9.矛盾した感情(天恵7年5月下旬)
「どうする? ……あれ」
「行きますか?」
そんな言葉をかけられたのは、一通りのケアや補強が終わった後のことだ。ぴりぴりと走る違和感はとりあえず落ち着いて、一息を吐いた真平に、真矢は二人の後輩を苦笑と共に見つめていた。
インカレ以降、今まで以上に様子のおかしい、ぴりぴりとした空気の蒼に、臆することなく飛び込んでいった翔太。彼が教えてとせがんだのは、選択外の第二外国語。けれども、なんだかんだ優しい蒼は、翔太を手伝うことにしたようだった。そんな二人は、現在、仲良くドイツ語のレポートに頭を悩ませているところだ。
「ねえ、二人とも。俺らドイツ語だったんだけど、手、貸そうか?」
二進も三進もいかなくなった様子の彼らに、真平は真矢と共に助け船を出した。
「先輩……!」
「救世主……!」
「蒼はフラ語なんだろ? 課題とか大丈夫か? 問題あれば手、貸すよ」
ものすごい勢いで顔を上げた彼らに浮かぶのは、純粋な歓喜。そこに裕也も続き――結局、下級生部員全員でご飯に行った後、勉強会をすることになったのだった。
*
それから約三時間後。食事を終えた面々は、大学図書館の雑談可能スペースにて、勉強会を続けていた。そして、疲れた様子を見せ始めた一年生二人に、真平が声を上げ、真矢がお開きを告げた。
片付けを終え、図書館の外で、帰途についていた面々。
「てゆか、久蓮さんが居れば一発だったんだけどなー」
「頭良いっていう次元じゃないですよね」
思い出したように、零した真矢の言葉に、すかさず同意する。
「だからじゃん? 俺等に交流して欲しかったんでしょ」
「まあ、久蓮さん、研究室めっちゃ忙しいらしいし……」
冷静に返す裕也の言葉に、大介も頷いている。そう。交流して欲しかったんだと思う。共同研究をいくつも掛け持ちしているあの研究室で、久蓮は昼夜問わず忙しくしている。そんなことを告げながら、真平は裕也の意見に心の中で同意した。ここのところ、どこか固く強張った部内の雰囲気を、久蓮は崩したかったのだろう。
明らかに久蓮を敵視し始めた蒼は、その代わりに調子を戻しつつある。きっと久蓮は、悪役を演じているのだろう。そんな彼が、真平たちに求めているのは、そのフォロー。
「でも今日、めっちゃ助かりましたよ!!」
「僕も……かなり捗りました。ご飯も奢ってもらって……すみません」
「そういう時は、"ありがとう" でいいよ」
「こちらこそ! またやろうな」
他の面々も、口には出さないものの、気付いているのだろう。――まあ、そんなものなくても。戸惑いを見せている蒼に、真平は柔らかく笑んだ。
煌めく才能に嫉妬するなんてのは、紫吹の時にやりきった。今はただ、この後輩が、走れるといいと思う。――自分の心のままに。
*
「いいの? 真平、主将と走りたがってたでしょ」
「はい。……でも、いいんです」
翌日、練習を終えての帰り道。心配そうに問うた真矢に、真平は苦笑とともにそう答えた。真矢が指しているのは、次の記録会――その出場種目のことだ。先の集合で、高らかに五千メートル出場の宣言をした久蓮に、一同は異様な程の盛り上がりを見せた。曰く、蒼と真剣勝負をするらしい。ニヤリと悪い笑顔でそう告げた久蓮は、きっと何かを企んでいる。――蒼の力を引き出すための何かを。
そして他のメンバーには、五千メートルと一万メートル、好きな方を走るようにとその希望を募った。そして、一同は皆、一万メートルを選択したのだ。
「だって、見たいじゃないですか」
「ん?」
「久蓮さんが走るんですよ」
「まあ、それは俺も見たいよ。分かるんだけど、そういうものなの?」
俺と違って、君は並んで走れるでしょう? と。真矢は首を傾げた。
「昴さんとかなら、迷わず走ると思うんですけど」
久蓮と一緒に走れる――それは、まさに待ち望んだ瞬間だ。だが、並んで共に走るよりも。彼の走りだけに集中して、ただ魅入っていたいと思ってしまう自分が、確かにいるのだ。それが蒼や昴との根本的な差なのだろうと、解ってはいるけど。結局のところ、真平にとっての久蓮は、あの頃から変わらずそういう存在なのだろう。
「僕は迷っちゃうわけですよ」
それに、少しでも距離を積みたいですから、と真平は笑った。本心だ。駅伝の各区間の距離を考えると、五千メートルを速く走れるようになるだけでは足りない。
「うーん。……まあ、真平が嫌じゃないならいいや」
真矢は若干腑に落ちないような顔をしながらも、納得してくれたようだった。
分かれ道、去っていくその背を見つめて、真平は暫し立ち尽くした。それでも、本音を言うならば、一緒に走りたかった。成長した自分を、隣で感じて欲しかった。
――――けど、ダメだ。
診断結果を告げたあの日。あれ以降も密かに重ねている練習で、日に日に真平の足は違和感を増している。未だそのことを久蓮から指摘されてはいないが、とても鋭い久蓮のことだ。隣で走ればすぐにその異変に気付いてしまうだろうから。
「――っ、」
帰ろうと踏み出した足に、ぴり、と痛みが走る。
――――恐い。でも、止まれない。
沸き上がる暗い感情に呑まれないように、真平は固く拳を握り締めた。




