疎らな街灯が照らす原生林の路を、二人並んで歩く帰り道。隣を歩く秀才を視界の端に眺めながら、裕也は眉を寄せていた。
これも、主将の思惑通りだというのだろうか……? 突然動き出した、久蓮の選手としての時。提示された目標に、この真面目な青年が焦りに駆られることまでも、久蓮は予想できていたというのだろうか?
「……でも、知ってて放置する人じゃない……」
小さく吐き出した呟きは、きっと間違っていない。久蓮は、部員が怪我する恐れを予見して尚そのまま何も手を打たないような人ではないのだ。――裕也の怪我とて、忠告を受けても走り続けた、自分自身の過信こそが原因だったのだから。真平が何も言われていないということは、怪我の兆しはないということだ――少なくとも、今は。
それでも、この先は分からない。久蓮に何か考えがあるのか、そもそも真平の思いにあまり気がついていないだけなのか、それすらも、裕也には判らないのだ。ほんとうは。
――――焦るべきは俺……だよなぁ。
アスファルトの切れ目から生える草に意味もなく視線を遣りながら、裕也は嘆息した。
チームの足を引っ張り続けている現状に、誰も何も言わないが。本気で全日を目指すなら、間違いなく、このままではいけないのだ。
「――っ、」
びりり、と、突如走った激痛。――錯覚だ。それは怪我をしたあの日の記憶――未だ拭えていない恐怖の記憶だ。ちらりと此方に視線を投げた真平に小さく首を振り、裕也は路の先を視界に映した。
原生林の先、十字に走るメンストは、街灯で明るく照らされていた。




