12.揺らぐ足元(天恵7年5月下旬)
叩きつけるような強雨の中での練習をしっかりとこなした真平は、けれども硬い顔で僅かに俯いていた。いつしか、ズキズキと明確な痛みを訴え始めた右足首の状態は、恐らく相当に悪いのだろう。
――――どうしよう。
そればかりが、頭の中をぐるぐると回っている。止まらなければ――でも、止まれない。矛盾した理性と感情。どうするのが――。
「真平さん」
「――っ」
びくり。急に声をかけられ、真平は驚きに肩を跳ねさせた。一瞬誰か判らず、怪我のことを見咎められたのではと恐怖した。
「す、すいません……! ……大丈夫です?」
「蒼……。うん、ごめん。大丈夫」
視界いっぱいに映り込んできたのは、心配そうな後輩の顔だった。どうやら、敏感になりすぎたようだ。真平は、ほっ、と息を吐いて苦笑した。けれど、上手く笑えなかったのだろうか? 蒼は不安そうに眉を下げた。その、とき――。
「いい加減にしろよ、あんた」
「何が、ですか?」
「それ、だよ。いつもスカした面しやがって、気に食わねぇ」
「ほー」
突如響いた、冷えた範昭の声に。何事かと思わず振り返った。ただ怒りと冷たさを含んだ、低く鋭い糾弾の声――その向かう先は、昴だった。普段から荒い言動が多い範昭だが、その実優しさが含まれている常。こんな彼は珍しく、場の空気が一瞬で凍り付く。矛先を向けられた当人は、全く動じていないけれど。
「俺等をおちょくって楽しいか? あんた程の才能があれば、練習なんて要らねえってか? ――真面目に走りもしないで冷やかしなら失せろよ」
「三年間彼の隣に居た貴方にしては、視野の狭い事を言いますねぇ」
「あぁ?」
範昭の言葉に、怒りの理由は解った。つまり、この先輩は結局のところ、久蓮が大切なのだ。そんな彼に、僅かに口端を吊り上げて笑う昴は、明らかに範昭を挑発している。
「抱える事情など、誰しも同じではないでしょうに。――ああ、」
昴はそこでふと言葉を切った。じっと目の前の範昭を見、そして、再び笑う。
「心配ですか? ――彼の事が」
ガッ!!! 昴がそう口にした瞬間、範昭が彼の胸倉を掴んで捻り上げた。その勢いは本気のそれだった。
「――、」
「ちょっと!!」
今にも乱闘が始まりそうな雰囲気に思わす口を開こうとした真平を遮るように、蒼の悲痛な声が辺りに響いた。
「そういうの! よくない、と……思い、……ます……」
今までの姿を見るに、こういうことは苦手であろう蒼は、必死に言葉を紡いでいる。そんな姿に冷静になったのであろう範昭と昴は、謝罪を残してサークル棟を後にした。
*
それからしばらくして、凍り付いた空気を壊すように、皆が一斉に口を開いた。
「っはーーー」
「怖かったー」
「ノリ先輩怖すぎでしょ!」
「蒼よく頑張った!」
暗い雰囲気を霧散させたくて今回の功労者の肩をバシバシと叩く。……皆、考えることは同じようだ。張りつめていた分の明るさを取り戻すようにひとしきり騒いだあと、真平はぽつりと零した。
「でも。範昭さんの言い分、解る」
「あー、確かに」
真矢もすぐさま同意を返した。
「昴さんが凄いのは充分知ってるけどさ。不安にもなるよね」
「ノリ先輩、久蓮さんのこと大好きだもんねー」
二人でそんなことを言い合えば、目を見開いてこちらを見つめる、蒼。
「蒼、今めっちゃ疑ったね?」
「……はい……」
「まあ、分かりにくいよなー。絶対認めないし」
「あんなに心配してるのにねー」
そう、範昭の怒りも尤もなのだ。"王者" の名を背負って――例え本人にとっては不本意だったとしても――こうして姿を現した以上、その実力には嫌でも期待してしまうのだ。"久蓮の力になってくれるのではないか" 、――と。その想いとは裏腹に、昴は未だ、その力の片鱗をも見せていないのだから。けれど――。
「人それぞれでしょ、研鑽の仕方なんて」
「うーん、何かあると思います。何か、理由が」
「何か、っていうと?」
「それは……」
それぞれが意見を述べるなか、翔太の呟きを真矢が拾った。
「おれの勘違いかもしれないけど、昴さん、たまに走ったあと、苦しそうにしてる気がするんです」
「練習がキツかったからじゃなく?」
「今日のペース、キツいです?」
真矢の追求に、翔太は言葉を詰まらせながらも、ぽつぽつと言葉を紡いでいく。
ありえない話では、ない。昴が姿を現したときの久蓮の反応を思うに、昴が極北に来たのは偶然だ。昴は、久蓮はここに居ることを知って極北に来たわけではない。とすれば、どうして昴は、極北大学に進んだのか――。間違いなく、何か事情がある。
――――でも、あんまり心配はしていないんだよね。
在学期間は被っていなかったけれど、真平は彼の為人を、他の皆よりも少しばかり余計に知っている。それに、久蓮が絶大な信頼を置く彼が、久蓮のためにならないことをする筈がないのだ。それくらい、久蓮は他人の悪意に敏感だ。本当は、範昭もそれを解っているのだろうけれど――。
たとえ極北で久蓮を見かけたとして、勝算もなしにもう一度彼の前に姿を現すことはないだろう。久蓮にも皆にも自分がどういう存在と見られているか、昴はよく解っている。
「……大丈夫、昴さんは外さない」
落とした呟きは、存外に硬い声色になってしまった。問題は、昴でも蒼でも、久蓮でもない。
――――僕、だ……っ。
進むべき路の先に立ち込める暗雲に、真平は為す術なく立ち尽くした。




