19.蒼の変化(天恵7年6月上旬)
雨が降り続いている。快晴だったあの合宿を境に降り始めた雨は、翌週木曜日の今日もまた、激しく世界を打っては揺らし続けている。梅雨がないと言われている北海道にも関わらず、止む気配がない。
窓の外を眺めながら、真平は呟いた。そういえば、去年の今頃もこんな感じだった。
「雨、止まないねぇ」
既に練習を終えてかなりの時間が経ち、サークル棟には最早人の気配がない。窓から覗く建物の外の景色は、夜の帳に覆い隠され判然としない。ただ窓を打つ雨音だけが外の様子を伝えていた。
皆の練習を見て、自分の練習として補強やウエイトトレーニングをし、その後にまとめ作業をしている。だいぶ慣れたとはいえ、まだまだ時間がかかる――ということで、今日も今日とて、こんな時間だ。
今、この部室には、既に真平と蒼以外の姿はない。静かな空気の中、今日の練習結果と皆の動画を久蓮に送って報告を終えた。最近の久蓮は研究室が忙しく、部活の時間にあまり参加できないでいる――真平がいることで、多少なりとも安心して部を任せてもらえるのであれば、そんな嬉しいことはない。
今まで真平が帰るときにはいつもまだ部室に残っていた久蓮は、いつもこんな感じだったのだろうか?
「じゃあ、僕はこれで帰るから。君もあんまり遅くならないうちにね」
いつもより入念にケアをしている蒼に声をかけ、真平は帰途についた。
*
なんだか雲行きが怪しくなったのは、その翌日のことだった。昨日まで、あんなにも降っていた雨が嘘のような快晴が、唐突に夏の兆しを運んでくる。
「久蓮の奴、今日も休みだとよ」
「――!」
部活始めの集合で範昭が告げた言葉。久蓮が不在にすることは、ままあることなのだが、そのとき、蒼は少し不自然に反応した。どこかそわそわしたようなその様子に、真平は首を傾げた。目くじらを立てて言及する程ではないが――そもそも、今日の蒼は酷く寝不足そうな顔をしている。
どこか上の空でアップを始める蒼を見遣って、真平は目を細めた。
*
結局のところ、真平の違和感は正しかったようだ。あれから蒼は、徐々に様子がおかしくなっていった。好意的に見ると、練習にとても意欲を燃やしているのだ。だが、怖い程のやる気を見せる蒼は、傍から見ると心配になる程だ。先日までは、キラキラと顔を輝かせて、心底走ることを楽しみにしていた蒼が、今や険しい顔をして練習を重ねているのだ。
そしてそれは、七月に入っても変わらなかった――いや、更にエスカレートしていった。
今日も今日とて、蒼は居残りの練習をしていた。定められた本数を終えても、更に本数を重ねていく蒼を多めに眺めながら、真平はそのタイムと走りを記録していた。暫く眺めていたが、そろそろ潮時かと、腰を浮かせた。そのフォームはかなり乱れてきていて、これ以上やりすぎると思わぬ怪我の危険性があるだろう。そして、そう思ったのは真平だけではなかったようだ。
「今日は、もう止めときな。蒼」
「どうしてです!?」
「明らかにオーバーワークだろ、お前」
「そんなこと――」
「ないとは言わせないよ? ――落ちすぎ」
走り出そうとした蒼を、裕也が止めた。意地になって否定の言葉を紡ごうとする蒼に、真平は追撃をした。記録アプリを片手に、今日の結果を表示する。そこに映されているのは、明らかな質の低下を示すグラフだ。これ以上やりすぎることに、メリットはない、と――。
「僕みたいに、なる気なの?」
「違います」
自身の足首を指しながら問いかける。真平は、蒼にまで怪我などして欲しくはなかった。それは、もちろん久蓮のためでもある。真平が離脱した以上、これ以上メンバーを減らすわけにはいかない。けれど、それ以上に。ようやく走ることを楽しめるようになったらしいこの後輩に、そんな辛い思いをして欲しくないのだ。
「どうした。なんか焦ってないか?」
「なんか、……って。どうして、あんた等は……どうしてそんなに余裕なんですか……!」
「何?」
「全日に出るって……。最大の敵は帝北。全然、足りてないのに……!」
「皆しっかりやってんだろ」
「それじゃ足りないって言ってるんですよ! 僕はっ!」
いつの間にか集まってきていた皆。それだけ皆、蒼の事を心配していたということだ。焦りに駆られているらしい蒼には、それは煩わしく感じるのだろう。裕也の言葉に言い返す蒼は、苛立ちに瞳を揺らしている。
「どうしたのさ、あお!」
「お前、この間からちょっとおかしいぞ?」
「おかしいのは、あんた等の方だ! このまま久蓮さんにおんぶにだっこでいいのかよ!」
「そんなこと……」
「思ってないって言うならもっと必死に走れよ」
「研鑽なんて人それぞれだろ」
「蒼……」
明らかにおかしい蒼の様子に、皆は訝し気な視線を向けている。そうして問うた裕也の言葉に、蒼は噛み付いて叫んだ。否定を返そうとした真矢の言葉を遮って、蒼は更に言い募る。真平は、心配と共に蒼の名を呟いた。
久蓮に頼りきりという状況に危機感を持ってくれるのは、良いことだ。それは、紫吹にも指摘されている極北大の弱点だ。全日に出るという目標を意識してくれるのも良いことだ。だが、これは――。
「お前、自分が一握りだって解ってる? 何でか今年ウチにはたくさんいるけどさ。普通、そんないないもんだろ。天才なんてさ」
「それが何だって言うんです」
「お前らがベストを一秒縮める間に、俺等が五秒縮めても、お前は俺等が努力してないって言うのか?」
あまりにも皆の反感を買う。
事実、言葉を紡ぐ裕也は、蒼に呆れた視線を向けている。その声色は硬く尖っている。ずっと裕也を隣で見てきた真平としては、裕也の気持ちがよく解る。そして、勿論、蒼の気持ちも――。
「それは……。でも――」
「何揉めてる」
「ノリ先輩」
「どっちの言い分も解るがな。"オレは君達に楽しんでもらいたい" ――奴はそう言うぞ」
怯まず言葉を重ねようとする蒼に、鶴の一声ともいうべき声が響いた。いつの間にか輪に混ざっていた範昭に、真平は目を丸くした。範昭は諭すように蒼に語り掛けたが、当の蒼は未だ納得しきれないというように眉を寄せている。そんな蒼に範昭はがしがしと頭を掻くと一同を見回して口を開いた。
「こいつ、貰ってくぞ」




