18.唐突な"ご褒美"(天恵7年6月中旬)
無事旅館に着いた一同は、温泉に羽を伸ばしてバイキングに舌鼓を打った。そうして練習の疲れを癒した後、大部屋に集結していた。今日一日の頑張りを労った久蓮は、普段自分がノートパソコンで使っている記録ソフトのスマホアプリ版を皆に配布した。そして言われるがままにアプリを起動して、真平は目を見開いた。
――――凄い。早速、今日の結果もある……!
確かに皆が戻ってくる前から久蓮は部屋に居たのだから、時間はあったと言えばあったわけだが。というか、あの記録ソフトは高校時代から久蓮が使っていたものだが、まさか自作ソフトだったとは。
「基本はこれからの入力データの閲覧がメインだけど、皆も自分のデータ登録、送信はできる」
「すげえ!」
「皆、練習終わりから部誌を見るまでにラグがあったでしょ。今度からはこれ、使ってよね」
久蓮は手元のグラスを傾けながら、使い方を皆に説明して笑っている。真平も、自身の携帯でアプリを触ってみて、ちょっと感動した。部員全体、チーム平均、部員毎……記録の推移分析など、なんというか――痒い所に手が届く、という感じだ。
これから暫く、真平はマネージャー業に専念しながら、補強・ウエイトトレーニングなどを中心にやっていくことになるが、これなら久蓮不在時も結果報告はスムーズだ。「どうして今なんだ?」という範昭の問いに、久蓮は共同研究先の暮井さんに言われたからだ、と説明しているが。だとすれば、暮井さんグッジョブ、というより他ないだろう。
「皆には、たくさん練習させてるし、しっかり強くなってほしいでしょ。いつも頑張っている、オレの大切な部員達に、いつもありがとう!ってやつな」
「ちょっと待て、久蓮」
「なあに」
「……」
部員たちが何事かと手を止めて久蓮の方を凝視する中、隣に座っていた蒼が久蓮の顔を覗き込んでいた。先程まで白かった久蓮の頬はほんのりと紅く染まり、その表情はすとりと抜け落ちている。あ、これは。そう真平が思ったとき、やや青褪めた範昭が面々を見回しながら叫んだ。
「だっ、れだ!? コイツに酒飲ませた奴!?」
「あ、僕ですね」
「なにか不味いんですか?」
すかさず野々口が笑みながら手を挙げる。これは、確信犯の顔だ。確かに傍から見れば大げさな範昭の反応に、蒼が首を傾げている。違うことと言えば表情と顔色くらい――声のトーンも、話し方も、正直普段と変わらないのだから、気持ちは解る。
「こいつ弱ぇんだよ。で、飲むとな、――」
「ノリちゃん」
「ま、まて……」
その理由を説明しようとした言葉に被せて、久蓮が範昭を呼んだ。範昭がびくりと身体を揺らして制止しようとするが――。
「お前にはいつも感謝してんだよ?これでも。いつも無茶振りしてもきっちり応えてくれるし、皆のフォローもしてくれるし。助かってる。お前自身すごく速くなったし、もしお前が居なかったらオレ――」
「く、久蓮!! 真顔できめぇこと言うなっ」
容赦なくつらつらと言葉を紡いでいく久蓮。暫し唖然としていた範昭が、はっとして猛スピードで久蓮の口を抑える。その顔は珍しく、頭から湯気が出そうな程に真っ赤だ。そう――。久蓮は酔うと相手をベタ褒めし出すのだ。それが例え嘘やお世辞でもこちらとしては嬉しいのに、タチの悪いことにこれは本音なんだそうだ。
範昭を撃沈させたことに満足したらしい久蓮のヘマタイトが、真平を捉えた。
「真平」
「――っ」
久蓮の静かな瞳に射抜かれた真平は、その漆黒に絡め取られたように動けなくなった。呼びかけられた声に返事も出来ぬまま、ただ息を呑んで、その姿を見つめた。
相変わらず表情の抜け落ちた顔で遠い目をした久蓮。表情を変えずに滔々と紡がれ始める言葉が、ゆっくりと真平の鼓膜を揺らしていく。
「お前、ほんと、強くなったよなぁ。前は紫吹の奴と比べられてヘコんでばかりだったのにさ。今じゃ十三分台目前だもんな。ねえ、ほんとはオレ、お前には、オレなんか忘れて、のびのび走って欲しかったんだよ。でも、そうだな、――やっぱりお前とまた走れて嬉しいよ。舞台は、オレ等に任せとけ」
「――っ、っ!」
呼吸さえ忘れて聞き入っていたその言葉は、まるで真平の脳をどろどろと溶かすように甘く甘く響いた。そして、最後に告げられた、頼もしい主将の言葉。それを聞いた瞬間、真平は撃沈した。
顔を両手で覆って、床に蹲るように突っ伏した。顔に熱が集まって苦しい程だ――苦しいのは呼吸か? とにかく、今自分の顔は間違いなく真っ赤だ。胸を渦巻く歓喜が、叫びになって溢れ出さないように押し止めるのに必死だ。
その渦からようやく脱出した頃には、一通り部員たちに声をかけ終わったのか、久蓮は夢の世界へと旅立っていた。蒼に布団へと寝かされた久蓮は、すうすうと穏やかな寝息を立てている。真平はそんな彼をちらりと見つめると、柔らかく微笑んだ。
――――お疲れ様です。いつも、ありがとうございます。たまには、ゆっくり休んでくださいね。
「よかったですね」
「部長……」
野々口ににっこりと微笑まれ、真平は複雑な思いで応えた。確かに嬉しい出来事だが……なんだかこの人の掌の上、という感じがして――けれど結局、部員たちや久蓮の事を想っての行動であるとよく解るのがまた……。
それでも、勇気を貰ったのは間違いない。真平は、野々口に謝意を告げ、決意を新たにした。




