1.時はうねる(天恵7年4月中旬)
新入部員・桃谷翔太を迎えた、その一週間後。同期である岩本真平が、酷く遠い目をして虚空を見詰めているのが目に留まった。「まただ」、と富樫裕也は溜息を吐いた。真平は、時折そんな顔をする。そしてこの同期にそんな顔をさせるのはいつだって、篠崎久蓮その人なのだ。
"無敗の帝王"などという通り名を付けられた高校生。その八面六臂の活躍を目の当たりにして、少しでも役に立ちたいとか追いつきたいとか思えることが、どれだけ凄いことか。
「お前、解ってるのか? そこんとこ」
真摯な光を湛えて彷徨う真平の瞳をちらりと見遣って、裕也は小さく呟いた。
必死に練習を積むこの同期を、ずっと隣で見てきたのだ。そして、切に感じてきた――この同期のようにはなれないと。高校卒業後に姿を消したという彼を、ヒントはあったとはいえ執念で探し当て、追いかけてきた真平の執心っぷり。感服しつつも、とても心配だ。
「はぁい、集合するよー」
いつの間にか練習開始の時刻になっている。いつも通り、緩い掛け声が響く。けれども、真平は未だに思考の底にいるようだ。
「真平」
呼び掛けてみるも、反応はない。ここまで入り込むのは珍しかった。集合を止めるわけにはいかない。それに、この同期がいつまでも過去に囚われているというのも、なんだか不服だ。
――――俺らは"現在"を生きてるんだぜ、真平。
「おーい、真平さーん。――真平?」
「え? ……あ、……ごめん、何?」
「"何?"じゃない、集合だ。いくぞ?」
「あ、うん!」
内心で唇を尖らせてその顔を覗き込み、正面から呼び掛けた。ぴくりと反応した真平は、ゆっくりと現在に焦点を結んだ。やはり、外の刺激は全くシャットダウンしていたようだ。
――――"あなたにあんな顔をさせないために、僕はここに来ました"。
ここで自己紹介をした、一年前のあの日。真平は大真面目にそう告げた。真平がこんなにも過去にトんでしまう程に、久蓮のあんな顔とは深刻な問題なのだろうか。心配だ。きっと久蓮はそれを望んでいないだろうに、抱え込んでしまおうとしているこの同期が。
裕也は真平と連れ立って皆の元へと駆け出した。
*
いやいやいや、そんな馬鹿な。
久蓮に連れられて集合の場に姿を現した青年。自己紹介をする彼のその言葉を聞いて、裕也は驚愕に目を瞠った。
「どもっす。如月蒼です。……よろしくお願いします」
「……ってそれだけかよ!」
硬く強ばった表情で、青年――如月蒼は言葉少なにそう名乗った。あまりに簡潔なそれに、すかさず範昭が突っ込みを入れていた。その言葉に、若干俯いて黙り込んだ蒼。その様子に裕也は目を細めた。話すこと――目立つことをしたくない、と。そういう瞳をしているように見えたから。
如月蒼――それは、裕也でさえも知っている。昨年のインターハイ男子五千メートル、その表彰台の一番高い所に立った立った人物だったのだから。
――――けど、そんな奴が来るか、普通? 極北大学に。
目立った実績を残している誰かが、このチームの中にいるのであれば――まあ、解らなくもない。だが極北大の面々は、「一人」を除き、全国的に見れば全くの無名だ。その「一人」――久蓮の存在は、選手を集めるのに足るネームバリューなのだけれど、久蓮は未だ、世間的には姿を消したままなのだ――三年と少し前から、ずっと。
如月蒼が怪我をした、という話は特に聞いていない。だからこそ、彼がここにいるということには驚きと疑問が溢れるのだ。
「彼は富樫裕也、二年生。冷静さが売りの道産子だよ。ベストは十五分八秒」
「よろしく、蒼」
久蓮の紹介に、いつも通り冷静な声色で反応をしながら、蒼を見つめた。居心地悪そうに反らされた視線に、裕也は再度目を細めた。その様子に、悪意はない。あるのは――怯え……? その真意は、解らない。
「この子は知ってるね、桃谷君。とりあえず唯一の同期だし、仲良くねー」
「よろしくーあお! がんばろうね」
淋しく尖った目をした蒼とは、酷く対照的に。先週入部した新入生――桃谷翔太はきらきらと輝く色を湛えてにこりと笑んだ。
この二人が、今年の新しい仲間、ということだ。彼らを迎えた極大陸上部には、どんな風が吹くのだろうか。
「で、改めまして、オレは篠崎久蓮。ここの主将兼マネージャー」
「はぁ!?」
「ええぇ!?」
「なんでお前も驚いてんの」
裕也の思考は、叫びにも似た声に中断させられた。
叫ぶ気持ちは、まあ、解る。久蓮の走りは、マネージャーのそれではない。当の久蓮は、驚く新入生二人の反応に、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
「で! 新たな部員を迎えた我々の今年の目標はー。ズバリ、全日に出ることでーす」
――――え、全日……!?
アイスブレイクは終了! ――という言葉が聞こえてきそうな表情のまま、今日の夕飯の献立でも告げるかのように軽く告げられたそれは。全日本大学駅伝対校選手権大会出場、という目標。激戦区から隔離されているとはいえ。ここのところ極教に勝てていない現状。そして、新設された帝北大の存在――相当に難易度の高い目標だった。
ざわざわと騒がしくなる面々の様子を眺め、久蓮は更に笑みを深めて言葉を続けた。
「だーいじょうぶだって! オレたちならできる」
満面の笑みでそう告げられて尚、空気が軽いのは久蓮の周りだけだ。
「今年はオレも走るしね」
「――!?」
付け加えた言葉に、裕也は目を見開いた。"無敗の帝王"が、走る。大学三年間マネージャー業を務め、一切レースには出てこなかった久蓮が。大学生最後の一年を選手として過ごすというのか。
何かが始まる予感がする。――とても、大きな何かが。待ち構えているのは、大きなうねりを伴って皆を拐う、大波だ。逃れる術は、――ない。
嫌が応にも感じる期待感に、裕也は首を振った。




