13."一人"の価値(天恵7年6月上旬)
先日の衝突の件について範昭は謝罪をしたけれど、久蓮はそれを制止して練習の開始を指示した。冷気すら漂うような久蓮の笑顔に引き摺られ、張りつめた雰囲気のままアップが始まった。
ゆっくりとアップをするその最中にも、右足首はズキズキと存在を主張してくる。今日のメニューはショートインターバルだから、きっと耐えられるだろうが。いつまで隠し通せるだろうか――あの漆黒から。そんな恐怖が真平の胸に巣食った。
*
なんとか練習を耐え切り、翔太と久蓮の特別メニューを見学し終えた真平は、皆と共に再びトラックに集まっていた。練習後の集合が終わった今、それでも皆がここに残っている理由、それは――久蓮と昴の勝負を見学するためだ。
事の発端はこうだ。
終わりの集合でも、範昭は昨日の件を謝罪した。しかし久蓮はそれを受け入れることなく、その矛先は昴へと向いた。軽快な言葉の応酬の末、二人は五千メートルの勝負をすることになったのだ。
僅かな準備時間の後、トラックの周りは再び部員たちで賑う。当然だろう。気になるに決まっている。四年間、箱根駅伝の"王者" 青谷学院大学の頂点――そして、学生陸上界の頂点に君臨してきた男が、この地で初めてその実力を見せるのだ。ましてやその相手は、我等が主将――"無敗の帝王" と呼ばれた彼、なのだから。
「まさか、また、こうして並び立つことになるとはな」
「思いもしなかったって?」
「全て、捨ててきた気でいたからな」
「現実が全てでしょ」
スタートラインに並び立って、軽快に、けれども僅かな棘を孕んだその会話は、普段よりも饒舌だ。その姿はまるで高校時代の彼等のようで、真平は胸が騒めくのを感じた。
「お互い貴重な一回、でしょ? ――本気で来いよ」
「……俺の台詞だ」
二人の間にある信頼。それは、他の誰もが割って入ることなど出来ない程に深い。交錯する二人の視線に、焦熱が宿る。その姿は、真平の待ち望んだ嬉しいものの筈なのに、今心を占めるのは、酷く暗い気持ちだ。
「「さあ、行こうか」」
図ってか図らずか、二人同時に声をかけ、次の瞬間、地を蹴って駆け出す二人。そうして勝負は始まった。
インコースで飛び出した久蓮が、レースのペースを作る。ひたすらに相手――昴を振り落とそうとする荒いペースの乱高下に、アウトコースの昴はしかし、ぴったりと着いて離れない。最初の一キロは、二分四十秒――。
ギラギラと熱い光が交錯し、青銀と赤金の絡み合う焔が迸る。それは、昴と久蓮の本気の勝負の証――真平が幾度も幾度も見てきた、美しい光景だ。真平は、我を忘れる程にその光景に魅入っていた。手が、震える。
アウトコース側から、昴が久蓮を抜きにかかった。さっと先頭が入れ替わる。けれど久蓮も、離されることなくぴたりと斜め後ろをキープしている。抜き、抜かれ、また抜いて。お互いを引き離そうと本気で駆け引きを繰り返している――。そして同時に、お互いが、この程度で離せる訳がないと、確信している。何度見ても圧倒されるこの熱量こそが――。
*
二人同時に飛び込んできた、ゴールライン。観客の誰もが声を発することができない、そんな静寂の中の幕切れだ。時間にして、ぴったり十四分間。土のグラウンドで、久蓮に至っては練習後の筈が。真平は拳を握り締めた。自分は未だ、レースでさえも十四分フラットで走れていないというのに。
そんなことを考えていた真平は、ふと違和に気付いて顔を上げた。昴の呼吸がおかしいのだ。荒い、と言うよりも最早異常な域にある呼吸音。
「昴……さん……?」
「はっ、ぜ、ぜい……ひゅー、ぜい、」
慌てて呼びかける。その声は、静寂の場によく響いた。様子のおかしい昴を一瞥した久蓮が声をかけると、範昭は頷き一つを残してサークル棟の方へと駆けて行った。
*
不安な状況は、やがて終息を迎えた。すぐに戻ってきた範昭が、手に持った薬を施用すると、それまであんなに苦しそうに呼吸していた昴は、徐々にいつもの静けさを取り戻した。
「……判った? これが、……このヒトが、極北にいる……理由」
荒い呼吸を零して、久蓮がぽつりと皆に問いかけた。ゆっくりと頷いた皆を見ることなく、久蓮はぽつりぽつりとその事情を語り始めた。範昭に支えられ上半身を起こした昴はすっかり落ち着き、いつもの彼と変わらない。ただ蒼白な顔色と紫色を呈した唇が、先程の光景が嘘ではないと見る者に告げている。
「そして、……こんな体でも、此処で、走る……理由は――」
「それでも、走りたかった。……諦め切れなかった――それだけです」
促す視線に、昴が淡々と告げた。真平は納得した。久蓮の策略でもなく昴がここにいるのは、そういうことだったのだ。そしてきっと――言わなかったけれど――、昴は、久蓮のために陸上部にいる。
「皆がテレビで見た姿とは、……違うかな? ……けど、今、見たろ? このヒトの事情と、……実力。――まだまだ、こんなもんじゃ……ないぜ」
「簡単にハードルを上げてくれるな」
にやりと笑う久蓮に、昴が苦笑する。そこにある信頼に、真平の心は暗く陰った。蒼は、かつての実力を戻しつつある。そして、本来の昴はまだまだもっと速いのだ。駅伝までに、彼等は更に実力を上げてくる。
その場で告げられた解散の声にサークル棟へと歩を進めながら、真平は思った。そのとき、怪我をしてしまったこんな自分は、久蓮には必要ないのではないか――と。




