11.見据えるアメジスト(天恵7年5月下旬)
真平の携帯が着信を告げたのは、その日の夜のことだった。奥村紫吹――懐かしいその名前に、真平はその目的を悟った。
「――はい」
「お前、知ってたのか? あの人が極北に居ると」
応答ボタンを押せば、性急なその謂い――いかにも紫吹らしい。
「お前さあ、流石に速すぎない?」
「何が。そもそもお前の記録くらい、チェックしてるに決まってるだろ」
「え……」
「……何がおかしいんだよ」
いくら紫吹が、自分と同じくらいの久蓮シンパだったとして。レースがあったのは今日の昼頃だ。その耳の速さに苦笑と共に突っ込みを入れた真平は、予想外のカウンターパンチを喰らって暫し停止した。意外そうな声を出された紫吹は、むくれた声だ。
「っ、あ、ははは!」
「おい、真平……!」
「あは、――ごめんって」
その声に、可笑しくなってひとしきり笑っていると、とうとう凄まれてしまった。真平は話を戻すために、努めて真剣なトーンで先程の答えを音に乗せた。
「そうだよ、知ってた」
「――あ、そ。……俺には教えてくれなかったのに」
肯定に、紫吹は一瞬息を呑んで、そして小さく呟いた。その声色は淋しさに沈んでいて真平は目を見開いた。でも――。
「久蓮さんのことだから、どうせ理由も教えてくれたんでしょ」
「……ああ、そうだ。"お前を潰したくない" って。そうやって言って――あの人はズルい」
そんなことを言われたら、身動きがとれなくなると解っているクセに、と。紫吹は悔しそうな声を出している。
そう。久蓮は、そういう人だ。相手が欲しい言葉をちらつかせて、自分の本心は見せてくれやしない。そういう人だと解っているのに――いや、解っているからこそ、かの人を放っておけないのだ。そして、そんな真平たちの感情には、久蓮は一切気付きやしないのだ。
「三回詰って、それで諦めた。そのとき決めたんだよ。それなら、――俺は"あの人が求める俺" になるんだって」
溜息交じりに、紫吹は告げた。"久蓮の事など気にせずに、学生陸上界で活躍する才能" に、――と。久蓮の求める彼に、既に紫吹はなっていると、真平は思う。強豪駒河大学で、二年生ながらに既に五本の指に入っている、彼は――。
「……でも、本当は。僕にも教える気はなかったんじゃないかな、久蓮さんは」
「なに?」
紫吹は三回詰ったと言ったけれど、真平の迫り方も大概だったと思う。あの時の自分は、久蓮が消えてしまえば生きていけないと思うほどに、思い詰めていたのだから。そんな真平の思考を察した久蓮の、苦肉の策こそが――。
「本気の暗号だったんだよ。"卒業までに十五分を切ったら教えてあげる" なんて言われて、必死に走って、十四分五十九秒でなんとか達成した僕に渡されたのは」
「暗号?」
「これこれ」
電話口でそう告げながら、紫吹に暗号の原文のメールを送った。
*
From:岩本 真平
To:奥村 紫吹
『100,110,110,100,110,111 | 100,010,100,011,010,011 | 101,010,101,111,101,000 | 100,101,011,100,101,011 | 100,110,110,100,110,111 | 101,001,101,011,001,111 | 100,110,110,100,110,111』
*
「なんだこれ?」
案の定、疑問符に満ち溢れた紫吹の声色だ。まさに、当時の自分と同じ。これを独りで解けと言われた、文系選択の当時の真平の絶望たるや――。
ゼロと一が並ぶそれは、結局二進法だったのだが、それで終わりではないのが久蓮らしい。復号のための鍵が別にあり、それが判って初めて正解がでるのだから。
「それで、結局導かれた答えが『極北大学』だったってわけ」
「お前、解いたのか? これを」
全力の驚愕を伝えてくる紫吹に、当時を思い出して苦笑する。
「二週間はかかったけどね。正直根性だよね。久蓮さんもまさか解くとは思ってなかったみたいだよ」
「自分への執着の深さを読み違えるところは、ほんとにあの人らしいな」
「ね」
二人して苦笑を零した。
「ま、お前の粘り勝ちだな。よかったよ、進路選択の理由が解って。で、あの人の傍にお前がいて」
「……あの時は、ごめん」
「馬鹿。俺は強制したかったわけじゃねー」
駒河大に誘ってくれたあの時の喜びは、三年間の努力が報われたと切に感じる程だった。真平は、確かにそれに救われた――久蓮の許で力になれるのではないか――と。
「……始まったんだ、な」
「うん」
久蓮の、闘いが。
ぽつりと、落とされた紫吹の声は重い。恐らく全てを知っているのであろう紫吹は、真平にそれを漏らすことはなかったけれど。怪我だけでない何かがあることは、薄々察しているのだ。それが何なのか――底が見えない暗闇に、恐怖しそうになる。
「気を付けろよ、真平」
「……え?」
「どういう、……こと?」
「――判らない」
「ええ……」
急にそんなことを言う紫吹に、真平は動揺せずにはいられなかった。聞き返すも的を射ない返しに、真平は困惑するしかない。
「どう来るかは判らないけど……。とにかく、今の状態は駄目だ。あの人さえ潰せば終わる、今の極北大じゃ――」
「……わかった」
紫吹の言葉には、ぐうの音も出なかった。そんな落ち込んだ声色を返した真平に、紫吹は続けた。
「まあ、まだ時間はあるんだから――な」




