10.夢見たはずの光景(天恵7年5月下旬)
迎えた土曜日――今季二回目の、記録会だ。
ついに、この日がやって来た。待ちに待った、久蓮の復帰レースが。自身が走るときよりも余程緊張している自分に気が付いて、真平は苦笑を零した。
「皆、浮き足立ってるなあ」
「そりゃーね。今の世代で、"篠崎久蓮" を知らない奴なんて初心者かモグリでしょ」
男子五千メートル、そのスタートを目前に控えてどこかざわついている会場の雰囲気に、裕也がぽつりと呟いた。すかさず真矢が言葉を返す。正真正銘、大学初レースの久蓮。突然ぱたりと消息を断ったかの"無敗の帝王" が、こうして再び世間に姿を現したのだ。この雰囲気も仕方がないだろう。
「凄いプレッシャーですね……」
裕也がしみじみと呟いた。確かに、その通りだ。もし自分なら、こんな雰囲気の中走るのは、どうしたって慣れないだろう。
「彼の事ですから、きっと招集係のおじいさん達と仲良くお話するくらいには余裕でしょう」
「ちょ、昴さん……それ、めっちゃ浮かぶんですけど!」
「コタツにお茶が似合いそうですねえ!」
わいわいと楽しそうな皆を見ながら真平もからからと笑った。
*
「固いなー。どうしちゃったんだろう?」
レースが始まり、走り出した彼らを見て、真矢が首を捻って言った。
東城皇に、那須伊織。続いて第一集団という、レース展開。蒼は第一集団の最後方につき、久蓮はその真後ろで蒼の様子を窺いながら走っている。真矢の言う通り、蒼の動きは酷く固い。――まるで、インカレの時の状態に戻ってしまったようだ。
「このままで、終わるはずがない……!」
「――え?」
久蓮は必ず何かを仕掛ける。そんな確かな予感に絞り出した真平の呟き。隣で見ていた裕也が、聞き返す声が聞こえた。けれど、それに応える余裕は、真平にはなかった。
「――きた……!」
久蓮が何事か蒼に話しかけて、蒼がそれに応えた、その瞬間――。
アウトに膨らんで蒼の前に出た久蓮の、走りが、変わった。今の久蓮のそれでも、かつてのそれでもない、この走りは。ここから見ても判る。紛れもない――最盛期の蒼だ。
声援が、止まる。皆がその光景に息を呑んだのが伝わってくる。
――――こんなやり方は、知らない。
高校時代も、多様な方法で皆を引き上げてきた久蓮だが。こんな、まさに魔法のようなやり方は。効果は覿面だった。蒼の走りは徐々に伸びやかになり、やがて久蓮のそれと完全にひとつになった。
「――あ、」
そして訪れた、均衡の終末。真平はぽつりと音を落とした。
久蓮の走りが、彼自身のものに戻り――二人の勝負が始まった。抜き、抜かれ、また抜いて。いつになく輝いた表情を浮かべる二人の、目まぐるしく順位を入れ替えるそれは、まるで――。
「す、ご……」
裕也の呟く声が、いやに大きく鼓膜を揺らした。楽しくて仕方がない、と。そんな表情の久蓮。それが、まるで自分のことのように嬉しかった。
――――よかった……! はず、なのに……。
眼下の久蓮は、いつの間にか競り合う相手を皇へと変えている。待ち望んだ歓びに恍惚の表情を浮かべる皇を巻き込んで、引き込んでいく久蓮に、真平の頭に警鐘が鳴っている。
――――どうしてこんなに、……不安なんだ……!
食い入るように彼の青銀を見つめる真平は、眉を寄せた。いつかのように、ギラギラと熱い焔を滾らせている久蓮。その記憶は、真平にとって、痛みに蹲るあの悲痛な姿とひとつながりのものなのだから。ただの記憶――その、はずなのに。
「行けー、主将!!」
真矢の応援の声が、騒がしい会場に響く。その声に呼応するように、久蓮は独り抜け出した。会場の視線を、久蓮だけが攫っている。
――――!?
一瞬、あの駅伝の日――今と似た色合いの、深雪のユニフォームがダブった。けれど、驚きに瞬きをすれば、そこに映っていたのは、見慣れたいつもの彼だった。
たった一人、堂々のゴールだった。かつて呼び称された"無敗の帝王" ――その名に違わぬその姿。久蓮がゴールラインに飛び込んだ瞬間、会場は一層の歓声に包まれた。
「凄い……!」
真矢が呆然と呟いている。グラウンドタイマーは十四分八秒五四で止まっていた。
「――久蓮……さん?」
会場の興奮とは裏腹に、ピリピリと背筋を走る違和感に、真平は息が詰まった。ゴールした久蓮は、そのまま数歩進むと、その場に立ち止まってしまったのだ。俯いたその表情は、ここからでは見えない。顔を上げたら、あの日のような翳った瞳をしているのでは――そんな恐怖に駆られ、真平は久蓮から目が離せなくなった。
やがてゴールした蒼が近付いていき、久蓮は振り返った。一言二言交わして、見開かれた蒼の瞳に浮かんだ歓喜の色に、真平はこのレースの成功を悟った。
ふ、と。久蓮が観客席を振り仰ぐ。その仕草が、強い陽射しによく映えた。
「あ、」
真平は、安堵とともに思わず声を漏らした。こちらを射抜いた久蓮の瞳には、強い光と焔で満ちていたのだ。
「見たか? これが、お前らの主将だぜ。安心してついてこい!」
どく、と、心臓が鳴った。三年間のブランクがあっても、久蓮は何も変わらない。真平は、相変わらずのその頼もしい主将の姿の先に、かつて見たのと同じ頂の景色がちらりと揺れた気がした。




