7.立ち込める暗雲(天恵7年5月中旬)
荒い呼吸が、耳を打つ。隣に並び、自身を引き離そうとしてくる北市に、真平はぎりりと歯を噛み締めた。
迎えた北海道インカレ。その、男子五千メートル。先の記録会と変わらない、自分の前を走る彼ら。 残りは千五百メートルほどだ。
――――そう、何度も、負けてられるか……!
真平はそう意気込んでロングスパートを仕掛けた。瞬間、反応してきた北市を、振り切って前を追う。ひとつ前を行く那須の背は次第に大きくなり、そして、並んだ。並んだ瞬間、那須が鋭い視線を寄越してきた。その瞳に僅かに驚愕が乗っている。
鐘が鳴る。ラスト一周。
「――っ」
一段上がったスピードに、真平は死に物狂いで着いていく。余力は、ない。それでも、離されたくはなかった。そうして駆け込んだゴール。悔しくも、那須に僅か遅れて、三着。悪くはない。悪くはないが――。
空を仰ぎ、暫し立ち尽くす。
――――まだ、遠い――。
荷物の許へと戻ろうと、足を踏み出した、そのとき。ぴり――。
「――――っ!?」
小さな、けれど確かな痺れが、右の足首から甲にかけて走った。痛みと言うには些細なその違和感は、けれども確実に、真平の中に居座っていた。つ、と背に冷や汗が伝うのを感じた。
嫌な、予感がする。真平はそれを、振り払うことが出来なかった――。
*
翌日。懸命なアイシングの結果か、昨日の違和感は鳴りを潜めていた。だが――。
「……だめだ……」
外周で、控えている一万メートルのためにアップをしていた真平は、震える声で呟いて足を止めた。消えていた筈の痺れは、再び顔を出し、その異常を真平に伝えていた。
――――やばい、かも。
幸いにもこれから走るのは一万メートルだ。そう長いジョグは必要ないだろう。そう自分に言い聞かせて、真平はレース開始をおとなしく待つことにした。
「早いね」
――――!
「……ええ、まあ」
突然、久蓮に声をかけられ、真平は息を呑んだ。すぐに取り繕って応えを返す。動揺は、悟られてしまっただろうか――?
レース前にこの主将が選手に声をかけることなど、おかしいことではないだろうに。真平は自分の失態を悔やんだ。外周では、まだまだ選手達がアップをしている時間帯だ。高校時代から、真平からみれば異常なほどにあっさりとしたアップだった久蓮とは異なり、じっくり入念にアップする性質の真平に、久蓮がそんな感想を抱くのは普通だ。不安はある。それでも――。
「かましてきますから」
「そ? 期待しとく」
やる気と決意に満ちた視線をぶつければ、久蓮は口角を上げてそれに応えてくれた。それだけで、どこまでだって走って行けるような気がした。結局、やることは変わらない。自分が、速くならなければ――。
迫るコールの時間を前に、真平は更衣室へと向かった。
*
「しーんぺいせんぱーーい、ファイトー!!」
「真矢ーーーッ! ついてけッ!」
範昭や翔太の応援の声が、他校の声援に紛れてトラックを走る真平へと届いた。その声に背中を押され、真平は先頭集団へと進み出る。
「調子、上がっとるやん」
「貴方こそ!」
帝北大の三人に続いて四番目に着けている極教の主将宮田に並ぶとそんな声をかけられた。よく久蓮に絡みに来る彼の同輩のこの青年は、帝北に陸上部ができるまでは、この極北で頭一つ抜けた実力者だった。大学に上がってからの、真平の目標だった程に。
そんな彼がレースに姿を見せなくなったのは、昨年晩秋だ。何処かを怪我していたのであろう彼は、これが復帰戦だ。いつも本音の読めないその表情に、確かな歓びが滲んでいた。
「やられっぱなしは、性に合わんやん?」
「ほんと、その通りです……!」
へらりとした笑みの中には、確かに焔が揺らめいている。感化されるように、真平の言葉にも熱が籠る。
じりじりと上がっていくペースに、一人、また一人と遅れていく気配がする。真矢は、どうだろうか。それを確認するだけの余裕は、既にないけれど。それなりに長いはずのレースは、早くも終盤だ。ぴりぴりと走る違和感は、いつの間にか強まっている。気にする余裕は、――ない。
先頭を走っていた東条皇が勝負を仕掛け、集団は一気に縦に伸びた。
――――くそ、
五千メートルではかなり惜しいところまで追い縋った那須だが、かなり差が付いてしまった。走り込みの差、なのだろうか――?
僅かに前を走る宮田に追い縋る。全盛期の走りを思うとキレに欠けるその走り。まだまだ復調中なのだろうか。それでも、なかなか前を行かせてくれないその底力は、恐ろしささえ感じさせる。だが、引く気はない。少しでも、速く。前へ――。
*
ほんの僅か、宮田に先行して飛び込んだゴールライン。弾んだ呼吸を抑えつけて顔を上げれば、少し遠くに久蓮の姿を見留めた。
ぴり。踏み出した瞬間に走ったのは、一層強い痺れだった。思わず竦んだ身体を叱咤して、真平は久蓮の方へと向かう。久蓮はすたすたと歩み寄り、ゼッケンを外す作業を手伝ってくれた。
「みゃーちゃんに競り勝つなんて、ホント、速くなったね」
「やり、ました」
依然、本調子ではない、宮田だが。今まで勝てなかった彼に、勝てただけでも第一歩だろう。ぽん、と真平の頭に手を置く久蓮の声は、柔らかく疲労した身体を包んだ。けれど――。
「けど、」
――――ばれ、てる……!
僅かにトーンを下げて続られた言葉に、真平はびくりと身体を揺らした。
「明日、病院行ってきな」
「っ、はい……」
有無を言わせない口調でそう告げた久蓮に、真平は肩を落として応えた。
――――この瞳から隠し通すことなんてできない、ってわけか。




