3.怖くない、はずがない(天恵7年4月中旬)
「ようこそ、我が極北大学陸上競技部へ」
ここ数日の淀んだ空模様からすると幾分明るい、その日。いつか自身が聞いたのと、まったく同じセリフが耳に飛び込んできた。とある予感に振り返った翔太は、ぱっとその表情を明るくした。
視界に映り込んだのは、久蓮と――如月蒼。あいかわらず淋しそうな瞳をそのままに、彼はそこに立っていた。そう考えた瞬間、身体はもう既に動き出していた。彼らへと向かって駆け出した翔太は、そのままの勢いで蒼へと突っ込んだ。
どん、という衝撃に、大きく目を見開いた蒼がいた。
「!?」
「あおーー、遅いよー!」
翔太は喜びと興奮で、蒼をブンブンと揺さぶりながらに告げた。
「一体どれだけ待たせるのさ!! おれ、君が来るのをずっと待ってたんだよ!?」
「アンタさあ、僕が来ないとは思わなかったのか?」
蒼はといえば、溜め息を零しながらそんなことを問うてきた。なんで、そんなことを聞くのだろう? それは、心の底からの問いだった。翔太はきょとりと、首を傾げた。
「え? 絶対来ると思ってたよ」
「は? なんでだよ」
「うーん……、……なんとなく?」
そう言って、翔太はにっこりと笑った。だって、久蓮も、蒼が来ると確信していた。それに、蒼だって。口では、入部らない、なんて言っていたけれど。
――――あんなに、全身で言ってたじゃん? "走りたい" ってさ。
「はぁい、集合するよー」
いつにも増してゆるりとした主将の声に、翔太は強張る蒼の手を掴んで集合場所へと駆け出した。
*
「どもっす。如月蒼です。……よろしくお願いします」
「……ってそれだけかよ!」
久蓮に促され、自己紹介をした蒼。あまりにあっさりとしたそれに、すかさず範昭が突っ込みを入れている。その様子をみて、翔太は首を傾げた。話す蒼の瞳に、隠しきれない恐怖の色が浮かんでいたから。それは、間違いなく、翔太たちへと向けられた感情だった。
――――どうして? ここには、怖いものなんて……。
久蓮が順々に皆を紹介していくのを聞きながら、翔太は考える。皆、優しい人たちで、初心者の翔太にも親切に接してくれているのだ。
「この子は知ってるね、桃谷君。とりあえず唯一の同期だし、仲良くねー」
「よろしくーあお! がんばろうね」
久蓮の声が自分の名前を呼んだ。翔太はぱっと思考を切り替えて、蒼へと満面の笑みを浮かべた。同期。その響きが何だか嬉しかった。走る姿を見たのはあの一回きりだけれど、それでも。勘違いではない。きっと、蒼も、"すごい人" だ。
――――それが、おれの唯一の同期……!
翔太は蒼に笑顔を向け続けた。蒼はといえば、場の空気に戸惑ったような表情で皆を交互に見遣っている。
――――大丈夫だよ、一緒に走ろう!
「で、改めまして、オレは篠崎久蓮。ここの主将兼マネージャー」
「はぁ!?」
「ええぇ!?」
――――マネージャー……? だって、一緒に走ってた!
久蓮から告げられたとんでもない言葉に、思わず声を上げた。マネージャー、という言葉に、星陵マネさんの笑顔が浮かぶ。あんなにも綺麗に走っていた――そんな彼が選手でない、など。けれど事実なのだ。蒼と翔太以外、誰も驚いていないのだから。
そこまで考えてふと主将に目を向けると、彼はニヤニヤと笑っている。まるでイタズラが成功した、とでも言いたげである。ああ、と、翔太は納得した。
――――これが、このひとのやりかたなんだ。
かき回して、自分のペースに持ち込む。代表チームのキャプテンだった、彼みたいに。
続いて告げられたチームの目標も、"今年は走る" というその言葉も、挑むかのような自信たっぷりな笑顔も、声もぜんぶ。ぜんぶが――翔太を熱くさせる。魔法みたいだ、と翔太は思った。
――――一緒に、いきたい。この人の目指す路の先へ――。
「じゃ、行こっか」
いつも通りの、主将の号令に背中を押され、雪融け水を跳ね上げながら、翔太はメンストへと駆け出した。
*
暫く走って、そろそろサークル棟へと戻ろうかと、ペースを緩めたその時だった。
「良くなったね、動き」
「久蓮さん!」
後ろから追い付いてきた久蓮に声をかけられた。ほんとうに良くなったのかは、まだ自分では良く分からないけれど。
「戻り?」
「そのつもり、だったですけど……久蓮さんは?」
「ん、オレはあと一周するよ」
「ついてっていいですか?」
「モチロン。ゆっくりだけど良ければ」
にっこりとした笑み。確かに、速くはない。けれども、ゆっくりではないペースで走る久蓮に並ぶ。翔太は感嘆の溜息を零した。相変わらず、本当にきれいな走りだった。一点の曇りもない。そんな――。
「――で、どした? 翔太。訊きたいコト、あるんでしょ?」
そう言って微笑む久蓮には、何もかも見透かされているのかもしれない。
「どうして、あおは……あんな表情……」
「んー。ムズかしいけどねー。お前はどうよ、翔太。世代で頂点近くまで登り詰める程打ち込んだサッカーだろ? 全てを捨てて、飛び込んだ新しい世界――抱いた感情は、希望だけか?」
怖くは、なかったか? と。今までとは違う、そのトーンは、瞳は、強く翔太を貫いた。
「怖くない! ……っ、」
――――はず、ない……。
反射で強がって、けれども、すぐにうつむいた。伏せたまぶたがかすかに震える。
路を間違えたとは思っていない、後悔もしていない、自分で選び取ったいま。――けれど、本当は。極北の地に降り立ったとき。入部を決めてグラウンドに足を踏み入れたとき。一瞬、足が震えた。
「そゆことよ。本質的には、ね」
ぽすり、と。優しい手が、頭に乗った。それでいいの、と。低めの体温から、けれども確かに、温もりが伝わってきて、翔太はぱっと顔を上げた。視界に飛び込んで来たのは頼もしい主将の、笑顔だった。




