2.現実に揺れる(天恵7年4月下旬)
四月下旬。まだ寒いこの時期に例年行われる、第一回月例記録会。
会場の喧騒はどこか遠く、アーケード下の掲示板に貼り出された紙を囲む極北大の面々は、一様に憂鬱な面持ちを浮かべていた。
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順位表 男子5000M決勝 1組
1着 東城皇 (4)帝北大 14'09
2着 那須伊織(1)帝北大 14'19
3着 北市陞 (3)帝北大 14'25
4着 岩本真平(2)極北大 14'25
……
23着 富樫裕也(2)極北大 15'38
……
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張り出された順位表に印刷された結果は、裕也に現実を突きつけていた。
十五分三十八秒、二十三位――自己ベストより三十秒もも遅いこの結果が、現在の現実だ。二ヶ月前に漸く怪我から復帰して、この結果。チームの中でも最下位――比較的長い距離が苦手な大介よりも遅いとは。調子は上がってきたと思っていたが、うまくいかないものだ。
「情けない……」
小さく呟く。不調の理由は、解っている。まだ恐怖心があるのだ――また怪我をするのではないか、と。
裕也は悲しくなって眉を下げた。走りたくて走っている、その筈なのに。こんな風に、レースに身が入らない自分が悔しい。
「マズくないすか? ……これ」
「まぁ……、帝北……ここまでとはな」
「……」
「プログラム見てある程度予想はしていましたが……」
内省に沈んでいた裕也の思考に、チームメイト達の重い声色が割り込んできた。真矢の言葉に範昭が悔しそうに頷いている。そして、神妙な顔で佇む大介。
裕也でも知っている名将・篠崎鉄人が、わざわざ北海道に呼ばれて率いるチームなのだから、強くて当然なのだろう。それにしても――。
「よくもまた、こんな面子を引っ張ってこれたものですよ。この粒の揃い様は箱根出場校にも引けを取らないのでは?」
名将の力とは、計り知れないということか。
「おい、ダウン行くぞ」
沈鬱な空気が流れるなか、範昭の呼びかけにのろのろとダウンジョグを始める。
「久蓮さんも、なんでまたこのタイミングで全日なんだろう……」
沈黙のジョグを少し続けた後、ずっと俯いていた真矢がポツリと呟いた。その声色は、常に明るい真矢のイメージからはかけ離れたもので、裕也は目を細めた。
「多分……このタイミングだから、なんです」
「え?」
「……?」
「それは、蒼が来たから、ということ?」
「いや、蒼は関係ないです」
多分、と言いつつも、随分と確信を含んだ、己の同期の言葉。どういうことかと裕也が見詰める傍ら、真矢の疑問に真平はそう言い切っていた。
「蒼が極北に来たのは、言わばイレギュラー。帝北が新設されたこのタイミングだから、久蓮さんはまた走り始める。そして、僕たちは全日に出なければならない」
そこに、どう因果関係を見出だしたかは解らないが。真平と久蓮にしか解らないこともあるのだろう。だが――。
「でも実際厳しくないか? 帝北は……」
「ホントは……久蓮さんが居れば勝てる。……けど嫌なんだ、もう、あの人に頼りきるのは……!」
裕也は静かに呟いた。今日の結果を見ても一目瞭然だ。帝北と極北とでは、チーム力に差がありすぎる。対して真平が絞り出した言葉は、些か盲信的だ。そして、そう感じたのは裕也だけではなかったようだ。
「ちょっと待って。主将が異常に速かった事は俺も知ってる。けど、俺は大学で主将が三分ペースより速いペースで走っているのを見たことないよ。流石にそれは盲信しすぎじゃないの?」
「勝てます」
「真平、ムキになってるぞ。落ち着け」
「理屈じゃないんだ……!」
「まあ待て」
真矢の言葉に、けれども真平ははっきりと断言した。まるで、それがこの世の理であるかのように。
その答えに、真矢の雰囲気がぴりりと尖る。険悪になってきた空気に、大介がおろおろと真矢をなだめている。そんな様子を見て、裕也は真平を止めるために口を開いた。空気を切り裂いた範昭の静かな声が、尚も食い下がっていた真平の熱を冷ました。
「兎も角だ。今までアイツが、俺達に出来ない目標を課したことがあったか?」
「……ない、ですね」
「!」
「キツかったけど」
「鬼畜だったけど」
「………」
範昭の言葉に乗っかって口を開きながら、裕也は考えた。確かにその通りなのだ。課せられるのはいつも厳しい目標の筈なのに、気が付くと達成している――その繰り返しなのだ。
「だよなあ!? ……知ってるか? 俺、高校ベストが十六分三十二秒だった一年の時の目標、『秋までに十五分二十秒切る』だぞ? 殺す気か!」
「で、達成したと」
「あぁ。鬼畜メニューのお陰でな」
「すご……」
「お前等も似たり寄ったりだろ」
「確かに……」
「や、でも流石にそこまでは……」
「なんだと!」
範昭の言葉には、若干の私怨が混じっているようだ。語気荒く告げられたそれに、苦笑する。範昭も久蓮には容赦がないが、逆もまた然りだと思う。お互いのその遠慮のなさは、信頼の証――羨ましいほどだ。
「ま、まあ、つまりだ。いつも通りってことだ」
「あー……確かに」
「これからまた、鬼畜メニューですねぇ!」
「今までどーり!」
まるで予定調和のように収まっていく場の空気に、真平が眉を下げている。その様子を目にして、裕也は罪悪感に駆られた。だって、真平にそんな顔をさせている一端は、自分にあるだろう。遅い自分が、足を引っ張るから。
賑やかな輪の中で、裕也はひっそりと拳を握り締めた。




