3.後に悔いるから、(天恵7年4月下旬)
記録会終了後。極北大陸上部の集合は、日が傾きかけた頃に行われた。
「みんな、初回としては、まずまずの結果だったね。色々思うところはあると思うけど……。今日はまず、お疲れ様、と言わせてもらうね」
輪を描く部員を見回して、久蓮は笑みを浮かべる。相変わらず考えの読み切れない、けれども高校時代とは質の違う笑顔に、真平は複雑な気持ちを隠せない。卒業直前よりも生気のある、――しかし、あのレースの輝きは潰えて久しい、その表情に。
そんな真平の思いを余所に、久蓮は続ける。
「さて、明日はOFFだけど。いつも通り十九時からオレの家で反省会(夕飯つき)やるから、とりあえず都合付く人だけ集合ね」
久蓮の自宅での反省会、MTG、勉強会……。これは、高校時代からずっと行われていた。極北に入学し、久蓮に再会した去年は、懐かしくて思わず涙ぐんでしまったものだ。
「じゃあ、今日は、解散ー。気をつけて帰るように!」
ばらばらと帰途に着く、部員達を見送って、真平は立ち上がった。今日の不甲斐ない結果を繰り返さないためにも、もう少し走らなければ。そう考えて一人歩き出そうとした、その時だった。
「真平」
副主将に声をかけられ、
「顔貸せ」
連行されたのは。
半ば引きずられながら連れていかれるその背で、真平は久蓮のヤンキー、という呟きを拾った。聞こえているであろう、範昭は、黙殺した。
――――あぁ。僕の練習が。
*
「さっきの話、聞かせろよ」
「え?」
「理屈じゃなく速い久蓮の話」
人気の無い場所まで移動して少し。落ち着いたところで、投げかけられたその真意を読めず、真平は聞き返した。そんな真平の様子に、言葉が足りない自覚があったのかどうか、範昭はすぐに言葉を付け足した。
「それは……」
それは、真平にとって忘れられない苦い記憶だった。
「深雪ヶ原が三連覇を果たした、久蓮さんが三年の都大路。――あのレースは負けるはずだったんです」
「何?」
「――僕のせいで」
苦い苦い。吐き気すら込み上げて来る。
話は、至極単純だ。篠崎久蓮に憧れて深雪ヶ原に入学した僕は、彼の足を引っ張ってしまうほどに足が遅かった。ただそれだけの話なのである。
「あの時、レース前から、久蓮さんの膝は完璧に壊れていた。嘘じゃありませんよ。僕は見てしまったんです。レース前日、激痛を抱えて蹲り、歩けすらしない久蓮さんを。……衝撃だった。その時まで、僕は久蓮さんが怪我をしていたことを、そしてそれがそんなにも酷いということを知らなかった」
*
「え……? く、久蓮さん……?!」
忘れ物を思い出して、引き返した久蓮の部屋。先ほどまで、都大路直前のミーティングが行われていた、ホテルの一室だ。そこで真平は、自身の目を疑って呆然と声を上げた。
目の前で蹲るそれは、先ほどのミーティングで力強く勝利宣言をしていたはずの、我等が主将だったのだ。慌てて駆け寄り、その背をさする。
「真、平……?」
きつく閉じられていた瞳が、ゆっくりと開かれる。脂汗の浮いた額も、寄せられた眉も、その瞳に揺れる苦痛も。全部全部、一度たりとも見たことがない、真平の知らない久蓮だった。そんな久蓮が押さえるのは、左膝――。
「久蓮さん! 怪我、脚……!? い、いつからです!?」
「真平、もう少し、声……落として」
「す、すみません……」
頭までも痛そうな仕草をする久蓮は、本当に辛そうだ。
――――そうだ、氷……!
「――さんきゅ、」
患部を氷漬けにして、漸く落ち着いた様子の久蓮は、小さく礼を告げた。
「久蓮さん……その脚――」
「待った。見なかった事にしてよ。あと一日だ、それで全てが終わる」
「――っ、」
聞きたいことは幾らでもあった。けれど、その強く鋭い瞳に、真平は息を呑んで押し黙った。
*
当時の光景を鮮明に思い出し、真平は顔をしかめて話を続けた。
「そして当日。アンカーの久蓮さんに襷が渡ったときには、久蓮さんのベストのペースでも厳しい差が着いていたんです」
連覇阻止を狙う名門・銘華大付属のアンカーは、東条皇。今は帝北大にいる、あの青年だ。
「でも、結果はご存知の通り。――久蓮さんは走ってしまった」
確実な安全圏で襷を受けた東城の衝撃たるや、想像を絶するものだろう。鮮やかな逆転劇に、会場は沸いた。チームも沸いた。――事情を知る若干名を除いて。
ゴール後、チームの皆に揉みくちゃにされながら、その中心でひっそりと、昏い硝子玉のような目で嗤う久蓮。その表情は、今も真平の目に焼き付いて離れないのだ。どんなに劣勢でも、勝ちという目標がある以上久蓮は走ってしまう。異常なまでに、自身の限界を超えて。その度に、彼は自身を擦り減らしてしまうのに――。
「なるほどな。……事情は分かった」
息を吐きながら、範昭は言った。
「だが……どうして、奴ぁそこまで勝ちに拘ってたんだ?」
「正確には、知りません。確かに、部の目標で……久蓮さんは主将だった。けど……」
正確には、教えてくれなかった、だが――。
真平はそこで言葉を切って黙り込んだ。
「……それだけじゃ、ない。何か、別の――きっと、その事情こそが、久蓮さんをあそこまで勝利へと駆り立てて――」
「……」
確信は、無い。それでも――。あの久蓮の拘りは、絶対に何かがあるのだ。
「きっと、紫吹は知ってたんです。けど、どんなに詰っても、教えてはくれなかった。……しょうがないですよね。僕があいつでも、そうするから」
奥村紫吹――今は駒河大でライバル達と鎬を削っている真平の同期は、時々凄い表情をして、久蓮を見ていた。複雑な感情の入り交じった表情で――。
「……そう、かよ」
ぽつりとそう零した範昭を置いて、真平は今度こそ練習へと向かった。――まだ、足りないのだ。
――――今度は、あの時のようにはさせない。そのために、僕はリベンジの舞台に上がったのだから。




