8.秀才の過信(天恵7年5月中旬)
「炎症――ですね」
「炎症?」
インカレ翌日。午前中の講義が休講になった真平は、極大周辺で一番腕がいいと評判の楠木整形外科へと足を運んでいた。診察を担当してくれた医師の言葉に、真平は首を傾げた。
「ええ。今のところ、骨に異常はありませんが、健が少し炎症を起こしています。練習のしすぎでしょう。痛みが引くまで暫くは、練習を控えた方がいいでしょう」
骨に異常はない。その言葉に、安堵の息を吐く。
「……わかり、ました」
真平の返事は、歯切れが悪かった。練習のし過ぎ――そんなはずはないのだ。だって、まだまだ足りないくらいなのだから。極北の勝利のためには、練習を控えることなどもってのほかだ。
硬い表情に沈みながら、真平は診察室を後にした。
*
無機質にさえ感じられる清潔な廊下を、とぼとぼと歩く。角を曲がって数歩歩いたところで、真平は背後から声をかけられた。
「よお。久しぶりだな、真平」
想像だにしない懐かしい声に、真平は目を見開いて振り返った。果たして、そこには、真平の想像通りの懐かしい顔が立っていた。
「佑介先輩……!? どうしてここに……」
「あー、オレ、今ここで研修中なんだよ」
そこにいたのは、去年までマネージャーとして久蓮と共に部を率いていた先輩――雪沢佑介だった。現在、医学部医学科の六年生で整形外科医希望だと言っていた彼。まさか、こんなところで会おうとは。
「で? 何で病院居んだよ」
「それが……」
佑介の視線に圧されて、真平は今までの簡単な経緯と診察結果を話した。
「――成程な。焦っても良いことねーぞ? ――気持ちは解るけどな」
「……はい、……」
黙って真平の話を聞いていた佑介は、吐息と共にそう呟いた。瞳を覗き込むようにして告げられた言葉には、かつて怪我で選手生命を断たれたという佑介の実感が籠っていた。
俯くままに声を絞り出した真平の肩を、ぽんと叩いて去っていく先輩の背を見送りながら、真平の心は暗かった。
――――それでも、僕は……。
*
その日の夕方。極大陸上部一同は久蓮の自宅マンションに集まっていた。恒例のミーティング、いつものようにレースの反省と分析が行われている。いつも通りの光景――けれど、そこに混ざる異質な存在に、皆どこか落ち着かず集中しきれていない。
全ての話題が終わった後、久蓮は溜息交じりに口を開いた。
「で? もっかい聞かせてもらえます?」
その視線は、異質な存在――六連昴、と名乗った青年に向けられていた。よく聞き知った名前だ。けれども、記憶とは全く異なるその容姿は――。
艶のある黒だった筈の髪はミルクティーのような柔らかい色で、緩くウェーブしながらやや長く下がっている。きりりとしていた鋭い瞳は、かけていた印象などない眼鏡の奥で柔和に細められていた。温厚そうな印象のその人は、一同を見回すと言い放った。
「極北大学大学院生命科学院一年。六連昴、です。皆さんと共に走りたく、極大陸上部の一員となるべくお邪魔しました。――よろしくお願いしますね」
「――って、さ」
あの、レース後の衝撃は、夢ではなかったのだ。一瞬真平は、これは全て久蓮の策略――サプライズなのではないかと疑ったが、どうやらそうではないらしい。だって、昨日の久蓮は、世にも珍しい困惑の表情を浮かべていたから――。
――――でも、だとすると。
その困惑顔を見てしまった真平は疑問が拭えない。久蓮との共謀でないのなら。六連昴ともあろう人物が、何故――こんなところで、院生などやっているのだろうか。
*
「なんとも、ありませんでした」
真平が久蓮にそう告げたのは、ミーティングが終わってわいわいと雑談や勉強を始めた面々が、もう遅いからと久蓮に追い出された後のことだ。帰ろうと促す裕也に、久蓮に用があるからと断りを入れ、一人残った室内。
息を詰めて、真平は久蓮の反応を待った。
「本当に?」
「はい。溜まった疲労で炎症が起きたのだろう、――と」
久蓮の問いに、真平は淀みなく答えた。嘘はついていないのだから、ここで躊躇してはいけない。大したことはない。だから、真平は走れるのだ――これからも。
そんな真平を、久蓮は暫し静かに見つめていた。真平の真意を、見透かすように――。
「……信じるよ? それ」
「走れます」
言い張る真平に、久蓮は視線を数度往復させた。何かを思案する久蓮のその視線はまだ来ぬ未来の風景を映しているのだろうか。そして、ややして。
「――分かった。ただし、ポイント練習以外は減らすこと。それと、ケアの時間を増やすこと」
「分かりました」
小さく溜息を吐いて、久蓮は静かにそう告げた。久蓮は、未だ真平が走り続けることを許してくれた。それは少し意外だったけれど――久蓮の最大の譲歩なのかもしれない。
ケアは、増やそう。久蓮は、例え強度としては高くない練習の後でも、過剰とも思える程にケアを徹底しているのだから、状態の危うい真平は、当然それくらいはしなくてはいけないだろう。だが――。
立ち止まっている暇は――ない。




